書籍の詳細

田中幸乃、30歳。元恋人の家に放火して妻と1歳の双子を殺めた罪で、彼女は死刑を宣告された。凶行の背景に何があったのか。産科医、義姉、中学時代の親友、元恋人の友人、刑務官ら彼女の人生に関わった人々の追想から浮かび上がる世論の虚妄、そしてあまりにも哀しい真実。幼なじみの弁護士たちが再審を求めて奔走するが、彼女は……筆舌に尽くせぬ孤独を描き抜いた慟哭の長篇ミステリー。

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イノセント・デイズ(新潮文庫)のレビュー一覧

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  •  太陽の光を燦々とうける山手の家々。華やかな元町の商店街。港の見える丘公園。日ノ出町駅界隈の路地裏。「労働者の街」と呼ばれ周囲から断絶されたドヤ街。野毛の動物園。ランドマークタワー。コスモワールドの大観覧車。ヨットの帆のような可愛らしい形状のホテル。そして、桜の花びらが雪のように舞う山手の丘の春の匂い。
     横浜に生まれ、横浜の名門高校野球部で甲子園を目指し、後に小説を書くようになった若い作家が横浜の景色のなかに描き込んだ少女の“穢れなき日々”――早見和真『イノセント・デイズ』が発する熱量に圧倒された。忘れられない作品になった。2008年『ひゃくはち』(集英社文庫、2014年8月22日配信)で作家デビュー。2014年発表の本作で2015年、第68回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を受賞。1977年生まれ、40歳の実力派だ。

     3月30日午前1時頃、JR横浜線中山駅近くの木造アパートで火の手が上がり、焼け跡から三人の焼死体が発見された。2階の角部屋から無残な姿で運び出されたのは井上美香さん(26歳)と、彩音ちゃん、蓮音ちゃんの一歳の双子の姉妹。美香さんのお腹には8か月になる胎児もいた。一家の主・敬介さん(27歳)は勤め先の介護付き老人ホームに夜勤で出ていて難を逃れたが、2年前に別れた元恋人・田中幸乃(24歳)が逮捕され、放火殺人の罪に問われた裁判員裁判で死刑判決を受けた。そして確定死刑囚として東京拘置所で6年間を生きてきた彼女に訪れた“特別な朝” ──。
     物語冒頭、書き出しが秀逸だ。

    〈その朝、季節が動いたことを実感した。
     東京拘置所、南舎房の単独室。巡視廊(じゅんしろう)越しの磨(す)りガラスに穏やかな青が透けて見える。ルーバーからかすかに差し込む陽はすっかり和らぎ、セミの鳴き声もいつからか地を這(は)う虫のものに変わっていた。
     田中幸乃は畳の上に正座し、小さく息を吐き出した。
     テーブルの上にスケッチブックを広げ、外の景色を想像する。しかし、なぜかいつものように集中できず、うまく思い浮かべることができない。(中略)
     書棚の下段に封筒が一つ倒れていた。担当の弁護士を通じ、支援者からもらった手紙はこれまで三百通を下らない。すべてに目を通してきたが、心が揺れることはなかったし、ましてや決意は揺らがなかった。
     ただ、その中に一人だけ、心に変化をもたらす者がいた。まるで定規で線を引いたかのような几帳面(きちょうめん)な文字に、無機質な茶封筒。「絶対に」という言葉が頻出する彼からの手紙は、必ず幸乃の心を揺さぶった。
     倒れていたのは、春先に送られて来た彼からの手紙だ。横浜・山手(やまて)は桜が満開だということを伝える文面に抗(あらが)いようのない懐(なつ)かしさを感じ、同時にひどく動揺したことを覚えている。
     そのときに最初で最後の返信を綴(つづ)った。うららかな春の陽が磨りガラス越しに差し込んでいた日のことを思い出しながら、幸乃は唇を噛(か)みしめた。
     廊下から折り重なるような足音が聞こえてきたのは、そのときだ。〈9時7分〉というデジタル時計の表示が目に入る。足音の中に聞き覚えのないものが混ざっていると悟ったとき、全身の筋肉が硬直した。
     足音は部屋の前で止(や)んだ。
    「1204番、出房しなさい」
     女性刑務官は毅然(きぜん)と言いながらも、目を赤く潤(うる)ませている。話をする機会のあった唯一(ゆいいつ)の刑務官だ。そう年齢の変わらない彼女に申し訳ないという思いが真っ先に湧(わ)いて、幸乃は逃げるように視線を逸(そ)らした。卓上のカレンダーを視界に捉(とら)えた。
     九月十五日、木曜日──。その日付に運命など感じない。長かった、あまりにも長すぎた生涯にようやく幕を下ろせるのだ。六年間、ずっと待ち望んでいた日だ。
     読んでいた便せんを封筒に戻そうとした。中から桃色の紙片が舞い落ちた。拾い上げ、目の高さに掲げてみる。紙切れと思ったものは、蝋(ろう)でうすくコーティングされた桜の花びらだった。
     春の香りが鼻先をくすぐった。錯覚という意識はなかった。それは拘置所に入ってからの六年間、どれだけ思いを巡らせてもついに感じることのできなかった外の匂いだ。
     再び向き合った磨りガラスの向こうに、今度は鮮やかな景色を思い描けた。季節も、場所もずっと遠い。わずか十メートルほど先の隔てられた外の世界に、菜の花に囲まれた満開の桜の大木が揺れている。
     いつの間にか乱れていた呼吸を、幸乃は懸命に整えようとした。
     お願いだから静かに逝(い)かせて──。〉

     死刑宣告から6年間、ずっと待ち望んでいた朝──田中幸乃は〈お願いだから静かに逝かせて〉と見えない誰かに懇願する。
     彼女はなぜ、死を願うのか。そもそも、なぜ、死刑囚となったのか──。

     続く〈プロローグ 「主文、被告人を──」〉は、裁判傍聴マニアで就活中の女子学生の視点で綴られます。
     私生児として出生した過去や、その母が17歳のホステスであったこと。養父から受けていた虐待に、中学時代に足を踏み入れた不良グループ、強盗致傷事件を起こして児童自立支援施設に入所していたという事実。そして出所後に更生し、真っ当な道を歩み始めたかに見えたものの、最愛の人との別れを機に再びモンスターと化していった経緯が書きたてられ、事件を伝えるマスメディアは「身勝手な理由で母子三人を焼き殺した整形シンデレラ」とセンセーショナルな断罪一色だった。しかし女子学生は判決を聞き終えた幸乃が見せた表情、行動に報道や世の中の反応との違和感を感じ取ります。

    〈「主文、被告人を──」
     それまでよりも一段高い声が法廷内に轟(とどろ)いた。
    「死刑に処する!」
    一寸の間もなく、今度は二十名近い記者が一斉に立ち上がった。椅子の音が鳴り響く。彼らの出ていった扉の向こうで「死刑、死刑、死刑!」「バカヤロー、違うよ」「整形シンデレラ、死刑だって!」という叫び声が飛び交っている。
     裁判長が存在を知らしめるように咳払(せきばら)いした。
    「願わくは、被告人が心の平穏を得んことを……」
     最後にそう締めくくろうとしたとき、法廷内の空気がかすかに緩んだ。何人かの傍聴人はすぐに席を立とうとしたが、私は身動きが取れなかった。いつものような高揚感を抱けず、普段の自分が何をおもしろがっていたのかも思い出せない。
     このとき胸にあったのは違和感だった。これまで見てきた法廷とは決定的に何かが違った。でも、その正体がつかめない。
     一瞬の静寂を縫うようにして、弱々しい声が耳を打った。
    「も、も、申し訳ありませんでした」
     声に気づいた数人がゆっくりと振り返る。
    「う、生まれてきて、す、す、すみませんでした」
     そう続けた幸乃から、裁判長は視線を逸らした。目頭を拭(ぬぐ)う裁判員が何人かいた。検事の一人は肩を揉(も)みほぐし、弁護人たちは力なくうなずき合った。裁判は幕を閉じようとしていた。
     さらなる異変があったのは、そのときだ。再び手に捕縄をかけられた幸乃が、引き寄せられるように傍聴席を振り向いた。
     私はあわてて幸乃が見つめる相手を探した。大きなマスクをした若い男がうつむいている。その横にはテレビで目撃証言を語っていた老婆と金髪の少年が、後方では被害者の写真を持った遺族らしき女性が大きく目を見開いている。
     幸乃が誰を見たのかはわからない。ただすべての事象を疑うような瞳の奥に、ふっと人間味が宿ったのは間違いない。それを証明するように、幸乃は直後に笑みを浮かべた。(中略)
     ・・・・・・幸乃は静かに法廷を去っていく。その背中に、私は懸命に問いかけた。ねぇ、あなたはどうしてそこにいるの──? その理由が裁判で解き明かされたとは思えなかった。〉

     大学卒業後、刑務官になる〈私〉の胸にあった違和感の正体──それは幸乃が自分の人生をいっさい弁解していないこと、何ひとつ抗おうとしていないことだった。
     自ら死を求めるかのような少女。田中幸乃のこれまでの人生に、そしてこれから始まる日々に思いを馳せずにはいられません。物語序盤でいきなり心をわしづかみにされ、ページをめくるスピードが高まっていく。

     プロローグの後、裁判官が読み上げる判決理由の骨子をそのまま章立てとする構成で物語が進んでいきます。
     第一章「覚悟のない十七歳の母のもと──」
     第二章「養父からの激しい暴力にさらされて──」
     第三章「中学時代には強盗致傷事件を──」
     第四章「罪なき過去の交際相手を──」
     第五章「その計画性と深い殺意を考えれば──」
     第六章「反省の様子はほとんど見られず──」
     第七章「証拠の信頼性は極めて高く──」
     エピローグ「死刑に処する──」

     そして、流布されていた「稀代の悪女」説に違和感を感じ、疑問を抱く人が少なからずいることが丁寧に綴られ、別の視点から見えてくる事件の輪郭が形づくられていく。たとえば日ノ出町の路地裏にある丹下産婦人科医院の院長・丹下建生は死刑判決のニュースに接した時、20年以上前の記憶が呼び覚まされ、彼の前で〈私がこの子を絶対に守る。だから先生、診ていただけますね〉と言った17歳の少女ヒカルの覚悟に思いを馳せる。幸乃を生んだのはけっして、〈覚悟のない十七歳の母〉ではなかった。

     章が進むにつれ、〈彼女はなぜ、死刑囚となったのか〉との思いはさらに強くなっていきます。これは冤罪なのではないか。死刑執行まで残された時間は少ないかもしれないが、きっと回避されるにちがいない、救いたい。そんな思いがどんどん強くなってきた終盤。思いもよらないクライマックスが待っています。
     推理作家協会賞選考委員の間で「あまりにも救いがない」という評もあったそうですが、田中幸乃に寄り添う作者の一途さが胸を打つ。著者はあるインタビューで、大学時代に好きな金城一紀の直木賞受賞作『GO』(角川文庫、2013年4月12日配信)やノーベル文学賞受賞作家ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を手描きで書き写したと語っていますが、早見和真のこの集中力は野球部時代に鍛えられたものなのでしょうか。作品に漲る熱量が読むものを圧倒する。いま最も注目される作家のひとりが到達した新境地をじっくり味わっていただきたい。(2018/1/26)
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    投稿日:2018年01月26日