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ビジネスマンの命運は、たった1枚の紙切れに左右される!テレビ・ビデオ・音響機器メーカーとして世界中で事業を展開する大企業、エコー・エレクトロニクス工業の宣伝部副部長・広岡修平に、突然、辞令が突きつけられた。異動先は「人事部付」。それまで社内の出世レースのトップグループに入っていた広岡に、左遷される理由は思い当たらない。仕事に対する情熱と正義感では引けをとらず、社内でも高く評価されていたはずの広岡が脱落したのは、なぜか?その内実を自ら調査し始めると、自らの後任者が現会長の息子であることが判明。ファミリー企業に巣食う利己的な思惑と、会社内に蔓延する保身、讒言、足の引っ張り合いの実態が見えてきた……。 ビジネスマンの人生を左右する「辞令」のカラクリを暴き出すビジネス小説界の「現代の新古典」! 解説・加藤正文

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辞令のレビュー一覧

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  • 「寄らば大樹の陰」か、「人間到るところに青山あり」か。
     突然の辞令一本で変転する会社員の人生。意に沿わない人事――降格や左遷に直面した時、実力のあるサラリーマンほど二つの岐路に直面して、どちらの道を選択すべきか深く悩む。前者は「同じ頼るなら、力のあるしっかりした人(勢力)を頼るべき」という考え方で、リスク回避と引き換えにどんな不遇にも耐える覚悟が必要だ。それに対して後者は「世の中のどこで死んでも、骨を埋める場所くらいはある。故郷だけが墳墓の地、青山(せいざん)ではないのだから、大望を達するためにどんどん郷里を出て活動するべきだ」という積極志向。約束された“安定”をあえて捨て去る勁(つよ)い心がなければ、未知の環境に飛び込んでは行けません。
     経済小説の第一人者、高杉良の『辞令』は、常務から唐突に言い渡された想定外の異動に揺れる中間管理職を主人公に「組織と人間」に迫る。同期中の出世頭だった男が左遷された裏には何があったのか。
     突然の「左遷」通告シーンで物語が始まります。

    〈「人事なんてわたしの柄(がら)じゃないですよ。営業ならよろこんでやらせてもらいますけど……」
     泡立(あわだ)つ気持ちを抑えながら、広岡修平(ひろおかしゅうへい)は懸命に言葉を押し出した。
     ひろいひたいと、ひかりを湛(たた)えた切れ長の眼(め)のわりに鼻が小づくりの分だけ、やわらいでいるとはいえ充分個性的な顔立ちである。身長百七十五センチに対し体重が七十キロだからバランスはとれている。ゴルフ焼けも加わって肌(はだ)は浅黒くしまっていた。
     広岡は無理に笑顔をつくった。
    「いつでしたか常務に、営業をやらせてくださいとお願いしましたが、きょう改めてお願いします。人事本部はどうかご容赦ください」
     林弘(はやしひろし)がじろっとした眼をくれて、突き放すように言った。
    「きみの都合だけでは決められんよ。会社の都合ってものもある。否(いや)も応もないんだ。社長が決裁してるんだからな。十日付で発令する」
     広岡は息を呑(の)んだ。〉

     広岡修平は、エコー・エレクトロニクス工業株式会社の宣伝部副部長で、国内営業本部の部長代理から昇格を伴う異動で現職に就いて3年、46歳になっていた。部長の前島稔(まえじま・みのる)に次ぐ宣伝部のナンバー2だ。
     エコー・エレクトロニクス工業は、ビデオ機器事業部門、テレビ事業部門、音響機器事業部門などを中心に世界的に事業を展開する多国籍企業として知られ、優れた研究開発力によって“世界のエコー”のキャッチフレーズが定着して久しい。
     常務の林は、広岡の事実上の仲人で、広岡自身、林の息のかかった社員であることを認めざるを得ないと思っていた。いわば遠慮なしにものが言える間柄のはずなのにこの日の林は、なにかしらよそよそしく、取り付く島もなかった。24年に及ぶサラリーマン生活で、これほどのショックを受けたことはなかった。
     林常務と広岡の会話は、こう続きます。

    〈「とりあえず本部付として勉強してもらう」
    「つまりラインにも入れてもらえないわけですね」
     林は返事をしなかった。煙草をすぱすぱやっているのは、なにか言おうとしているふうにもとれる。
     十秒、十五秒と待ったが、広岡はたまりかねて次の質問を発した。
    「左遷(させん)含みということになるんでしょうか」
    「そんなことはないだろう」
     ひっかかる言いかたである。
     日ごろ態度を明確に出すのが身上の林だけに、広岡は釈然としなかった。
     はっきり言って、左遷されるような覚えなどなかったのである。左遷含みか、と訊(き)いたのは、気を引いてみたまでだ。
    「あんまりナーバスにならないで、人事で一から出直すつもりで頑張(がんば)ってみろよ」
     林はどこか投げやりな口調で言って、ソファから腰を浮かしかけたが、また坐(すわ)り直した。
    「ところで亜希子(あきこ)さんは元気かね」
     唐突な質問に苦笑をにじませながら、広岡は小さくうなずいた。
    「奥さんを大事にしろよ。あんな可愛(かわい)い奥さんを泣かせるようなことをしたらゆるさんぞ」
     冗談なのか、本気なのか、わからなかった。〉

     仕事一途でおよそ世事に疎(うと)い林常務が口にしたふだん言いつけない言葉。気を回さない方がどうかしているが、広岡に思い当たることはなにもなかった。
     そもそも部長の前島から事前に匂わす程度の話すら伝わってこなかったことが、広岡には不可解だった。
     エコーでは管理職の異動については、当該部門の責任者から当人に伝達される慣習がある。本社内の異動は1週間前、エコー系列の子会社を含む国内転勤を伴う場合は3週間前、海外転勤は3か月から6か月前に知らされることになっている。

    〈しかし、それは建て前に過ぎない。本社内の異動なら少なくとも二週間ないし三週間前に、上司から内示されている。
     広岡自身、経験的にもそうしてきたし、そうされてきた。(中略)
     きょうは、昭和六十三年(一九八八年)二月三日だから、十日の発令ということは、ちょうど一週間前ではないか。
     エレベーターで十五階から十階に戻るまでに、広岡は、躰中(からだ)の血液がたぎってくるのを覚えた。〉

     さらに広岡にとってショックだったのは、年次の若い宣伝部の二人が、広岡の異動を部長から知らされていたことだ。つまり部長の前島は広岡には素知らぬ顔をしておきながら、宣伝部の中核メンバーには耳打ちしていたのだ。
     その前島と広岡がやりあうシーン――。

    〈広岡は、四時過ぎにたまりかねて、部長席の前に立った。
    「さっき林常務から内示がありました」
    「そうだってねぇ」
     前島は、応接室のほうを手で示しながら、にこやかに返してきた。
     シルバーグレーのメタルフレームの眼鏡と長い揉(も)み上(あ)げが、にやけ面(づら)に一層アクセントをつけている。眼鏡の奥の細い眼をいつも和ませているし、誰に対してもやたら愛想がよかった。
    「人事本部だと聞いたけど、羨(うらや)ましいねぇ」
     前島はぬけぬけと言った。
    「本部付でラインにも入れてもらえないそうです。つまり左遷です。それでも羨ましいとおっしゃいますか」
    「それは考え過ぎだよ。人事本部のような枢要(すうよう)な部門へ左遷で行かされるわけがないだろう。きみ勘違いしてるよ。わたしが代って行きたいくらいだ。きみは上に行ける人だし、将来ボードに入ることだって可能なんじゃないの。宣伝部なんかに長くおったらそうはいかないものな。人事本部で、人事、労政にタッチできるなんて幸せじゃないの」
    「どうしてそんな見えすいたことを言うんですか。だいたいわたしは、人事などは不向きだと思ってます。もっと言えばいちばんやりたくない仕事です」
    「しかし、宣伝の仕事もやりたくないんじゃなかったのかね」
     前島の細い眼が鈍い光を放った。
    「そんなことはありませんが、もう三年になりますから、営業に戻りたいとは考えました」
    「きみを人事本部に出すのは、林常務の親心だよ。やりたくない仕事を経験しておくことも悪くないんじゃないのかね」
    「部長と三年もコンビを組んできながら、事前に匂いも嗅(か)がせていただけなかったことは残念至極(しごく)です」
    「そう言われても困るんだよねぇ。だって、わたしが聞いたのもけさだぜ」
     前島は、大仰に抑揚をつけて言った。
     おととい、岡本と村山に話したのはどこのどいつだ、と言えたら、どんなに気持ちがすっきりするだろうかと思いながらも、それでは村山の立場がなくなるので、ここはぐっとこらえるしかない──。
    「わたしは部長から嫌(きら)われるようなことをなにかやらかしましたかねぇ。自分では気がついてないんですが、教えていただけませんか」
    「わたしのほうこそ、きみに嫌われていたんじゃないのかね」
     前島は、つくり笑いを浮かべて、意味ありげに広岡を見つめた。
    「そんなもって回った言いかたをされても頭の悪いわたしにはなんのことだかわかりません」
    「とにかく健闘を祈るよ。人事本部で頑張ってもらいたいな」
     前島はうすら笑いを浮かべながら、ソファから立ちあがった。〉

     臨場感あふれる会話劇が高杉良の企業小説の面白さの原点です。林常務と広岡、前島部長と広岡のなまなましいやりとりに、胸に秘めた記憶を重ね合わせる人も多いのではないか。サラリーマンなら一度や二度は味わったことのある“人事”を巡る苦い思い――。

     とまれ――100人に及ぶ事務系同期入社組で部長クラス(参事職)の資格をもつのはわずか5人。その一人で、昇進レースで確実にトップグループにいた広岡修平は、なぜ人事本部預かりに「左遷」されたのか。
     懇意にしてきた広告代理店・広宣社担当者の小倉弘(おぐら・ひろし)から驚くべき情報が寄せられた。広岡はオーナー会長の小林明の逆鱗に触れたために左遷されたらしいというのだ。広告代理店の社長が小林会長から「あんまりエコーの社員を甘えさせては困る。ヨーロッパに女連れの大名旅行はやり過ぎだ」と言われたが、広岡がそのエコー社員だった。宣伝部に来て間もない頃、ヨーロッパツアーに欠員が出てしまったので、夫婦で参加してくれないかと小倉に誘われ、相談した前島部長の勧めもあって参加した。その話がなぜか、“女連れの大名旅行”となって、会長の耳に入った。
     小倉も大阪に飛ばされたが、どうしてオーナー会長の知るところとなったのか? しかも“愛人連れ”に歪曲されて。広宣社から情報が漏れることは絶対にない――と断言する小倉を信じるとすれば、事情を知る人間は前島部長しかいない・・・・・・。

     広岡の後任副部長は、小林会長の次男、小林秀彦だった。社員間でジュニアと呼ばれている32歳。じつは会長夫人が宣伝部長にと画策したあげく、部長含みの副部長で落着した。会長の逆鱗に触れた広岡はいわばそのために弾(はじ)き出されたというわけだったが、自らの後任部長に広岡がなることを阻止するために動いた前島部長はジュニアにすり寄り、広岡は再生を期して人事本部で動き始め、物語は佳境へ――。

     人事を巡って交錯する思惑と保身、足の引っ張り合い、功名争い、そして経営トップと人事担当常務の緊迫の対決・・・・・・特定のモデル企業はありませんが、トップから管理職までの企業人の息遣い、リアリティは数多くの企業組織と人間を見つめてきた高杉良だから書けたと言っても過言ではありません。「人事」を切り口に「組織と人間」を描いた人事小説――ここには、サラリーマン人生の縮図がある。(2017/12/1)
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    投稿日:2017年12月01日