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三田誠広の小説教室
三田誠広 (みた まさひろ)
1948年、大阪府生まれ。早稲田大学文学部卒業。高校在学中に『Mの世界』で作家デビュー。1977年、『僕って何』で芥川賞を受賞。『いちご同盟』『地に火を放つ者』など著書多数。日本文藝家協会副理事長。武蔵野大学文学部教授。
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【今回の作品】
庄野潤三『プールサイド小景』 ささやかな幸せの脆さを描く


 終戦直後に現れた第一次・第二次戦後派と呼ばれる書き手たちは、戦争という大きなテーマを掲げ、国家のあり方、社会や経済の問題について、小説によって問いかけるといった、社会性の強い作風でした。その直後に現れた、個人の日常を丹念に描いた作風の新人たちは、社会性が欠如していると批判され、最近の新人はパッとしないといったニュアンスで、第三の新人と呼ばれていました。庄野潤三はその中心メンバーです。
 個人の日常を描いた作品は、戦前から私小説と呼ばれてきました。自分はダメな人間だと、自虐的に書く太宰治のような無頼派と、自分は偉い、と達観したような文章を書く志賀直哉などの心境小説に大別されます。しかし第三の新人の私小説は、そのどちらでもありません。戦争の影響を大きく受けて、どうしたらよいかわからず、うろうろしている……。そんな頼りのない日常を描いたものです。個人の些末な生活を描いたようでいて、やはり社会性が秘められています。


平明で素直な文体

 この受賞作は、不都合があって会社をクビになった中年の男が、友人が先生をしている学校のプールのそばで、ぼうぜんと時を過ごしているさまを描いたものです。困惑した人物の苦悩をセンチメンタルに歌い上げたものではありません。人間は何のために生きるのかといった大げさな問題提起もありません。淡々としていて、ちょっと頼りない感じがします。これで芥川賞か、と不思議に思う人もいるかもしれません。でもこの淡々とした文体が、庄野潤三の魅力なのですね。
 庄野潤三は平明で素直な文章を書きます。あまりにもシンプル過ぎて、素人っぽい、幼稚な感じがする、といった批評も出てきます。この作品は四度目の候補作で、ようやく受賞ということになりました。選考委員の皆さんも、少しずつ、この文体に慣れてきたのではないかと思われます。
 庄野潤三のヒット作は、少しあとに日経新聞に連載した『夕べの雲』でしょう。小田急線生田駅から多摩丘陵をかなり登ったところにある新興住宅地での、一家五人の家族を描いた作品です。お姉ちゃんがいて、その下に男の子が二人います。作家らしい父親と子どもたちの交流が、穏やかに展開していきます。事件は起こりません。悩み事も描かれません。毎日が静かで、しみじみとした幸福感が読者に伝わってくる。そんな作品です。
 読者の多くは戦争体験者です。皆、いろいろと苦労をしたのですね。ああ、日本も、やっとこんな平和な時代になったのだと、多くの読者が、この作品に魅せられたのでしょう。その庄野潤三にも、無頼派だった時代があったようです。初期に書かれた『静物』という作品では、夫の無頼な生活に絶望した妻が自殺を図るエピソードが書かれています。睡眠薬を多量に飲んだ妻は、動かぬ物体、すなわち静物のように横たわっています。今晩が峠だと医者に言われた主人公が、祈るような思いで動かぬ妻の姿を見守っている……。


「日常」と「破綻」の絶妙なバランス

 戦争中、あるいは戦後の混乱期には、誰もが生きるか死ぬかという体験をしたのでしょう。だからこそ、何事も起こらない穏やかな生活を描いた『夕べの雲』が、ベストセラーになったのです。少しあとで書かれた『絵合せ』というのも名作です。この五人の家族はとても仲がよくて、いつもカードゲームをして楽しんでいるのですね。でも、お姉ちゃんがお嫁に行くことになります。そのゲームは、五人くらいいないとできないようなので、お姉ちゃんがいなくなると、もうゲームができないね……。そんな話です。
 そんな話なら、どこにでもころがっていそうなのですが、庄野潤三のほとんど無邪気ともいえる透明な文体で描かれると、すべてのエピソードが珠玉のように輝きます。晩年の庄野潤三は、ほとんどエッセーのような、日記の断片のような、小学生の作文のような文章を、文芸誌に連載していました。
 田舎からりんごが届いた。りんご、おいしい……。
 そんな文章です。これが文学か、という気がしないでもないのですが、庄野潤三は亡くなるまで、多くのファンに支持されていました。だから本が出れば売れ続けたのです。穏やかに生き、ふつうに幸せになる。それだけのことを綴っているのですが、よーく考えてみると、ふつうに幸せになるというのは、いまの時代には、とても難しいことなのかもしれません。
 この『プールサイド小景』という作品は、ふつうの幸せに、わずかに破綻が生じた、そんな時間を描いています。でも、奥さんの自殺を描いた『静物』ほどのスリルはありません。穏やかな日常と、わずかな破綻。そのサジ加減が、この名作を生み出したのだと思います。何度も読み返して、じっくりと味わえば、しだいにこの文章が、胸の内にじわじわとしみこんできて、あなたも庄野潤三のファンになるのではと思われます。


→第七十八回 芥川賞の珍事というべきかへ



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