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三田誠広の小説教室
三田誠広 (みた まさひろ)
1948年、大阪府生まれ。早稲田大学文学部卒業。高校在学中に『Mの世界』で作家デビュー。1977年、『僕って何』で芥川賞を受賞。『いちご同盟』『地に火を放つ者』など著書多数。日本文藝家協会副理事長。武蔵野大学文学部教授。
三田誠広先生の作品一覧はこちら
三田先生が、具体的に作品をとりあげて、「小説の書き方」を語ります。



【今回の作品】
小山田浩子『穴』 平凡な日常に時おり現れる異界を描く


 小説(ノベル)というものは19世紀に盛んになったジャンルです。それ以前の物語(ロマンス)と呼ばれる、お姫さまと白い馬に乗った王子さまの話では満足できなくなった大衆が、より現実感のあるストーリーを求め、その時代の社会のありようと、その中に置かれた人間のありのままの姿を読むことによって、この社会で生きていくための指針を求める……。およそそんなことで、小説というものが盛んに読まれたのではないかと思われます。その基本は自然主義リアリズムです。ありのままの社会と人間をありのままに書く。それで19世紀は終わったのですが、20世紀になると、ありのままというだけでは話が進まなくなりました。
 そこで登場したのがチェコのフランツ・カフカです。『変身』という作品の冒頭で、ザムザという主人公がベッドの上で目覚めると、自分が虫に変身していることに気づきます。家族はびっくりして、主人公を虫ケラ扱いします。虫になってしまっているのでそれは当然なのですが、当人にとっては困った事態です。ここで重要なのは、人間が虫になるというのは、現実では起こりえないことなのですが、人間が虫ケラのように生きているとか、家族から虫ケラ扱いされるというのは、まったくもってよくあることなのですね。従ってカフカの作品の背景には、その当時の社会があります。その社会の中に置かれた20世紀の人間の現実があります。つまりこの主人公が虫になるという話は、とてもリアルなのです。


現代女性のカフカ的状況

 これをカフカ的手法と呼んでおきましょう。20世紀末の芥川賞作品は、カフカ的手法のオンパレードだったといっていいでしょう。公園を横切る時に踏んだ蛇が自宅に帰るとお母さんに変身している(川上弘美『蛇を踏む』)。中年のおばさんのところに犬みたいな男が住み込んでいる(多和田葉子『犬婿入り』)。マグロから電話がかかってきてデートに誘われる(笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』)。つまりこの現代という社会は、自然主義リアリズムで描ききれないということなのでしょうが、作者の多くが女流作家だということも特徴的です。現代社会に置かれた女性はカフカ的状況にあるということですね。現代の女性は虫ケラ扱いされている、などと言うつもりはありませんが、虫にならないまでも、何か奇妙な現実離れした状況に追い込まれた女性の姿を描いた作品が芥川賞に選ばれるという傾向は、いまも続いているというべきでしょう。
 今回の『穴』というのも、カフカ的な作品です。主人公は女性です。いきなり変身してしまうわけではないのですが、徐々におかしくなっていきます。共働きの若い夫婦の夫の方が、山奥の町に転勤になります。その近くに実家があることから電話をすると、隣に立てた賃貸住宅が空き家になっているから、そこに住んだらいいと言われます。家賃がただ。しかも二階のある一戸建て。これは魅力的です。妻の方も喜んで勤めを辞め、実家の隣で専業主婦になるのですが……。この設定ですぐに予想されるのは、嫁と姑の問題が起こるということです。山奥の密度の濃い閉鎖的なコミュニティーと近代的な余所者の対立、といったものも予想できます。それに『穴』というタイトル。日本おけるカフカ的作品の先駆者といえる安部公房の『砂の女』という名作が連想されます。


いつの間にか迷宮に迷い込んでしまう

 とはいえこの作品は、虫に変身するわけでも、穴の中に閉じ込められるわけでもなく、ごく日常的な風景がどこまでも続いていきます。会話の多い読みやすい文体で、田舎の実家の隣で暮らすことになった経緯が語られて、予想どおりに何かにつけて嫁に干渉する姑が出てきて、ヒロインの胸のうちにイライラがたまっていく過程が、ユーモラスに語られます。大げさに悩むわけではないのですが、困った、困った、ヘンになりそう、というような状況の中でコンビニに向かったヒロインの前を、見たこともない獣がよぎっていきます。犬でも猫でも猪でもない。あれは何だろうとふらふらとあとを追って野原を歩いていると、タイトルのとおりに穴に落ちてしまいます。べつに閉じ込められるわけではなく、すぐに這い出してコンビニに行くのですが、姑から振り込むようにと渡されていたお金が不足して困惑している時に、コンビニ内にやたらと子ども(座敷ワラシ?)がいて騒ぎまくっている。この怪しい獣、穴、コンビニの子どもたちといったものが、現実には存在しないものだということがやがて明らかになっていきます。
 ヒロインはカフカ的な迷宮に迷い込んでしまったのですね。この作品は、いかにもカフカ的、といった仕掛けを目立たせるのではなく、何げない日常風景をユーモラスに語っていくという、ごく自然な文体が魅力的で、楽しく読んでいくうちに、いつの間にか読者も迷宮の中に入り込んでいるという、その巧妙な仕掛けと、やや軽い語り口が魅力的です。おそらく作者は綿密な計画を立ててこの文体を編み出したのでしょう。リアルな世界と、閉ざされた迷宮の内部とか、メビウスの輪のように、境目なくつながっているというところがこの作品のすごいところです。とてもコワイ作品だと思います。


→第四十二回 心温まるリアリズムの穏やかさへ



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