あなたは、誰かの大切な人

580円 (税別)

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メキシコを代表する建築家の邸までやってきたのは、かつてのビジネスパートナーの「目」になるためだった──建築事務所を営むキャリア女性の生き方を描いた『皿の上の孤独』を含む、六つの小さな幸せのストーリー。

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メキシコを代表する建築家の邸までやってきたのは、かつてのビジネスパートナーの「目」になるためだった──建築事務所を営むキャリア女性の生き方を描いた『皿の上の孤独』を含む、六つの小さな幸せのストーリー。

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 ある予感に満ちたタイトル。『あなたは、誰かの大切な人』(講談社、2017年5月17日配信)――原田マハが紡ぐ六つの物語はどれも、その予感を裏切ることなく、読むものの胸に心地よい風を送り込みます。胸に熱いものがこみ上げ、時には目頭が熱くなる。そして、いま確かに人生を生きていることの喜びが胸のうちに静かに広がっていくのだ。
 原田マハは講談社文庫特設サイトに〈文庫版刊行に寄せて〉と題して、
「あなたがもしも、いま、なんということのない日々を生きているとしたら、それはきっと、あなたが誰かの大切な人であることの証しだ。それが言いたくて、私は、この物語たちを書いた」
 この作品への思いをこう綴っています。
「この物語たち」の一篇、巻頭収録の「最後の伝言 Save the Last Dance for Me」は、母を送る告別式の朝から出棺までのわずかな時間の経過のなかに母と父、そしてふたりの娘の人生とそれぞれの秘めた思いを綴った物語だ。副題の〈Save the Last Dance for Me〉は、アメリカのコーラスグループ、ドリフターズが1960年にリリースした楽曲で、日本では岩谷時子の訳詞を越路吹雪が歌って大ヒットした。この懐かしい歌、その曲名がなぜ副題となっているのか。

〈いつその日がやってきても、と心構えはできているつもりだった。
 が、いざその日がやってくると、ただもうあわただしいばかり。こんなふうに人は人を送るんだな、などと、ようやくふっと気を抜けたのは、斎場(さいじょう)のトイレの個室の中だった。
 すがすがしい秋晴れの空のもと、母の告別式の日を迎えた。三日三晩、ほとんど眠る間もなく、目の下のクマを濃いめのファンデーションでどうにか隠した。妹の眞美(まみ)もおんなじような顔だったので、リキッドファンデを重ねづけして、クマを隠してやった。「お姉ちゃん、やさしいとこあるね」と、眞美もそのときようやく気を抜いたようだった。〉

「最後の伝言」は、告別式の朝を迎えた姉妹の描写から始まります。姉妹の母、平林トシ子、享年73。18歳のときに郷里の茨城から上京して、上野の美容室で下働きを始める。28歳のとき、東京郊外の小さな町で美容室を開業。70歳で持病の糖尿病を悪化させて店を畳むまで、美容師一筋、元祖ワーキングマザーとして、物語の語り手である姉の栄美(えみ)と妹の眞美を育て上げた。
 問題は、母よりひとつ年下の夫、平林三郎、通称サブちゃんにありました。母が危篤となってからも病室を訪れることのなかった父は、喪主の立場でありながら前夜の通夜に出ず、告別式の日になってもどこへやら姿をくらませたままだった。なんの才能もなければ、働く意欲も気力もない。典型的な「髪結いの亭主」的父親なのですが、サブちゃんはかつて姉妹にとって、憧れの人だった。母にとっては、いつまでも夢の男だった。

〈父は、その昔、そんじょそこらの俳優も太刀打ちできないんじゃないかと思われるほど、正真正銘の美男子だった。そのくせ、C調で、情けなくて、放っておけない。どんな女性のハートも一瞬でさらってしまう。
 そんな男の連れあいになることができて、母がどんなに得意だったか。おトッコと呼ばれようがだめんずといわれようが、どこ吹く風。だって、母にはこの人がどうしても必要だったのだから。この父がいたからこそ、母は、強く、凜々(りり)しく、たくましく生き抜くことができたのだ。
 私もそう。眞美だってそうだ。私たちふたりの娘は、このとんでもない父を、内心、自慢に思っていたのだ。父と一緒に出かければ、女たちの見る目が違う。父兄参観にやってくれば、お母さんたちの目つきが変わる。この人私のお父さんなのよ! と、言いふらしたい気持ちになったことだってある。〉

 ご近所のおばさんたちから「イケメンの走り」ともてはやされ、その顔見たさに母の美容院に通ったという「夢の男」。女遊びで母を悲しませたのは一度や二度ではありません。離婚届に判をついて渡そうとしたこともあったという、正真正銘のろくでなし。告別式の日だというのに姿が見えない。葬儀社の担当者は栄美に喪主変更を促すが、栄美は結論を先送りにし、時間だけが過ぎていく・・・・・・。
 そういえば、亡くなる1週間前――〈「ねえ栄美、お願いがあるんだけど」〉透析を受けながら、母が天井(てんじょう)を見つめたままで言った。

〈「あたしにもしものことがあったら……うちの一階の仏間(ぶつま)の天袋(てんぶくろ)の、いちばん奥にあるみかん箱の中に、ワシントン靴(くつ)店の靴箱が入ってて、その中にとらやの最中(もなか)の箱があって、その中に山本海苔(のり)の缶が入ってるから、それを開けて……」
「ちょっ、ちょっちょっちょっ、ちょっと待って」私はあわてて、バッグからメモとペンを取り出した。
「え、なんて? もう一回、言ってくれる? 居間の押し入れのリンゴ箱の?」
「ばぁか」と母は、くっくっとのどを鳴らして笑った。「全然違うでしょ。仏間の天袋のみかん箱の……って、わざわざメモ取るのやめてくれない? そんなの、あとで誰かがみつけたら、なんだこりゃ、って思うわよ」
「わかった」と私は、メモとペンをサイドテーブルの上に載せて、ベッドのほうへ身を乗り出した。
「何? そこに何が入ってるの?」
「手紙」と母が、短く答えた。
「隣町の葬儀屋さん、『永訣堂』の係長、横山さん宛に」
 どきっとした。(中略)
「で、その人に、なんの手紙?」
「秘密よ」ふふっと笑って、母が返す。
「あたしに何かあったら、横山さんに全部仕切ってもらうように、もう頼んであるから。あんたはその手紙を、忘れずに天袋から引っ張り出して、お葬式のまえの日に彼女に渡してくれればいいの。それだけよ」〉

〈私や眞美には、その……手紙とか、ないの?〉と訊かれた母は少し首を横に振りながら、〈あんたたちは、立派に育ってくれた。それでじゅうぶん〉独り言のように、囁いた。
〈「じゃあ、お父さんには? 手紙はないの? ……なんにも言うことないの?」
 母は、ふうっと細いため息をつくと、
「ないに決まってるでしょ。あんなろくでなしに」
 震える声が、細いのどの奥からかすかに聞こえてきた。私は、母の閉じたまぶたがこれっきり開かないんじゃないかと不安になった。それでいっそう、涙がこみ上げた。〉

 それからちょうど1週間後。母は、栄美と眞美に見守られ、眠るように天国へと旅だった。
 栄美が喪主となって始まった告別式。開始前、葬儀社の横山係長は母から託された手紙について〈故人さまから、ご主人さまへ、最後の伝言〉と言葉少なに語り、喪主の不在に「困ったな」とつぶやいていた。
 そして――参列者が母に最後の別れを告げ棺(ひつぎ)に蓋をしようとした、その瞬間(とき)――「トッコおおお!」父の雄叫びが会場にこだました。直後に、

〈あなたの好きな人と踊ってらしていいわ
 やさしい微笑みもその方におあげなさい
 けれども私がここにいることだけ どうぞ忘れないで〉

 越路吹雪の歌声が斎場内に響き渡り、母から父への最後の伝言が何だったのかがわかります。

〈きっと私のため残しておいてね 最後の踊りだけは
 胸に抱かれて踊る ラストダンス
 忘れないで〉
 “Save the Last Dance for Me”につけた岩谷時子の詞で物語は終わります。越路吹雪を知る世代なら(もし彼女の歌を聴いたことがなければ、YouTubeで試してみてください)、低く静かに語りかけるように歌う声とともに〈胸に抱かれて踊る ラストダンス 忘れないで〉のフレーズが心にしみ入ってくる、いいエンディングだ。

 この「最後の伝言 Save the Last Dance for Me」を初め、『あなたは、誰かの大切な人』には、
「月夜のアボカド A Gift from Ester's Kitchen」
「無用の人 Birthday Surprise」
「緑陰のマナ Manna in the Green Shadow」
「波打ち際のふたり A Day on the Spring Beach」
「皿の上の孤独 Barragan's Solitude」
 6篇の物語が集められています。
〈あなたは、きっと、誰かの大切な人。どうか、それを忘れないで〉
 原田マハの思いがこめられた短篇集。心が洗われるような六つのストーリー。どうぞ「大切な人」へ思いを馳せてください。(2017/7/7)
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