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「留用」とは何だったのか。戦後、中国東北部(旧満州)にいた日本人が、鉄道や製鉄所の技術者、従軍医師や看護婦、空軍創設の教官などとして協力を要請され従事し、中国建国へ貢献をした。それを「留用」という。これは、中国から「国際友人」と尊称された人々の、知られざる日中戦後史である。

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「留用」された日本人 私たちは中国建国を支えたのレビュー一覧

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  • 日本のポツダム宣言受諾――全面降伏によって第2次世界大戦が終わってから65年、1949年の中華人民共和国建国から61年たった夏。中国はいまや世界有数の経済大国へと成長をとげました。日本はその中国からの観光客の誘致こそが今後の観光ビジネスの大きな柱と位置づけていることは周知の通りです。しかし世界経済の成長センターとして豊富な外貨準備を持つに至った中国の建国期に多くの日本人が、帰国を断念して中国に留まり国家建設に貢献したことはあまり知られてはいません。現在の中国の礎(いしずえ)を築いた「留用日本人」は、約1万人、ともに残留した家族を含めると2万人に達するという。旧満州鉄道関連の技術者、医師や看護師などの医療関係者、旧日本軍の航空部隊関係者、そして炭鉱労働者などとして働くことを余儀なくされた多くの日本人たち。これらの人々が帰国の日を迎えたのは1953年、敗戦から7年の月日が過ぎていました。唐の時代の古都・西安から西へ380キロ、かつてシルクロードの宿駅だった西域の町・天水を目指して鉄道技術者200人とその家族600人、総勢800人の日本人が旅だったのは毛沢東による革命政権樹立から1年たった1950年秋。東北地方(旧満州)から3000キロを鉄道、バスを乗り継いでの1か月の旅でした。当時、電気もガスも水道もなかった地に、1999年一つの石碑が建てられました。中国語と日本語でこう刻まれているそうです。〈一九五〇年、およそ八百余名の日本人技術者とその家族は天水に移り鉄道建設に加わった。日中の技術者は力を合わせて二年後に天蘭線三百五十四キロメートルを開通させ・・・・・・〉西方にある豊富な油田と沿海部を結ぶ動線としてその建設は緊急課題でした。戦後すぐに生まれた「戦争を知らない世代」がすでに定年退職を迎えている平成ニッポン。ほとんどの日本人にとって「戦争」は親や祖父母たちの時代に起きた歴史的な出来事です。高齢に達した「留用日本人」たちにはすでに鬼籍に入った人も少なくありません。その意味でも、彼らの証言をもとにまとめられた戦争秘史は私たちが読み継いで後世に伝えるべき貴重な一冊といえるでしょう。(2010/07/23)
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    投稿日:2010年07月23日