書籍の詳細

これぞ桐野夏生の原点。江戸川乱歩賞受賞作!親友の耀子が、曰く付きの大金を持って失踪した。夫の自殺後、新宿の片隅で無為に暮らしていた村野ミロは、共謀を疑われ、彼女の行方を追う。女の脆さとしなやかさを描かせたら比肩なき著者のデビュー作。江戸川乱歩賞受賞!

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新装版 顔に降りかかる雨のレビュー一覧

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  •  第121回直木賞(1999年上期)を『柔らかな頬』(文春文庫)で受賞した桐野夏生は、東野圭吾、宮部みゆきなど“電子未解禁”の人気作家のひとりに数えられてきました。配信されていたのは、『優しいおとな』(中央公論新社、2013年9月20日配信)と『バラカ』(集英社、2016年2月26日に紙書籍と同時配信)のわずか2冊だけでした。
     しかし――2017年9月15日、デビュー作『顔に降りかかる雨』(1993年単行本刊行)に始まる「村野ミロシリーズ」4作品が一挙に配信され、状況は一変しました。
    『顔に降りかかる雨』は、別名(野原野枝実)で少女小説を書いていた桐野夏生がミステリー界に鮮烈なデビューを飾った作品であり、第39回江戸川乱歩賞受賞作となった、桐野夏生の原点ともいうべき作品です。その文庫新装版刊行を期して、シリーズ第2弾『天使に見捨てられた夜』(1994年単行本刊行)、第3弾『ローズガーデン』(2000年単行本刊行)、第4弾『ダーク』(2002年単行本刊行)と続いたシリーズ全作品を電子化して意欲的な展開を開始した講談社の試みに拍手を送りたい。桐野夏生がついに電書へのルビコン川を渡ったわけで、こうなれば同じ講談社文庫の『OUT(上・下)』(日本推理作家協会賞)、直木賞『柔らかな頬』(文春文庫)、泉鏡花文学賞『グロテスク』(文春文庫)、柴田錬三郎賞『残虐記』(新潮文庫)、谷崎潤一郎賞『東京島』(新潮文庫)、島清恋愛文学賞&読売文学賞『ナニカアル』(新潮文庫)など文学賞受賞の傑作から『猿の見る夢』(講談社)、『夜の谷を行く』(文藝春秋)、『デンジャラス』(中央公論新社)といった近刊・意欲作まで、桐野作品が電子書籍でいつでもどこでも読めるようになるにちがいない・・・・・・そんな確かな予感が生まれた。

     さて、解禁されたデビュー作『顔に降りかかる雨』である。
     物語は、こう始まります。

    〈いやな夢を見ていた。
     私はマイクロバスの後部座席に一人座り、どこかに向かっているところだった。どうやら、行く当てのない旅の途中らしい。(中略)
     外はよく晴れて暑そうだが、私は冷え切っている。マイクロバスの天井にあるダクトから、かび臭い冷たい風が吹き出ていて、私の全身に鳥肌をたてているからだ。
     そのうち、どうも見たことがある景色だ、と私は気づく。
     ジャカルタだ。ここはジャカルタの郊外だった。(中略)
     ふと横を見ると、いつの間にかマイクロバスは交差点のようなところで停まり、私の窓の外に人影が立っているのだった。目をしっかりと閉じた男が白いシャツを着た男に付き添われ、私の窓に向けて空き缶を差し出している。目の見えない物乞いらしい。その男とは窓越しに五十センチと離れていない。
     思わず、私は男の堅く閉じられた瞼(まぶた)を見つめた。すると、閉じた目から涙がにじんで頬(ほお)に流れていくのが見えた。涙が、と思った瞬間、私はその男がインドネシア人ではなく、私の夫、博夫(ひろお)なのだと知った。
     私はたちまち深い悲しみと後悔と憎しみの入り交じった複雑な感情に打ちのめされる。博夫はここ、ジャカルタで死んだ。死んでしまったのに、彼はまだ私を苦しめる。博夫はぶるぶる震える手で空き缶を差し出したまま、涙を流し続けていた。
     が、死者の何と懐(なつ)かしいことか。思わず、バスの窓を開(あ)け、博夫に手を差し伸べようとすると、背後から焦(じ)れたようなクラクションの音が聞こえてきた。もう出ますよ、というようなことを運転手は私に言い、クラクションも一定の間隔でせかすように鳴り続けた。
    「待ってください!」

     叫んだ途端に目が覚める。夢だったんだ。わかっていたが動悸(どうき)が止(や)まなかった。まだクラクションが鳴り続けているからだ。
     クラクション?
     その時初めて、クラクションではなく、電話のコールだということに気づいた。反射的にベッド横の、サイドテーブルがわりの椅子の上に置いた腕時計を見る。午前三時少し前だった。心臓の鼓動がおさまるに従って、汗がどっと噴き出してくる。その間、電話は鳴り続けていた。
     夢の中の、博夫の陽(ひ)に灼(や)けた頬に流れた涙を思い出すと、電話に出る気はさらにしなかった。彼の死の知らせ以来、私は真夜中の電話には出ないと決めているからだ。じっと待っていると、二十回以上は鳴ったコールが、グルルッと中途半端に鳴りかけて、ようやく止んだ。
     留守番電話にセットしておかなければならない。私はベッドから両足をゆっくりと板の間におろした。裸足(はだし)の足裏に、べたっと床板が張りつくような異様な湿気が感じられた。外は強い雨が降っている。例年になく長く、そして雨のよく降る梅雨(つゆ)だ。〉

     舞台は梅雨(つゆ)の新宿。主人公の村野ミロは32歳。夫がジャカルタで自殺。その死に苛まれながら、新宿のマンションで死んだように生きるミロが、梅雨の雨が降りしきる真夜中に鳴り続ける電話の音で〈悪夢〉から目覚める冒頭シーン。〈裸足の足裏〉に感じた〈べたっと床板が張りつくような異様な湿気〉 電話の呼び出し音が鳴り続ける、真夜中の部屋。外は強い雨の音。目覚めたミロ・・・・・・不吉な予感を女のやわらかい皮膚の感覚によって描写する〈桐野夏生の世界〉。繊細でありながら圧倒的な展開力。桐野ワールドに一気に引き込まれていた。

     村野ミロの不吉な予感は、翌日昼近くに電話が鳴って現実となります。友人のノンフィクションライター・宇佐川耀子(うさがわ・ようこ)が近年、深く付き合っている男、成瀬(なるせ)が、〈耀子が部屋にいないのですが、そちらに伺(うかが)ってませんか?〉〈どこかに行くとか言ってませんでしたか?〉切迫したものを感じさせる声で執拗に尋ねる。成瀬の質問に答えることは、耀子を売るような気がして不快になってきたミロが〈そういうことでしたら、気がつきませんでした〉きっぱりと断ると、成瀬は敏感に察したらしく謝り、マンションの名前を聞いて電話を切った。

     成瀬の電話の調子が緊迫していたことが気にかかって仕方がない。いったい、耀子に何が起きたのか? 最後に話したのは、3、4日前の午後にいつもの軽い調子でかかってきた電話だった。耽美小説を書いたり、ヴァイオリンを弾いたりで話題の川添桂(かわぞえ・かつら)のパフォーマンスに付き合って欲しい、ちょっと気になることがあると言って、チラシをファックスしてきた。来週火曜日の夜、場所は六本木・・・・・・ファックスのチラシを見ている時、インターフォンが鳴り、ドアを開けると、背の高いがっしりした男が目をじっと見つめながら、軽く礼をした。成瀬本人だった。

    〈成瀬の目つきは、やはり並の人間より数倍鋭く、それに聡(さと)かった。私に挨拶(あいさつ)すると、耀子の靴がないか素早くチェックし、それからすぐに、狭い2DKの私の部屋を油断ない目で隈(くま)なく見渡した。耀子の物はひとつとて見逃さない、という意志が感じとられた。
    「耀子は来てません」
    「そうでしょうね」
     成瀬は私のほうをまったく見ずに、ほほ笑んでつぶやいたが、その様子は私を怖(こわ)がらせる。私の言うことなど全然信じていないのは明らかだった。
    「上がっても?」
     成瀬はワークブーツの紐を解き始める。
    「どうぞ。どうせ、いやだって言っても上がるつもりなんでしょう」
     私は腕を組んで壁に寄りかかり、強引な成瀬を呆れて眺めた。こんな、突然やってきた男に威圧されるのは不快だった。
    「ええ」〉

     一緒に来た君島と名乗る、パンチパーマの若い男の派手な服装――腕にはダイヤ入りのゴールドのロレックス、もし服が本物のヴェルサーチェだとしたら上から下までで400万円といったところだろう。もちろん、まっとうな仕事をしている人の格好ではない、としたうえで、この男について〈「なるほど、このネエちゃんかよ」 若い男は成瀬に軽く頭を下げると、私の顔を見て脅すようにぐちゃっと言った。かすかに北関東訛りがある。〉と続ける桐野夏生。極道の若者の様子をさりげなく描きながら、村野ミロという女の観察眼の鋭さを印象づける文章のうまさが魅力なのだ。

     勝手に上がり込んだ成瀬が奥からミロを呼んだ。耀子を探して、バスルームやトイレ、ベッドの下まで無断で覗いたらしい。

    〈怒りに紅潮した私の顔を見て、成瀬が初めて、少し笑った。
    「すみませんね」
    「ともかく」私はどすんと椅子に腰をおろした。「どういうことなのか、説明していただけませんか」
    「説明ってほどでもないんですよ。出来事は単純だし、まだ何にもわからないのです」
     成瀬は不機嫌に言い、自分自身にうんざりしたように軽く肩をすくめた。目はベランダの隅にほったらかしてある枯れたポトスの鉢を見ている。
    「要するに、耀子が大金を持っていなくなったんです」
    「嘘でしょう」私は大きく眉をつりあげて叫んだ。「絶対に変です! 耀子がそんなことするわけがないわよ」
     成瀬は私に視線を戻すと、疲れたように笑った。
    「僕もそう信じてました。でも、本当です。彼女に預けた一億円ごと、どっかに行ってしまった」
     一億円と聞いて、私はコトの重大さに打ちのめされた気がした。成瀬や、君島とかいう男が飛んでくる理由がわかる。それでも、何かが間違っているのだという確信があった。それは耀子が、私の友人たちの中で一番賢く聡明だという事実だった。大金を持って逃げるような馬鹿な真似(まね)は、絶対にしないはずだ。〉

     1億円は、メルセデスやBMWなど中古外車の販売店を経営している成瀬が親会社――君島はそっちの会社の人間だ――会長から借りた金で、耀子のパスポートもスーツケースも身のまわりの物も、一切合財(いっさいがっさい)なくなっているという。耀子と示し合わせて金を奪ったのではないかと疑う成瀬は有無を言わせずミロを会長のところに連れて行きます。
     ミロのマンションにいる君島から1階エントランスの郵便受けに「村善調査探偵」のプレートがあることを知らされていた会長の上杉が最初、面白がるようにミロに語りかける。

    〈「村善さんの娘さんならはっきり言いましょう。たぶん、見当もついてるでしょうからね。はっきり言いましょう。私のとこは、満崎組(みつざきぐみ)に上納金を納めてます。私の名も村善さんに聞いてみればおわかりでしょうが、もちろん決して無名じゃない」
     つまり、企業の形は取っているけれど、ほとんど極道だと言ってるのだ。
    「だから、あんたはこうなった以上、逃げることはできない」
    「あの、こうなった以上ってどういうことでしょうか」
     いらついたように、上杉が本性をむき出して大声を出した。
    「あのね、つまりねえ。あんたの友達で、成瀬の女、宇佐川だか宇野だか知らんけどね。そいつが持ち逃げした金は、もともとはここの金なんだよ!」〉

     ミロの父は業界に名を知られた探偵だった。半年前に新宿2丁目のマンションをミロに引き渡して北海道に帰ったが、ミロには探偵業を引き継ぐつもりはなかった。マーケティングを担当していた広告代理店も辞めて、1年くらいは貯金を食いつぶしながら暮らすつもりでいた。

     しかし――〈ともかく、二人で探せ。女と金を早く見つけて来い〉上杉が唾を飲み込み、きっぱりと言った。

    〈「いいか、期限をつけるぞ。あと一週間だ。土曜に手に入れた金なんだから、今度の土曜までに女と金が見つかったら許してやる。だが、それ以上かかったら落としまえをつけろ。わかったな、成瀬。おまえ、女とつるんで俺をだまそうってんじゃねえだろうな」
     上杉は、怖い顔で成瀬を睨みつけ、それから次に私を睨んだ。同等に、二人のことを信用していない目だった。〉

     女性探偵・村野ミロ誕生の瞬間です。親友・耀子が1億円とともに消えたことで、〈死んでいたミロ〉が覚醒し、女性探偵として成長していく。〈村野ミロシリーズ〉が4作品まで書き継がれたことは、前述したとおりです。
     そういえば発端となる「親友・耀子の事件」に絡む二人、成瀬と上杉の出会いは東京拘置所で、上杉は恐喝、成瀬は東大全共闘、学生運動で入っていたという設定です。1960年代末、東大全共闘は「連帯を求めて孤立をおそれず」という言葉を掲げました。〈村野ミロ〉はそんな〈孤立〉の匂いがする――。(2017/9/29)
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    投稿日:2017年09月29日