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三田誠広の小説教室
三田誠広 (みた まさひろ)
1948年、大阪府生まれ。早稲田大学文学部卒業。高校在学中に『Mの世界』で作家デビュー。1977年、『僕って何』で芥川賞を受賞。『いちご同盟』『地に火を放つ者』など著書多数。日本文藝家協会副理事長。武蔵野大学文学部教授。
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【今回の作品】
花村萬月『ゲルマニウムの夜』 性と暴力を通じて宗教の暗部を暴いた作品


 私小説は日本文学の伝統ですが、自分の弱さをさらけ出す無頼派的な告白小説と、私的な素材から人間そのものについて考察する心境小説とに分けられます。この作品は私的な体験を素材としているように見えます。ドラッグや酒に溺れた犯罪すれすれの自堕落な生活を送っていた若者が、自分のルーツとも言える児童自立支援施設を併設した修道院に戻って農場の手伝いをしているというこの作品の設定は、作者の年譜と重なっているからです。幼くして両親を失い、施設に収容され、不幸な体験を重ねて自暴自棄になった主人公は、作者にとって自分と等身大のキャラクターなのでしょう。
 素材が私的だから私小説といえるかというと、確かにドラッグや酒に溺れるところは無頼派的なのですが、たとえば太宰治が自堕落な生活を送るのは、自分の弱さやコンプレックスが原因です。それから東大生としてのプライドとか、過剰な知性、目立ちたがり屋の本性など、さまざまな要素が絡み合っています。しかし花村萬月の主人公は児童自立支援施設の出身で学歴はありませんし、両親を早くに失ったという自分ではどうしようもない不幸な境遇が出発点ですから、自分の責任で堕落したわけではないのです。これはプロレタリア文学に近い、社会の底辺を描いた作品とも見えるのですが、しかし両親を亡くした子どもがすべてドラッグに溺れるかというと、そういうこともないでしょうから、その意味での普遍性はありません。


観念的な大テーマを、細部の描写で支える

 結局のところこの作品は、花村萬月という作家に特有の、個人的な体験を描いたもの、というしかないのです。そのことを前提としてこの作品を見ると、まずは題材の特異さが目につきます。キリスト教の修道院に教護院(昔はそう呼ばれていたようです)が併設されているというのも、特異な設定ですが、そこにいる修道士が、インモラルな歪んだ性格をしています。それからヒロインともいえる修道尼見習いのような女性が登場するのですが、このキャラクターも特異です。結局のところこうした個性的な人物と、もっと個性的な主人公がぶつかりあうことで、この作品は人間というものの不思議さと、宗教というものの暗部にスポットを当てているように感じられます。つまり、人間と宗教という普遍的な大問題に果敢に挑んだ、哲学性をはらんだものすごい小説なのです。
 そのようにテーマはやや観念的なのですが、作品を支えているのは細部の描写です。主人公は農作業の手伝いをしているのですが、冒頭いきなり、飼われているブタの性交の描写が出てきて、読者は仰天させられます。競走馬や黒毛和牛の種つけといったテーマは、テレビのドキュメントで扱われていて、ぼくも見たことがあるのですが、ブタというのは想定外でした。あの可愛いブタさんがセックスをするということに、ぼくは茫然としてしまいました。このように、農場で働いた人でないと体験できないディテール(細部)がきっちりと描かれているところが、この作品の特質です。観念的な大テーマが、具体的な細部で支えられているので、読者はいやおうなく大きなテーマについて考えさせられてしまうのです。


苛酷な少年時代の象徴としての鉱石ラジオ

 それから主人公の苛酷な少年時代の象徴として、鉱石ラジオが効果的に用いられています。タイトルになっているゲルマニウムですね。鉱石ラジオといってもいまの若い人はご存じないでしょう。昔のラジオは真空管という、ガラス管の中にプラズマの火花が飛んでいるような装置で電波の増幅をしていたのですが、やがてトランジスタやダイオードなど、半導体を用いた装置が主流になります。半導体といえばいまはシリコン(ケイ素)が用いられるのですが、元素の周期表でケイ素のすぐ下にあるゲルマニウムという鉱石にも、半導体としての性質があり、このゲルマニウムを用いた鉱石ラジオというものが、少年たちの宝物みたいになっていました。安価な組み立てキットを購入して自分で組み立てるのが主流で、主人公はその鉱石ラジオを大人になったいまでも大切にしているのです。これはピュアな少年時代のシンボルとして、効果的なアイテムとなっています。
 ぼくも鉱石ラジオをもっていました。ぼくは自分で組み立てたのではなく、通信販売で完成品を購入したのですが、ぼくにとっても鉱石ラジオは宝物でした。空中を浮遊しているラジオの電波をゲルマニウムで増幅するだけの装置なので、電池は入っていません。そのためボリュームは最小なのでイヤホンで聞くしかないのですが、電池の交換が不要なので経済的です。その点でも貧しい少年にとっては最適な宝物です。ラジオを聴くためには長いアンテナが必要なのですが、これはコードを鉄の水道管とか、ダイヤル式の電話の指止めとか、自転車のハンドルなどにコードを接触させるだけで、電波を拾うことができるのです。逆に言えば、長い電線があると、それだけでラジオになってしまうのです。鉱石ラジオはその天然のラジオを鉱石で増幅して聴くという装置だったのです。
 ピュアな魂をもった少年が、社会に出てつまずき、中学時代を過ごした施設に戻ってきて、修道士や尼さんと交流しながら、ひどくいびつな生活を送っている。こうした特異な状況が、ものすごいリアリズムで次々と展開していく。農場のむせかえるような臭いで息がつまりそうになる小説ですが、そこにキラキラと、観念的な言葉がラジオの中の鉱石のように埋め込まれている。何とも素敵な作品ですし、作者の個性が爆発しているような作品といっていいでしょう。


→第六十四回 賛嘆と当惑の話題作へ



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