エミリの小さな包丁 (角川ebook)

著者:森沢明夫

KADOKAWA / 角川書店

ジャンル:文芸

1100円 (税別)

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eBookJapan発売日:2017年07月05日

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 気にならないはずがない。
 心配しないわけがありません。
 東京で一人暮らしをしていた孫娘が15年ぶりの電話で、仕事を失くし、金欠になり、もうすぐ家賃も払えなくなることと、最初に相談したアメリカの兄に「海のおじいちゃんのところに行けば?」と言われたことを告げたのだ。
 孫娘、エミリは25歳。「海のおじいちゃん」は、エミリの母方の祖父、大三(だいぞう)。海辺の家で風鈴を作って暮らす80歳は、なにひとつ詮索することなくエミリを迎え入れます。

〈「麻衣子には、相談したのか?」
「ううん。お母さんは……、新しい男の人の家で暮らしてるし」
「そうか」と、ため息まじりに言うと、おじいちゃんは低い声で続けた。「で、いつから来るんだ」
「えっ? 行って……いいの?」
「死んだばあさんの部屋を使えばいい」
 おじいちゃんは、あまりにもあっさりとそう言った。詳しい事情も、自分の娘である母のことも訊かなかった。〉

 季節は8月。
 青い海、青い空、青い風が心地よい海辺の田舎町、龍浦。
 東京から快速で2時間以上もかかるが、夜になると、黒々した海原の向こう岸に、きらきらした都会の町明かりがよく見える。川崎、横浜の夜景は、思いもよらぬほど近い距離できらめいている。
 東京で傷つき、逃げてきたエミリと彼女を黙って受け入れた大三おじいちゃん、それに14歳になる老柴犬コロ――テレビはないけれど、手作りの風鈴が澄みやかな音色で鳴る海辺の家で過ごす二人と一匹の、ひと夏を描いた『エミリの小さな包丁』(角川書店、2016年4月27日配信)。有村架純主演の同名映画原作小説『夏美のホタル』(角川文庫、2014年9月5日配信)、吉永小百合プロデュース・主演映画「ふしぎな岬の物語」原作小説『虹の岬の喫茶店』(幻冬舎文庫、2013年12月13日配信)で注目の人気作家・森沢明夫の最新作です。

 上司と不倫関係に陥って、仕事も住まいも失ってしまったエミリ――著者はこう描いています。「第一章 猫になりたい カサゴの味噌汁」の一節を引用します。

〈本当のわたしは犬歯を抜かれた臆病(おくびょう)な犬なのに。いつも尻尾(しっぽ)を下げてびくついている捨て犬なのに。
 慣れない人がそばにいるとき、わたしはいつもおどおどしながら、こっそり相手の顔色を窺(うかが)っている。ある程度の距離を取っているのはそのためで、別に、損得勘定をして近づかないわけじゃない。しかも、わたしは、いったん慣れたら、むしろ馬鹿正直なくらい、その人に懐いて従順になってしまう。そういうときのわたしは決まって相手を信じすぎて盲目になり、最後はたいてい騙(だま)されて──落ち込む。(中略)
 悲しいくらいにそういうタイプだからこそ、わたしは、いま、こうして海辺の田舎町へと向かう快速列車にガタゴト揺られるハメになっているのだ。
 わたしは、猫になりたい。
 猫の生き方を味わってみたい。〉

 人間関係に悩み、傷つき、孤独に泣いている、いまどきのふつうの女性だ。いつもゆっくりと呼吸をしていて、気に入った散歩道を悠然と歩き、塀の上からノロマな世間の連中を睥睨(へいげい)し、バター色のひだまりを見つけたら、そのなかで丸くなって眠る。やさしい人と出会えたら、たっぷりと全身を撫(な)でてもらい、喉を鳴らして心ゆくまで甘えまくる……そんな猫になりたいと願っている、あなたの隣にいる女性です。

〈……そのとき、犬の後ろにぬっと大柄な人影が現れた。
 それが、わたしと大三おじいちゃんとの十五年ぶりの再会だった。
「エミリ、か?」
 電話と同じ、渋めのしゃがれ声。
「えっと、はい……」
「そんなところで、何をしてるんだ」
 おじいちゃんは、玄関で尻餅をついたままのわたしを、怪訝(けげん)そうな目で見下ろしていた。短く刈った白髪頭、チョコレート色に日焼けした皺々(しわしわ)の顔、履き古したビーチサンダルと、ショートパンツ、そしてよれたアロハシャツ。ちょっと間違えたら昭和の任澎(にんきょう)映画にでも出てきそうなこわもてだけど、知的でダンディな雰囲気も漂わせる老人──それが、わたしのおじいちゃんだった。でも、俳優さんと比べると、佇(たたず)まいが素朴すぎて、やっぱり田舎の海辺の老人だ。〉

 エミリにあてがわれた6畳の和室は掃除が行き届き、縁側のついた掃き出し窓のカーテンレールにはあまり見かけない形をした風鈴――ちょうどうつむいた桔梗の花のように、縁に五つの山がある――がぶら下がっていた。そして東京から送った数十個の段ボールの上には、竹の骨と浴衣(ゆかた)の生地で作られた房州うちわ。おじいちゃんの心遣いです。家にはエアコンはなく、テレビもありません。

 懐かしく思いながら風鈴づくりの工房に近づいたエミリにおじいちゃんが声をかけます。

〈「エミリ」
「はい……」(中略)
「いまでも、魚、嫌いか?」
「え、魚? 食べるのが嫌いかどうか?」
「そうだ」
「えっと……、好き……だけど」
 答えながら、思った。「いまでも」ということは、幼少期のわたしが魚を食べなかったことを、おじいちゃんは覚えていてくれたのだ。
「そうか」おじいちゃんは金槌をそっと作業台の上に置いて、少し目を細めるようにした。それは、今日はじめて目にした、おじいちゃんの笑顔らしき表情だった。「なら、晩飯を調達しに行こう」〉

 夕方とはいえ、まだ強い日差しのなか、二人と一匹が白いコンクリートの坂道を下って向かった先は小さな港の防波堤。狙いは、カサゴ。おじいちゃんのアドバイスはぶっきらぼうながらも、具体的で的確。大物を一匹釣り上げたエミリがその感触を感じ取り釣りの喜びを知ったと見て取ったら、あとはエミリに任せたとばかり、自分は釣りをやめてコロの背中を撫でながら水平線のあたりをぼうっと眺めているおじいちゃん。

 エミリの釣果を持ち帰って――台所に立ったおじいちゃんは、ずいぶんと小さな包丁を手にして、それを砥石でシャッシャッと手際よく研いでから、カサゴをさばきにかかります。

〈わたしたちは、向かい合って椅子に腰掛けた。
「なんか、すごい……」
「ん?」
 おじいちゃんは、小首を傾げた。
「だって、割烹(かっぽう)居酒屋にでも来たみたい。料理がめっちゃきれい」
 わたしは思ったままを口にしたのだけれど、おじいちゃんはちょっと面映(おもは)ゆそうに眉をハの字にしただけだった。
「食べていい?」
「いただこうか」
「うん」
 わたしはさっそく箸(はし)を手にして「美味しそう」と言いながら料理に手を伸ばそうとしたのだけれど、おじいちゃんはピンと弓のように背筋を伸ばし、日焼けした両手を合わせて「いただきます」と言った。その仕草が、なんだか小さな祈りのように見えたわたしは、少し慌てて手にしていた箸をテーブルに戻した。そして、あらためて、おじいちゃんの真似をして「いただきます」と言ってみた。
 考えてみれば、都会で一人暮らしをしているあいだは、テレビを観ながらコンビニで買ったご飯を適当につまんでいるような具合だったから、こんな風にちゃんと「いただきます」をしたことなどなかった気がする。(中略)
 おじいちゃんは目で小さく頷くと、ビールに口をつけた。
 わたしも飲んだ。
 そして、二人がグラスを置いたとき、
 凜。
 わたしの部屋の窓辺から、あの風鈴の音色が聞こえてきた。〉

 家族と、ふつうに食卓を囲むという、ふつうの幸せ──。
 エミリのなかで、何かが変わり始めます。

〈「この家にいるあいだは、好きにしなさい」
「え?」
「エミリは、何をしてもいいし、何もしなくてもいい」〉

 都会にいて、上司にやれと命令されたことに従っていただけの日々だった。だから「好きにしていい」といわれると、どうしていいかわからなくてかえって困ってしまったのだが。

〈「料理、手伝うよ。いい?」
「それなら、下処理を頼もうか。小さめのアジの内臓を出してくれ。こうやるんだ」〉

 エミリはおじいちゃんに料理を教わり、台所に二人並んで立つようになります。そして、おじいちゃんの小さな包丁――もともとは大きな出刃包丁だったのが、長い間研ぎ続けてきて小さくなった包丁を研ぐのもエミリの仕事になっていきます。
 おじいちゃんと一緒に作った料理は、沁みるような美味しさだった。過ぎゆく日々を、のんびり、淡々と、でも、ある意味とても丁寧に生きているおじいちゃんの後ろ姿がエミリのなかに根を張っていた「常識」を溶かしてゆく……。

 東京から快速で2時間以上もかかる海辺の漁師町。そこには何もないけれど、地に足をしっかりつけて、ゆったりした気持ちで日々を過ごしている素敵な人たちがいます。
 おじいちゃんの友人で、釣りが大好きで毎日のように防波堤にいるけれどいつだってボウズの作家、鉄平(てっぺい)さん。
 おじいちゃんの朝の散歩コースにある畑でおいしい野菜をつくっていて、朝会うと採れたてのトマトなどをビニール袋に入れて手渡してくれるフミさん。ぎょろりとした目の老女ですが、エミリの母をよく知っているらしい。
 気のおけない若い漁師、心平(しんぺい)、30歳。イサキやアジ、イワシ、キビナゴなどきずもので流通に回せないけれど新鮮な魚をおじいちゃんに分けてくれる。「バツイチになる」が、目下の願いとか。
 朝の散歩の時、波の斜面を滑り降りるサーファーがエミリの視線を釘付けにした。直斗(なおと)だ。無農薬野菜を作る農家の息子で、心平とは幼馴染みの同級生。小さなカフェ「シーガル」のオーナーだが、いい波が立っていれば店を閉めて海に出るサーフィン馬鹿。おじいちゃんの風鈴をインターネットで販売する手伝いをしている。
 小さい頃は、直斗が「おねえちゃん」と呼んでいた網元の娘、京香(きょうか)。神社で初めて見かけたときから、際だった美しさがエミリには印象的だった。東京で総合職としてバリバリやっていたけれど、すっぱりやめて龍浦に帰ってきて、いまは「家事手伝い」。

 こんな人たちに包まれて過ごした、エミリのひと夏の日々――「カサゴの味噌汁」「アジの水なます」「サワラのマーマレード焼き」などなど、おじいちゃんと二人でつくった料理のレシピと手順がしっかり書き込まれています。ここでその料理の一つ一つを紹介することはしませんが、大三おじいちゃんの、そしてエミリと二人でつくる料理が本作の魅力の一つになっていることは間違いありません。
 そして――「私には武器がある。」で始まるプロローグから第六章まで、エミリ視点で進んできた物語が、エピローグで「大三おじいちゃん」の視点に変わります。
〈意外だったのは、エミリのそのひとことで、この年老いた涙腺が一気に緩んでしまったことだった〉
 この一行を目にしたとき、同じように涙腺が一気に緩んでしまったことを自覚した。出色のエピローグです。(2016/6/17)
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