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三田誠広の小説教室
三田誠広 (みた まさひろ)
1948年、大阪府生まれ。早稲田大学文学部卒業。高校在学中に『Mの世界』で作家デビュー。1977年、『僕って何』で芥川賞を受賞。『いちご同盟』『地に火を放つ者』など著書多数。日本文藝家協会副理事長。武蔵野大学文学部教授。
三田誠広先生の作品一覧はこちら


【今回の作品】
新井満『尋ね人の時間』 現代人の心の空洞を描く


 芥川賞は新人賞ですが、格上の新人賞ですので、芥川賞を受賞するまでは、よほどのベストセラーを出さない限り、ずっと新人の扱いで、候補に選ばれます。受賞者の職業として多いのは、作家ということになるのかもしれません。すでに何冊も単行本を出しているような人でも、芥川賞を受賞するケースが少なくないのです。ですから、文芸誌の編集者や新聞社の文芸担当者にとっては、候補者は皆、既知の人ということになります。
 これとはべつに、他業界ではすでに有名人というような人が、小説を書くようになって、文芸分野では新人扱いされるというケースがあります。お笑いタレントの又吉直樹さんはその代表格ですが、演劇関係の唐十郎柳美里本谷有希子山下澄人など、美術関係の池田満寿夫尾辻克彦赤瀬川原平)など、詩人の清岡卓行、三木卓など、ミュージシャンの辻仁成、町田康など……。ところで、新井満さんの場合はどうなのでしょうか。
 この人は電通の社員として広告関係の仕事をするかたわら、森敦『月山』に曲をつけて自分で歌う、といったことで、業界に名を知られるようになりました。CMソングを自分で歌ってヒットさせるなど、ただの広告マンではなく、自分で企画を立ててさまざまなことに挑戦する人のようです。最大のヒットは秋川雅史が紅白歌合戦で歌って世に知られた『千の風になって』の作詞作曲でしょうか。これはずっとあとのことですが、『尋ね人の時間』で芥川賞を受賞した当時も、すでに有名人だったように思います。
 他業界から横すべりで作家になる人が出現すると、ぼくのように小説一筋で生きてきた人間は、何となくシラケるというか、この人は新人なのか、という気がすることがあります。又吉さんの場合は、お笑いという、まったく異なった世界の人でしたので、新人の資格はあるという気がしたのですが、戯曲作家、詩人、エッセイストなど、言葉を扱うプロの場合は、すでに言葉のプロだろうという印象をもってしまいます。新井さんの場合は、広告関係の総合プロデューサーであったり、作詞を手がけたりということで、文学とは無縁のお仕事だったのですが、それでもなあ、という感じがしました。


口あたりのよい読みやすい文章

 さて作品についてなのですが、読み始めるとすらすら読めますし、プロとして実績のある写真家が主人公なので、業界のパーティーとか、そういう場面が出てきます。離婚歴があり、娘がいるというのも、よくある設定だと思います。五木寛之とか、伊集院静とか、業界に詳しい作家は直木賞には多いのですが、芥川賞の場合は下積みの貧乏人を描いた作品が多いので、こういう小説は新鮮な印象を与えたのかもしれません。読みやすいというのは、文章がよく練れているということです。素人の文章はゴツゴツしていて、あたりが悪いことが多く、言いたいことがたくさんあるのに言葉が追いつかないというもどかしさを感じることが少なくないのですが、この作品はウェルメイドです。言いたいことを抑えて、読みやすさに徹しているということなのでしょう。もしかしたら言いたいことなどないのではないかという気が、ちらっとするのですが。
 おしゃれな小説だと思います。言いたいことがある小説……、たとえば、自分はこんな苦労をしているとか、社会の底辺に生きているとか、難病をかかえているとか、そんな話は読者の同情をひくことはあるでしょうが、読んでいるとつらくなります。そういうトガッた要素を排除して、口あたりをよくする。それがおしゃれだということでしょう。出版業界とか広告業界とか、若い人があこがれがちな業界を描いている点も、おしゃれだといえるのかもしれません。しかも、業界ネタにありがちな、暴露趣味はないのですね。上品に、さりげなく書いている。完成度の高い作品だと思います。


若者の虚脱感をさりげなく書き込む

 ウェルメイドだと言いましたが、青春小説ふうの悲しみも伝わってきます。ある業界で新人として認められ、安定した地位を築く。これは多くの若者にとっての夢のようなものだと思います。その夢が実現され、業界で仕事ができるようになれば、少し安心します。しかしその先に、精神的なピンチがやってくることがあります。かつての自分にとってはあこがれの場所であっても、そこで仕事をするようになれば、ただの退屈な日常なのですね。夢を実現してしまうと、もはや夢がなくなってしまう。その虚脱感みたいなものが、さりげなく書き込まれていて、この作品に深さをもたらしています。作者はもちろんそこまで計算して書いているので、その意味でも、ウェルメイドな純文学作品だといっていいでしょう。
 はっきり言って、芥川賞の選考委員でも、こんなおしゃれな小説は書けないのではないでしょうか。ですから、選考委員が正当に評価できるのかという気もしないではありません。運が悪ければ、通俗的であるとか、中身がないとか、そんな批判を受けて切り捨てられるおそれもあったと思います。ちなみにこの時期は、芥川賞をとりそこなったすごい作家が何人もいることで、黄金の時期だと見られています。島田雅彦山田詠美吉本ばなな……。こういうライバルと競いながら、新井さんは腕をみがいたのでしょうね。


→第九十三回 これぞ地味な純文学の至宝へ



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