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  • 週別日別

  • 織田信長
     4歳の夏だった、と思う。水商売の女と金目の物を持ち逃げした叔父を、母が見つけ出し、住処に乗り込んだ日のことだ。愛の巣と言うにはあまりに侘しい、西陽しか射さない何にも無い擦り切れた畳の小さなアパートだった。相手の女性は勤めに出たのか、もう清算されていたのか不在だった。母(叔父からすると実の姉)から、くどくど説教をされていた叔父は、話題をそらそうとしたのか、照れ隠しなのか、「誠、おまえ誕生日迎えていたな。(私は7月生まれ)プレゼントだ!」と言って、1冊いや一塊の本を差し出した。それが、「講談社刊 山岡荘八著 織田信長 全3巻」だった。

     四六判くらいで化粧ケース入りの、上・中・下の3巻。ケースには、暗い朱と灰色を基調として、表1側は“炎の中、仁王立ちの不動明王”のイメージなのであろうか、血まみれの武将が兜の下から、目だけをぎらぎらさせて正面に向いて大刀を構えている姿が描かれていた(ように見えた)。どなたの装画か記憶は無い(残念なことだ)が、装幀は水野石文氏の手によるものだったと思う。奥付には著者「山荘」の検印が点かれていた。とにかく怖かった! 横でヒステリックに実弟を叱っている母の口調より、幼児の私にとって、プレゼントされた本のほうがよっぽど怖かった。記憶があるほどなのだから。

     もちろん4歳の私が読めるはずも無い。その「織田信長 全3巻」は、蔵書なんかほとんどまったく無い我が家の本棚の一角に鎮座することになった。型紙の付いた洋裁の本、小鳥や金魚の買い方、川上宗薫先生の小説などに囲まれ異彩を放つさまは、まさに“本棚の天魔王”のような存在だった。たまに怖いもの見たさに、本棚から取り出してケースだけを見ることはあったが、幼時の自分には近寄りがたい禁書!であった。悪い事をすると、カバーの武将に連れ去られる!?なんて思いながら過ごした。その後、我が家は数度も転居することになるのだが、紛失することも処分されることもなかった。さすがは“天魔王”である。

     実際に読んだのは中学3年生のとき。とても熱中して読んだ。けっこうな長編のはずだが、1~2週間で一気に読了した。学校の休み時間に読み耽っているときに、割と暴力的な親友が「あ~そぼ!」と首を絞めてきたのを、読み続けたいが故に「うるせ~な!」の一言で、胸座をつかんで放り投げた記憶だけがある。それだけ夢中になるほど面白かった、ということだ。しかし、内容はなんにも覚えていない!

     読み終わって以来、“本棚の天魔王”は自分により近い存在になったように勝手に感じて、“本棚の守護神”へと変わった。高校・大学と進学するにつれ、自分自身の蔵書も増え、もっと立派な造本や装幀の書物もあったが、やはり本棚の守護神は「講談社刊 山岡荘八 織田信長 全3巻」に変わりは無かった。大学4年、講談社に入社内定をいただいた際には、叔父と「信長」には真っ先に報告させていただいたことは言うまでもない。それに数ある出版社の中で、講談社に勤めたい、と考えるようになったのも「信長」の縁に違いない。

     今、こうして入社30年を越えてなんとか勤めてこれたのも、叔父にもらった「織田信長 全3巻」のおかげなのだろう、と思う。だから、なんといっても私にとっての「この1冊は「山岡荘八 織田信長」なのである。定年前になんとしても、もう一度読まねばならぬ。今は文庫版しかないが、それはそれでしょうがないし、新しい発見があるかもしれない。

     叔父には本当にいろんなことを教わった。書物・学問・スポーツだけでなく、酒・競馬といった様々な遊びごとも。海外勤務でほとんど不在だった父親代わりでもあり、ろくでもないことを教えてくれる親戚の一人でもあり。大酒飲みで、角刈りでにらむ目つきは怖く、すぐに手が出る男だったが、読書家で、博識で、マメで、よく歩いた。私の人格形成に非常に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。15年ほど前に亡くなったが、棺には感謝とあの世でも護ってもらえるよう想いをこめて「私のこの1冊」を入れさせていただいた。装幀も汚れ、剥げ、ケースも一部紛失、本文も背から取れかけていたが。

     そういえば、物心ついて初めての出会いがそんなであったから、叔父からは女は教わっていなかった。私がまだ独身なのはそのせいか。

    (2015.02.01)
    投稿日:2016年02月24日
  •  東京北区赤羽の古い住宅地で64歳のひとり暮らしの男性が殺害され、その家に家事代行として働きに来ていた30歳の女性が有力な容疑者として浮かび上がる――。

     警察小説を書いてきた佐々木譲が「現実の事件を見ていけば、けっして犯人の逮捕で事件が終わるわけではないと気づいていた。逮捕のその後のドラマを書いてみたかった」(新潮社サイトより)と初めて挑んだ法廷ミステリー『沈黙法廷』(新潮社)――2016年11月に紙書籍が刊行されて半年たった2017年5月5日、ようやく電子書籍の配信が始まりました。
     紙書籍と電子書籍の同時刊行が増えていますが、出版社によって、また書籍によって数か月から半年、1年とタイムラグをとって電子化するケースも少なくありません。昨秋刊行と同時に読んだ本書は、いま私たちが生きている時代をストレートに反映したミステリーです。フィクションですが、現代がそのまま息づいている物語なのです。それを思うと、佐々木譲愛読者としては、半年という時間が何とももったいないと感じてきました。
     佐々木譲はこの新作で、格差社会と呼ばれる時代の翳(かげ)に光をあて、現代社会の歪みを犯罪を通して鮮烈に抉りだして見せました。

     ひとりで暮らす65歳以上の高齢者を「独居高齢者」と呼ぶそうですが、その数はいまや600万人を超えたという。住宅リフォームのセールスマンによって死体が発見された被害者、馬場幸太郎は64歳という設定ですが、「独居高齢者」の一人と考えていいでしょう。玄関が施錠されていなかったことを理由にセールスマンは居間、寝室まで上がり込んでいますが、いったいどんな暮らしぶりだったのか。
     荒物屋を営んでいた父親から引き継いだ瓦屋根の古い一戸建て。商売は継がず会社勤めをしてリタイア。二度結婚したがうまくゆかずに離婚して、ひとり暮らしをしていた。アパートやマンションなど不動産をいくつか持ち、暮らしには困らない。小金持ちの幸太郎は時折、赤羽の無店舗型性風俗業「赤羽ベルサイユ」から若いデリヘル嬢を呼び、通常の料金に加えて1万円のチップを渡していたことも後に分かってきます。
     一方、家事代行業(ハウスキーパー)の女性も家に入れます。「下層老人」とは対極にあるような暮らしぶりで、年寄り相手に高額商品を売りつける業者間でやりとりされるリストにも名前が載っているらしい。その独居老人が殺害され、死体発見から2日目赤羽署に捜査本部が設置された。
     フリーのハウスキーパーとして被害者の家に出入りしており、死亡推定時間に家を訪ねていることから山本美紀という30歳になる女性が有力な容疑者として浮上。地味な顔だちと雰囲気で、女を売り物にして「ハウスキーパー」をしているようには見えないタイプだったが、警視庁は強盗殺人容疑で逮捕に踏み切った。埼玉県警大宮署が別のひとり暮らし老人殺害容疑で逮捕したものの、結局有力な物証が揃わなかったためさいたま地検が処分保留として釈放した、その夜だった。捜査本部に入った警視庁捜査一課の鳥飼達也(とりがい・たつや)が牽引した強引な逮捕だった。埼玉県警も警視庁も物証もないまま、状況証拠だけで逮捕に踏み切り、容疑者として拘留して自供を迫る訊問を重ねます。

     早朝に任意同行を求められた山本美紀が大宮署捜査員による訊問に答える印象的なシーンがあります。この後、逮捕状が請求され、山本美紀は身柄を拘束されることになります。

    〈「きょうは、お仕事は?」
    「は?」
    「お仕事の予定が入っているんじゃないかと思って」
    「仕事が入っているようなら、きょうここには来ませんでした」
    「毎日お仕事があるわけじゃあないんですね」
    「会社に属しているわけじゃありませんので。一日に二件入っているときもあれば、全然ない日もあります」
    「失礼ながら、生活のほうは、それでも十分にやっていけるのですか?」
    「かつかつですが。だから多少遠いお客さんのもとにも出向きます」
    「ご家族はないとのことでしたね?」
    「ひとり暮らしです」
    「副業などはされていますか?」
     また山本美紀の目が鋭くなった。
    「さっきと同じことを訊かれているのでしょうか?」
    「副業のことを訊いたのは、初めてのつもりですが」
    「何もしていません」
    「家事代行業だけであると」
    「はい」
    「そのお仕事で、年間どのくらいの収入があるんです? おおまかでいいんです。確定申告はしていますよね?」
    「大津さんのことと、どういう関係があるんでしょう?」
    「失礼は承知です。大津さんの家に出向いての仕事で、どのくらい収入になっていたかを知りたいものですから」
    「ハウスキーパーとして、一回に一万円から一万五千円くらいです。それが行った回数分」「トータルの年収は?」
    「貧乏であることは、犯罪ですか?」
     この反駁は予想外だった。北島は首を振った。
    「そういう意味じゃありません。でも、教えていただけると、捜査がしやすくなります」
     意味が伝わったかどうかはわからないが、山本美紀は答えた。
    「二百五十万円から三百万円のあいだぐらいです」〉

    「貧乏であることは、犯罪ですか?」山本美紀の必死の問いかけが胸を打ちます。頼れる身寄りもない不幸なヒロイン。ホテルのベッドメーキング、ビルの清掃、農家の手伝。何でもやってきた。格差社会の底辺を誠実に生きてきた彼女の運命は、二度の逮捕によって一変します。
     逮捕・起訴をきっかけに、テレビのワイドショーや週刊誌などが山本美紀の過去を暴き立て、“資産家老人を狙う悪女”というおよそ彼女の実像とはかけ離れたイメージを作り上げていく。山本美紀は裁判員裁判が始まる前にメディアによって裁かれている……こんな情景もまた現代の縮図と言えるのかもしれません。

     物語の舞台は、中盤から裁判員裁判の場へ――〈わたしは、馬場幸太郎さんを殺していません。おカネを奪ってもいません〉検察官による起訴状の内容を被告人が否認して裁判員裁判が始まります。
     もし有罪判決なら、死刑か無期懲役という重罪となる強盗殺人。山本美紀の無罪を100%信じる弁護士と検察がしのぎを削る緊迫の法廷は、初めて裁判を傍聴する28歳の男性(弘志)の視点で描かれます。それが誰であるのかはここでは触れません。ようやく就くことのできた正社員の仕事を辞めて仙台から上京。ネットカフェに寝泊まりしながら傍聴に通う彼の眼前で、それまで無罪を主張して簡潔に答えていた山本美紀被告が突然、口を閉ざします。公判6日目、被告人質問が昼の休憩を挟んで再開された時でした。

    〈 検察側による被告人質問が再開された。
     奥野が言った。
    「次に、川崎の松下和洋さんとの関係を伺います。さきほどあなたは弁護人からの質問に対して、松下和洋さんとのつきあいは平成二十四年十二月から二十五年の五月ころまでと話していました。二十五年三月を最初に、数回、性交渉があったと。それで間違いありませんか?」
     山本美紀の答えが遅れた。裁判官たちも傍聴人も、法廷の全員が山本美紀を注視した。
     山本美紀が答えた。
    「答えたくありません」
     法廷内の空気が一瞬ざわついた。
     黙秘権の行使、ということだろうか? 被告人の黙秘権行使は、初めてだが。
     弘志は弁護人の矢田部の顔を見た。彼もその答えは意外だったようだ。視線を証言台の山本美紀に向けている。
     奥野も、怪訝そうだった。ここで山本美紀が黙秘権を行使するとは想定していなかったかのように見える。質問も、新しいものではない。弁護人の質問に彼女が答えたことの確認なのだ。
     奥野はしかし、その黙秘を咎めることなく、次の質問を口にした。
    「あなたは松下和洋さんを、誰かに紹介されたのでしょうか?」
     山本美紀の答えはいまと同じ調子だった。
    「答えたくありません」〉

     検察官は質問を続けますが、山本美紀は「答えたくありません」身を固くしたまま繰り返した。突然の黙秘――彼女に何があったのか?
     弁護人の再質問、裁判官と裁判員による被告人質問、論告求刑と最終弁論、最終陳述を経て判決へ――佐々木譲初の法廷ミステリーのクライマックスに圧倒されました。そして読了後、捜査段階で〈貧乏であることは、犯罪ですか〉と問いかけた山本美紀の最終陳述――秘めてきたまっすぐな思いを読み返しました。

     ミステリーは時代を映す鏡です。『沈黙法廷』は、警察という巨大な力によって個人の人生がいとも簡単に狂わされていくという現代社会の断面――組織の功名心を背景に複数の可能性を排除した見込み捜査によって、誠実に生きてきた女性がある日突然、「犯罪者」に仕立てられていく怖さを鮮明に描き出しました。
     東京新聞は2017年5月24日付朝刊一面トップで【「対テロ」名目 心も捜査】の大見出しを掲げて、「共謀罪」法案の衆議院通過を伝えました。「内心の自由」を取り締まるというこの法案の本質を的確に表現した出色の見出しだったと思う。この問題法案が十分な議論もないままに成立必至となった今、佐々木譲『沈黙法廷』の問いかけの意味は重い。(2017/5/26)
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    投稿日:2017年05月26日