書籍の詳細

維新150年、偽りの歴史を斬る。共感と論争の問題作、ついに文庫化!幕末動乱期ほど、いい加減な美談が歴史としてまかり通る時代はない。京都御所を砲撃し朝敵となった長州を筆頭に、暗殺者集団として日本を闇に陥れた薩長土肥。明治維新とは、日本を近代に導いた無条件の正義なのか? 明治維新そのものに疑義を申し立て、この国の「近代」の歩みを徹底的に検証する刮目の書。

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明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〔完全増補版〕のレビュー一覧

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  • 「会津に処女なし」という言葉があるという。
     いまから150年前、明治維新の時代──会津戦争の現場で、会津の女性がことごとく長州奇兵隊を中心とする土佐を含む薩長軍のならず者に強姦されたということをいっている。私は、この史実を原田伊織著『明治維新という過ち』(講談社文庫、2017年10月13日配信)で知りました。
     会津歴史研究会の井上昌威氏の検証結果を参考に、原田氏は会津戦争の実態を次のように記します。

    〈山縣有朋が連れ込んできた奇兵隊や人足たちのならず者集団は、山縣が新発田(しばた)へ去っていたこともあって全く統制がとれておらず、余計にやりたい放題を繰り返す無秩序集団となっていた。女と金品を求めて村々を荒らし回ったのである。彼らは、徒党を組んで「山狩り」と称して村人や藩士の家族が避難している山々を巡り、強盗、婦女暴行を繰り返した。集団で女性を強姦、つまり輪姦して、時にはなぶり殺す。家族のみている前で娘を輪姦するということも平然と行い、家族が抵抗すると撃ち殺す。中には、八歳、十歳の女の子が凌辱されたという例が存在するという。
     高齢の女性も犠牲となり、事が済むと裸にして池に投げ捨てられたこともあった。要するに、奇兵隊の連中にとっては女性なら誰でも、何歳でもよかったのである。
     坂下(ばんげ)、新鶴、高田、塩川周辺では、戦後、犯された約百人に及ぶ娘・子供の殆どが妊娠していた。医者は可能な限り堕胎をしたが、それによって死亡した娘もいたという。月が満ちて生まれてきた赤子は、奇兵隊の誰の子かも分からない。村人たちは赤子を寺の脇に穴を掘って埋め、小さな塚を作って小石を載せて目印にしたのである。
     村人は、これを「小梅塚」とか「子塚」と呼んだ。乳が張ってきた娘は、自分の「小梅塚」に乳を絞り与えて涙を流していたという。〉

     著者は、〈「人道に対する犯罪」といわずして何というか〉と厳しく断罪しています。まったく同感です。
     この蛮行は、たかだか150年前、「明治維新」を成し遂げたとされる「官軍」──長州第一軍の主力となった奇兵隊によって引き起こされたことなのです。
     女性に対する性犯罪だけではありません。薩長軍の兵は戦死した会津藩士の衣服を剥ぎ取り、男根を切り取ってそれを死体の口に咥えさせて興じたと同書にあります。総力戦の末に敗れた会津の鶴ヶ城開城は、明治元年(1868年)9月。「明治」が始まっていました。

     そもそも「明治維新」とは何か。ペリー率いる黒船来航によって、徳川幕府260年の太平から目覚めた日本が、長州・薩摩の下級武士を中心とする勤皇の志士と幕府・佐幕派の苛烈な抗争、第十五代将軍・徳川慶喜による「大政奉還」、「王政復古」の大号令、明治改元、そして新政府軍と旧幕府軍の内戦を経て明治天皇による親政が確立されたというのが、大方の日本人のなかに定着している明治維新についての常識であろう。1853年(嘉永6年)の黒船あたりから箱館戦争終結(1869年=明治2年)までの時期を指すといわれていますが、西南戦争──西郷隆盛の反乱(1877年=明治10年)までとみる考え方もあります。いずれにしても、明治新政府の成立以降、鎖国によって遅れていた日本の近代化、強く豊かな国への歩みが始まったというのが一般的な理解となっているといっていいでしょう。

     1月4日の年頭所感で安倍晋三首相は、
    「百五十年前、明治日本の新たな国創りは、植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感と共に、スタートしました。
    国難とも呼ぶべき危機を克服するため、近代化を一気に推し進める。その原動力となったのは、一人ひとりの日本人です。これまでの身分制を廃し、すべての日本人を従来の制度や慣習から解き放つ。あらゆる日本人の力を結集することで、日本は独立を守り抜きました。」
     と述べ、「明治維新150年」を礼賛しました。
     しかし、「明治維新」が私たち日本人にもたらしたものは何だったのか。「明治維新」に始まる日本の近代化の実相とはどんなものだったのか。
    『明治維新という過ち』で原田伊織氏は、日本人の間で常識化した「明治維新の歴史」に根源的な疑問を突きつける。それは、あくまでも勝者の、つまり薩長の論理で書かれた「歴史」であり、明治以降今日に至るまでそれが公教育の場で一貫して教えられてきた。同書にこうあります。

    〈この百五十年近く、誰もが明治維新こそが日本を近代に導き、明治維新がなければ日本は植民地化されたはずだと信じ込まされてきた。公教育がそのように教え込んできたのである。つまり、明治維新こそは歴史上、無条件に「正義」であり続けたのだ。果たして、そうなのか。明治維新の実相を知った上で、そのように確信したのか。
     日本人は、幕末動乱のドラマが好きである。ところが、幕末動乱期ほどいい加減な“お話”が「歴史」としてまかり通っている時代はなく、虚実入り乱れて薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)の下級武士は永年ヒーローであった。中でも、中心は薩摩と長州であった。(中略)
     しかし、「御一新」、つまり「大政奉還」「廃藩置県」の後は、長州・薩摩の世になったということを忘れてはならない。つまり、明治以降とは、長州・薩摩の世であり、このことは根っこのところで大正、昭和を経て平成の今も引き継がれているということなのだ。即ち、私たちが子供の頃から教えられ、学んできた幕末維新に関わる歴史とは、「長州・薩摩の書いた歴史」であるということだ。どのような幕末資料を読むにしても、まずこのことが大前提となるのである。〉
    「長州・薩摩の書いた歴史」であることを前提に幕末・明治史を見直そうと企図する著者は、さらにこう続けます。

    〈大切なことは、そういう歴史がこの百五十年近く綿々と教えられてきたという事実であり、そういう「長州・薩摩の書いた歴史」を先ずは知るということであろう。それを知った上で、「長州・薩摩が書かなかった」ことの実相を整理した方が、歴史というものの正体、恐ろしさを知ることができるというものである。〉

     冒頭に記したような「官軍」による蛮行は、「長州・薩摩が書かなかった」ことのひとつです。これまでこうした負の部分に目が向けられることはありませんでした。原田氏は「長州・薩摩が書かなかった」ことを検証し、御一新の史実とどういう、あるいはどれほどのギャップをもっているかを整理していきます。それは、〈世にいう明治維新を一度「総括」しようという試み〉であり、その集大成である本書を読み進めていくと、目からうろこの史実が次から次へと出てきてとまらない。ここでは一例だけ挙げておきます。
     突然の黒船来航によって、日本が開国に動き出したというのは私たちが慣れ親しんだストーリーです。しかし、嘉永6年(1853年)のペリー来航の半世紀以上前の寛政9年(1797年)以降、長崎出島へアメリカの交易船が来航した回数は少なくとも13回確認されているのです。つまり幕府には経験を積み世界を知る人材が育っており、ペリーの来航によって日本人が初めてアメリカ人と接触したかのような歴史教育は歴史事実とは異なっているというのが著者の指摘です。とすれば明治維新を機に日本の近代化が始まったという「維新史」は、そもそものスタートから、重要な史実、言い換えれば“不都合な真実”を隠していたことになるのです。

     とまれ、「長州・薩摩の書いた歴史」──明治維新は私たちに何をもたらしたのか。著者は、維新の英傑を輩出したとして崇められている吉田松陰を巡る史実を検証した上で端的にこう記します。

    〈・・・松陰を師であると崇め出したのは、御一新が成立してしばらく経ってからのことである。師として拾い上げたのは、長州閥の元凶にして日本軍閥の祖、山縣有朋である。(中略)
     ・・・松陰の外交思想というものは余り語られないが、実に稚拙なものであった。北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有するべきだというのである。これを実行するのが、彼のいう「大和魂」なのである。一体、松陰はどういう国学を、どういう兵学を勉強したのか。
     恐ろしいことは、長州・薩摩の世になったその後の日本が、長州閥の支配する帝国陸軍を中核勢力として、松陰の主張した通り朝鮮半島から満州を侵略し、カムチャッカから南方に至る広大なエリアに軍事進出して国家を滅ぼしたという、紛れもない事実を私たち日本人が体験したことである。〉

     長州(山口県)出身の安倍首相が年頭所感において、植民地主義の波が押し寄せるなかで独立を守り通したと、明治日本の国創りを礼賛したことは先述しました。しかし、明治以降の日本は独立を守ったとはいっても、吉田松陰の教えのままに朝鮮半島、満州、中国、アジアから南方の島々まで軍事進出したあげく、対米戦争に敗れ国を滅ぼすに至ったのです。

     明治の国創りの負の側面に安倍首相がふれることはありません。長州人の末裔としてその先達の偉業を語るのみです。
     明治維新150年を言い出したのは、戦後70年の2015年8月、山口県に里帰りした時だったと、毎日新聞編集委員の伊藤智永記者の記事にありました(2018年1月6日付朝刊「時の在りか」)。記事によれば、〈50年は長州軍閥を代表する寺内正毅、100年は叔父の佐藤栄作が首相だったと紹介し、「私は県出身8人目の首相。頑張って平成30年までいけば、明治維新150年も山口県の安倍晋三が首相ということになる」と語った。〉という。
     平成30年(2018年)となり、安倍首相の下で明治の精神が称揚されています。しかし、どうせ目を向けるなら、大正の精神のほうがよくはないか。今年は米騒動から100年。富山の女性から始まった米価高騰に抗議する民衆の運動が全国に拡大し、寺内正毅内閣を総辞職に追い込んだ。長州軍閥内閣を倒した民衆の運動が大正デモクラシーにつながっていった。明治維新50年の時の首相として安倍首相が誇らしげに挙げたのが、この寺内正毅なのですから、モリ・カケ・スパ批判にさらされる安倍首相にとってはなんとも皮肉な巡り合わせではないか。

     安倍一強の下、憲法改正が日程に乗せられ、経済も首相は強弁するが、いっこうによくなったという実感はない。破綻寸前のアベノミクスの頼みの綱ともいうべき株価もNY市場のあおりを受けて暴落した。
     平成もあと一年。日本が大きな岐路に立つ今こそ、ぜひ手に取って欲しい歴史書だ。(2018/2/9)
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    投稿日:2018年02月09日