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三田誠広の小説教室
三田誠広 (みた まさひろ)
1948年、大阪府生まれ。早稲田大学文学部卒業。高校在学中に『Mの世界』で作家デビュー。1977年、『僕って何』で芥川賞を受賞。『いちご同盟』『地に火を放つ者』など著書多数。日本文藝家協会副理事長。武蔵野大学文学部教授。
三田誠広先生の作品一覧はこちら


【今回の作品】
高橋揆一郎『伸予』 未亡人の元教師と教え子の恋を描く


 ぼくが芥川賞を受賞したのは、昭和52年の夏、第77回でした。長い芥川賞の歴史の中で見ると、もう前半に入ってしまうような、遙か昔のことです。初めての候補で受賞したので、幸運だったと思っています。子どもが2人もいるのに、勤めていた会社を辞めて、背水の陣で小説家を目指していましたので、受賞したいとは思っていましたが、自分の作品がどの程度のレベルなのかは、わかりませんでした。どんな候補作があるのかも実はよく知らなかったのです。
 あとで選評を見ると、この77回は候補者のレベルが高く、なかなかの激戦だったのですね。その候補者の中に、高橋揆一郎さんの名前がありました。『観音力疾走』という作品です。選評では、井上靖さんと吉行淳之介さんが、高く評価されています。
「一番面白く、読みごたえのあるものであった。人間の業を取り扱っているが、最後までその主題にしぼって作り、構成し、書いているところはみごとだと思った。」(井上靖)
「語り手の女主人公も、その亭主になった炭坑夫も、魅力的に描けている。パターンになりかかる話の筋を、ふっくらとして同時に勁いところのある文章で救っている。」(吉行淳之介)
 他にも「短篇小説としては一番すぐれていると思った。」(永井龍男)という評もあって、この作品が受賞していてもおかしくないという気がするのですが、どういうわけか、受賞しなかったのですね。結局、この回に受賞したのは、池田満寿夫三田誠広です。池田さんの作品は、有名な版画家の受賞ということで話題になりました。内容がエロチックなものであったことも、論争を呼び起こしました。ぼくの作品は学生運動を描いたもので、まだ学生運動というものが社会的な問題になっていた時期でしたので、注目されることになりました。


純文学の王道を行く作品

 結果としてこの二作品は話題となり、ベストセラーとなりました。掲載誌の『文藝春秋』も百万部くらい売れたといわれています。選考委員の心の内にも、この作品が受賞したら話題になるな、といった、ジャーナリスティックな判断が生じることがあると思います。自分は強く推さないけれども、他の選考委員が責任をもって推薦するなら、あえて反対はしないといったスタンスになることがあるのではないかと思います。実際には池田さんの作品をめぐって激論となり、選考委員の一人が辞任することになったのですが、そのことも当時は話題となりました。
 前年の村上龍の作品が大ベストセラーとなったこともあって、この時期の芥川賞は、ジャーナリズムの最先端に位置づけられていました。そういう状況の中では、高橋揆一郎さんの作品は、いかにも地味なものでした。寂れた炭鉱の、炭鉱労働者の妻の話……、やっぱり地味ですよね。今回の『伸予』が受賞したのは、一年後のことです。初老の女の密かな恋情……、これも地味な設定です。こういう地味な物語を紡ぐのが、高橋揆一郎さんの得意技なのです。
 市井の民衆の寂しい人生のヒトコマを、抑制された自然主義リアリズムで描く。まさに純文学の王道を行く作品です。ぼくと池田さんの話題作のために落選してしまった高橋揆一郎さんが受賞して、本当によかったと思いました。選考委員の先生方も、同じような心境だったのではないでしょうか。ほとんどの委員が絶賛に近い選評を残しています。


初老の女性の恋を「リアリズム」で描く

 中学生と女性の教員、教え子と先生、そういう関係で、とくに親しくなるということは珍しいことではないと思うのですが、この作品はそれから三十年以上たってからの、初老となった女性の情念を描いています。初老の女性が恋をしてはいけないというわけではないのですが、あまり小説で描かれることのないテーマですし、それをロマンチックにというのではなく、リアリズムで描くことで、何となく異様で奇妙な話になっているのですね。そういうこともあるだろうとは思うのですが、こういう作品を書くことに、作者にとってどういう意味があるのか、という疑問も生じます。選考委員の中にも、そういう疑問を提出した人がいました。
 純文学というのは、どうしてもこれを書きたいという、やむにやまれぬ強いモチベーションが感じられる作品が評価される傾向があります。これに対して、中間小説や大衆小説は、読者のニーズに沿って書かれますので、作者自身の切実な問題というよりは、読者に対するインパクトを重視することになります。高橋揆一郎さんは北海道の炭鉱周辺の貧しい人々を描き続けた作家ですが、しだいに書き慣れて、ウェルメイドの中間小説に近づいていくという経過をたどりました。
 これは多くの作家に共通することなのですが、書き慣れてくるとしだいに自分離れしていって、テーマの切実さが失われていくことになります。この作品はそういう意味で、境界線に近い作品だと思います。ここを通りすぎると、すでにベテランの作家だということで、芥川賞の候補にはならなくなるのですが、そういう経過を経て直木賞を受賞した作家はたくさんいますし、そちらの方が作家としては長続きするのかもしれません。けれども、芥川賞の候補にならなくなって、そのまま消えてしまう作家も少なくないのです。そういう意味では、この作品で高橋揆一郎さんが受賞されたのは、ほんとによかったなと、改めて思います。


→第八十六回 アヴァンポップの名作へ



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