書籍の詳細

品川、新橋、銀座、日本橋、上野、浅草……獅子文六が東京を路面電車でめぐりながら綴る、愛しの風景、子ども時代の記憶、美味案内。ゆったりと古きよき時代がよみがえる名エッセイ、新装版。

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ちんちん電車のレビュー一覧

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  •  大人気のNHK「ブラタモリ」の先駆けと言っていいだろう。1893年(明治26年)生まれの獅子文六(岩田豊雄)が、都電に乗ってみようと思い立ち、品川界隈から銀座、京橋、日本橋を経て上野、浅草まで都電を利用して、ブラブラ歩きをした。1966年(昭和41年)、73歳となる年だった。
     のんびりと、失われつつある風景を求めて時代をさかのぼるような文士の“時間旅行”は、「週刊朝日」に連載され、のちに一冊の本にまとめられた。『ちんちん電車』である。朝日新聞社から単行本が刊行されたのが1966年。40年後の2006年(平成18年)に河出文庫として刊行され、2017年10月20日発行の新装版初版を底本に電子化、11月17日に配信されました。
     なぜ、都電──「ちんちん電車」だったのか。1974年(昭和49年)に荒川線(三ノ輪橋-早稲田の27系統、荒川車庫-早稲田の28系統を統合)以外の路線がすべて姿を消しましたが、獅子文六がこのエッセイを書いた1966年当時は、全盛期を過ぎたとはいえ、〈東京の無数の坂を登り下って下町と山手を結びつけ、また東京の無数の川や堀割を渡って旧市街と江東一帯を連絡した。電車は東京の血液を運ぶ頼もしい血管〉(巻末収録の関川夏央〈老文士の「のんびり時間旅行」〉より)として、まだ都電が「ちんちん」と音を鳴らしながら変わりゆく東京の町々を縦横に走り回っていた。

     獅子文六は、「ちんちん電車」についてこんなふうに書いています。
    〈私は、東京の乗物の中で、都電が一番好きである。いつ頃から、そんなことになったか、ハッキリ覚えていない。それ以前に、都電なんて、バカバカしくて、乗れないと思った時代があったことは、確かである。それが、いつか、逆になったのである。いつかといっても、戦後の東京の交通機関が、大体、整備してからのことだろう。つまり、乗物の選択がたいへん自由になって、こっちの都合や、懐ろ工合で、どんな乗物にも好きなように乗れることになったら、俄然、都電がよくなったのである。別な見方をするなら、如上(じょじょう)の交通機関が発達して、路上電車というものは、何かマヌケなものになり、気の早い連中が、撤廃論を持出すようになってから、かえって、都電に愛着が出てきたのである。それは、必ずしも、アマノジャクではない。他の乗物の乗り心地が、よくないから、都電を思い出したのであって、いわば、古女房の再認識と軌を一にしてる。〉

     最も乗り心地の悪いのはバスで、なによりあの揺れ方がいけない。ついで不愉快な乗物であるタキシはいまさら論じる必要もないと片づける、国電についてはその混雑と車内の汚さが欠点だと嘆き、地下鉄でヤミの中を走るのは気持がよくないという老文士。都電への愛着をさらにこう綴ります。

    〈そこへいくと、都電である。
     都電ぐらい、乗り心地のいいものはない。大人物でなくても、いい気持に居眠りができる。乗り心地のよさは、いろいろの点からくるが、まず軌道の上を走ることが、魅力である。電車が軌道の外を走らないということは、今の東京の交通混乱の中にあって、まったく見上げた態度である。時として、脱線することがあるとしても、人間の行蔵に比べれば、ものの数ではない。都電がいかに行儀のいい車であるかは、絶対に“割り込み”をしないということでもわかる。(中略)
     軌道の上を走る点では、国電も、地下鉄も同様であるが、なぜ、都電だけが、乗り心地がいいかというと、スピードを出さないからである。
     都電の低速力ということは、今の時点で、非常な魅力となってるのを、気づかない人が多い。軌道を走るのに、あまり高速力を出すと、不快な動揺を起すことは、国鉄新幹線へ乗って見ればわかる。地下鉄のうるさい轟音も、スピードを出すからである。軌道の上を快く走行するには、速力の限度があり、都電はそれを超そうとしない。青山一丁目─渋谷あたりの軌道床工事のよくできた路線を、七五〇〇型の新式電車で、低速(というよりも、あれが尋常の速力)で走る時の乗り心地は、コタエラレンというほどのものである。〉

     ノロノロ都電とあなどってはいけない。駅の階段の昇降、通路のアリの歩みによる時間の空費を考えれば、都電は思ったよりも早く目的地に運んでくれた、見かけによらず速いのである──と讃える。
    〈朝の六時ごろに、池袋から数寄屋橋まで、都電に乗ると、十七分で行ける。これは、地下鉄より速いのである。勿論、街路が混雑してくると、そんな芸当はむつかしいが、それでも時速十二キロぐらいは出すのである。人間が歩くのが、四キロだから、大分速いことになる。〉

     池袋から数寄屋橋まで都電が走り17分で行けたとか、青山一丁目から渋谷まで、つまり国道246をちんちん電車が走っていたなど若い読者には想像もできないでしょうが、獅子文六の「都電愛」に、もう少しお付き合いください。

     裕福な台湾華僑の一家を描いた『バナナ』(筑摩書房、2017年11月10日配信)という作品があります。獅子文六は本書でこの作品に触れて、自身の創作のある秘密の愉しみを明かしています。

    〈(『バナナ』の)主人公の呉天童という台湾人が、東京の赤坂に住み、富裕な生活をして、外車の自家用車を買うぐらい、朝飯前の身分なのに、都電にばかり乗ってることを書いた。
     彼は、大陸的な、ノンビリした性格なのだが、自動車とバナナが嫌いで、あらゆる美食と共に、路面電車が好物だった。なぜ、電車が好きかというと、レールの上を走る安定感と、巨大な車体の安全性を愛するからなのだが、東京都電の車内のムードが性分に合うのである。
     私は、その男のそういう性癖を書くのが、愉しみだった。実をいうと、そこのところだけは──都電愛好という点だけは、私自身を登場させたからである。そこだけは、私小説だったからである。新聞小説というやつも、書く方の身になると、相当、退屈なものであって、それくらいの道楽は、やってみたくなる。もっとも、読者も、新聞社の方も、私が道楽やってるなぞ、気がつかないから、文句をいわれる心配はない。〉

     新聞小説の中に都電愛好の道楽を入れて秘かに愉しんでいたというのです。人間の歩く速度より少し速い程度の、ゆったり感が普通にあった時代だったということでしょうか。都電の窓から町の景色を眺め、気が向けば降りて往時を思い出しながらゆっくり散策する老文士の息づかいが聞こえてくるようです。

    〈久振りに、品川終点へきてみると、どうも、様子がちがう。いつの間にか、終点が、品川国鉄駅前になってる。昔の終点は、八ツ山といって、もう一つ先の陸橋の近くだった。そこで、車掌さんがエンヤラと、ポールの綱をひいて、方向を変えたものである。今はポールはなく、パンタグラフ(ほんとは、ビューゲルというのだそうだ)になったから、そんな世話はない。
     しかし、終点が八ツ山だったことは、大いに意識を持ったのである。夜の乗客で、八ツ山で降りる人の三割は、品川遊廓が目的だったろう。陸橋を渡れば、すぐ品川宿で、街道の両側に、古風な娼屋が軒を列べた。吉原のような大廈(か)高楼がない代りに、気の置けない遊びができたらしく、女郎衆の気風も寛達で、落語の“品川心中”なぞ、他の場所では不似合いだろう。
     私なぞは品行がよかったから、この宿へくるのは“三徳”という夜明かしの小料理屋を愛用したためだった。今は、どこも、夜明かし流行だが、以前の東京は堅気だったから、終夜営業の夜は遊廓内に限ったもので、従って、市内で飲み足らぬ場合は、“三徳”に足を運ぶのが常だった。そんな店が何軒もある中に、“三徳”のカニやアナゴは優秀であり、客扱いもサッパリしてた。座敷から、すぐ海が見え、潮風が吹込んだ。
     ある夏の夜、私は友人とここで飲んでいたら、夜が明けてしまった。房総の山から、日の出が見えた。さすがに、その時刻には、入れ混み座敷の客も少なかったが、ふと、近くの席で、一人の品のいい老人が、食事をしてるのが、目に入った。白いヒゲを生やし、大変姿勢正しく、カタビラのようなものを着て、しかも、ハカマをはいてる。そして、“三徳”の客としては珍しく、酒を註文しないで、飯を食ってる。それだけでも珍現象だが、もっと驚くべきことは、女中がその前に畏って、お給仕してるのである。“三徳”の女中なんて、料理をドスンと置いてくだけで、ロクにお酌もしてくれず、そこが、かえって気安く飲める所以でもあったが、それにしても、これは、大変な差別待遇である。第一、“三徳”の女中が、キチンと坐ることを、知ってるのかと、おかしくなった。
     その客は、飯を食べ終ると、直ちに勘定を命じ、その時に、よほどチップをはずんだと見えて、女中がペコペコした。差別待遇の理由は、この辺にあるかと、私も合点したが、この時刻に、こんな料理屋で、朝飯を食う老人の正体が、サッパリ腑に落ちなかった。〉

    「あのジイさんは、何者だい?」若き獅子文六、女中を問い詰めて、ハカマの老人の正体を聞き出したことを回想しているのですが、ここではその結末までは書きません。

     とまれ、獅子文六のちんちん電車歴は長い。のちに都電となる市街電車が東京を走り始めたのは1903年(明治36年)。その頃、三田の慶応幼稚舎の寄宿舎にいた獅子文六は、横浜の実家へ帰る時には品川駅までこの電車に乗るのを常とした。開業以来の客ということになります。
     その老文士がちんちん電車で行く町歩きをして描いた、かつての東京の風景。
    〈京橋へ入ると、私はとたんにウナギの匂いをかぐ。事実は、匂いなんかしないのだが橋を渡ってじきの横丁に、小満津という家があるのを、思い出すからだろう。そのウナギは、ほんとにうまい。今の東京で、一番うまいかも知れない。そして小體(こてい)に、ジミに商売してるところもいい。銀座では、あんな営業法はできないだろう。〉
     残念ながら獅子文六が懐かしんだウナギの老舗、小満津(こまつ)はその地にはなく、のちに店主の孫によって東高円寺に再建されました。

     上野で一番好きな場所は池の端だという獅子文六。ソバは、蓮玉庵か、団子坂の“藪”か思案することもあるけれど、鳥となれば迷うことはないと、こう記しています。
    〈鳥を食うとなれば、何の躊躇もなく、”鳥栄“のノレンを潜るだろう。
     この店は、池の端の誇りであるのみならず、東京のあらゆる料亭のうちでも、亀鑑みたいなものである。小さな、見かけの悪い家だが、鳥がウマい以上に、商売の心意気を持ってる。つまり、気に入った材料が入らなければ、本日休業をやるのである。昔はそんな店も東京にあったが、今は跡を絶ったようだ。〉

     春の一日、本書を手にブラブラ歩きをしてみてはどうでしょうか。その際、紙書籍に収録されているスケッチ画が、電書には載っていないのが少し残念ですが。(2018/3/23)
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    投稿日:2018年03月23日