果つる底なき

池井戸潤

講談社/文芸

ジャンル:ミステリー

660円 (税別)

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eBookJapan発売日:2017年03月31日

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果つる底なきの内容

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果つる底なきの詳細

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 第44回(1998年)江戸川乱歩賞を受賞した池井戸潤の作家デビュー作品である。受賞に際して池井戸潤は、
「私がかつて勤めていた銀行で本当にあった倒産とそれに関する様々な出来事をモチーフにした金融ミステリーです。実際に事件とかかわった身としては、書きたくて書いたというより、どうしても書かなければならなかったと言ったほうがしっくりくる、因縁の作品。本当は忘れてしまいたいような出来事なのに、忘れられない。心の中でしこっていたものをなんとか整理するために書いた小説」
 と、この作品の意味合いを語った。

 そして、「銀行を退職して三年になりますが、いまようやく自分の選択が正しかったと心から思えるようになりました。作家になるのは私の夢(Vision)です。今回の受賞で、私はその夢を実現させるための挑戦権を得たに過ぎません」と続けた池井戸潤は、その後の10年あまりの間に、吉川英治文学賞新人賞受賞作『鉄の骨』(講談社、2014年3月14日配信)、直木賞候補作『空飛ぶタイヤ』(講談社、上・下、2014年3月14日配信)、主人公の決めぜりふ「倍返しだ!」が流行語となって話題沸騰のTVドラマ原作「半沢直樹」シリーズなどを続々と発表。2011年に『下町ロケット』(小学館、2015年8月14日配信)でついに直木賞を射止め、いまや時代を代表する人気作家となった。

 そのデビュー作『果つる底なき』に、こんな一節があります。

〈そして悲しみは怒りに変わる。しっかりとした方向性を持った怒りだ。
 私は閉じた瞼(まぶた)の裏側で、……に対峙する。
 形もなく、概念もないもの。あるのはただ、醜い思念のみ。まさに暗渠だ。魂の深淵、果つる底なき暗澹(あんたん)たるもの。それは単に価値観などという尺度で説明しうる範囲を超越している。始まりも終わりもなく、きっかけすらつかめない狂気。これ以上、こいつを生かしてはおけない。〉

「果つる底なき暗澹たるもの」。書名はここから来ているわけですが、この狂気に対する怒りこそ、池井戸作品に通底する根なのではないか。その意味で、デビュー作品『果つる底なき』は、「金融ミステリー」から出発して企業社会のさまざまなテーマに幅を広げてきた池井戸潤の作家としての原点だ。「果つる底なき暗澹たるもの」に対する怒りこそは、池井戸作品に共通する“根”なのだ。

 物語は、二都(にと)銀行渋谷支店の中堅行員が急死して始まります。死因は蜂に刺されたことによるアレルギーの過剰反応──アナフィラキシー・ショックだった。
 その日の朝、渋谷支店融資担当課長代理の伊木遥(いぎ・はるか)は、業務用車両駐車場に向かう途中、同期入行で債権回収担当課長代理の坂本健司と偶然一緒になり短い会話を交わした。

〈「回収か」
「ああ。でかいぞ」
 いったん立ち止まり、また歩き出す。横顔に緊張感が見て取れ、普段なら飛び出してくる冗談のひとつもない。
「今日はどこ?」
 坂本は答えの替わりに、にやりと笑った。
「なあ、伊木──」
 歩きながら私の肩に腕をまわし、急に悪戯(いたずら)っぽい目でこちらを覗(のぞ)き込む。
「これは貸しだからな」
 妙なことを言った。
「貸し?」
「いまにわかる」〉

 その後、坂本は代々木公園脇に停めた車の中でぐったりしているところを発見され、救急車で病院に運ばれたが、既に意識不明で午後1時過ぎに息を引き取る。
 死の数時間前に坂本が残した「これは貸しだからな」との言葉の意味するところは、いったい何なのか?「いまにわかる」と言い残した坂本だったが、翌日──事務部が坂本のオペレーティング記録をチェックしていてとんでもないことが判明する。坂本が顧客口座から3000万円を他行の坂本健司名義の口座に送金していたらしいのだ。一か月ほど前のことだった。

 坂本と言葉を交わした最後の人間となった伊木は、坂本の妻曜子と結婚前に付き合っていたこともあって、所轄署の刑事から疑惑の目を向けられ、夜帰宅したところで二人の刑事の訪問を受けます。坂本のアレルギー体質を知っていたのではないか、そして朝、坂本と言葉を交わしてからどこに行ったのかアリバイ確認が目的のようだったが、最後に3000万円が振り込まれた坂本名義の口座から現金を引き出した男の映る監視カメラ映像を見せられた。知らない男だったが、坂本の死は単なる事故ではなく、事件性があるのか。

 坂本にいったい何があったのか。坂本の業務を引き継いだ伊木は、そういうことをする男ではないとの直観を胸に、担当企業のクレジットファイルや使用していたPCを調べ始めます。
 そんな伊木の周囲で連続して“事件”が発生します。一人目の被害者は、伊木の直属上司である課長の古河。仕事を終えて伊木と二人で新宿に出て、「事件」そして「銀行」のことを語らいながら飲んだ。夜が更けて歌舞伎町の外れの淋しい通りを千鳥足でゆく古河。

〈「坂本のこと、残念だったなあ」
 古河はふらついた足取りで私の横を歩いている。雨は止んでいた。疲れ、そして酔いも手伝って、油断していた。私はどこからか近づいてきた足音にまったく注意を払わなかった。空を見上げた。星はないな、そんなことを思った。どんよりした鈍色(にびいろ)の雲が都会のネオンの反射を受け止めているだけだ。じっとりと湿気を含んだ空気が肌にはりつく。
 足音が、すぐ背中で聞こえた。古河が振り返った。
「おい!」
 古河が鋭い声をあげた。振り返ろうとした私に古河が体をぶつける。左腕からアスファルトに倒れ込む。痛みが走った。上体を起こし見上げた視界の中で古河と黒い塊が一つになっていた。一瞬の間だった。黒い塊が身を離す。遠い街灯の弱い輝きがかすかにその横顔を照らした。サングラス。そして、疾走する狂気を湛(たた)えた目。満たされたように唇がめくれあがり、喉仏が動いた。
 あの男だ。
 男がさっと体を反転させ、駆け出す。その手の中で何かが揺れた。ナイフだ。きらりと不気味な光を放った。
「課長──!」〉

 刑事が持ってきた防犯テープに映っていた男だった。
 腹部を刺された古河は緊急手術で一命を取り留めた。
 前夜、伊木のマンションの郵便受けのなかで、アシナガバチが尻から毒針を出したまま、翅(はね)を毟(むし)られた無惨な姿で這い回っていた。昨夜は警告。そして今夜は、仕掛けてきた。古河は、身を挺して私を守ろうとし、伊木の身代わりになったのだ。伊木の鞄がなくなっていた。
 二人目は、副支店長の北川睦夫。
 ベッドサイドで執拗に鳴り続ける音。連日の疲れから深い眠りについていた伊木が電話の子機をつかむ。
〈闇のなか、デジタル時計は午前五時。
「──はい」
「伊木君か」
 声の主を特定するのに時間がかかった。相手がわかったとき、向こうが告げた。
「高畠だ」驚いて、私は体を起こした。
「支店長。どうしたんです、こんな時間に」
「──北川君が事故で亡くなった」〉

 晴海埠頭(はるみふとう)で車ごと海に転落しているのが見つかったという。
 北川副支店長と課長代理の伊木は、もともとそりが合わない。伊木が担当していた企業が不渡りを出した時、債権確保のためには深夜零時過ぎでも平気で社長宅に押しかけたのが北川副支店長だ。午後5時以降の督促は違法。サラ金が禁じられていることを、銀行がやっていいわけがない。非常識な行為だった。
 その企業──東京シリコンは結局、倒産に追い込まれ、社長は相模湖畔に停めたメルセデスのなかで命を絶った。坂本は倒産した東京シリコンを伊木から引き継いで、債権回収に動いていたが、なにか掴んでいたらしい。その痕跡をたどる伊木が深夜、支店の地下2階の書庫である振込依頼書を探し始めて1時間ほど経過した時──。

〈「何をしている」
 そのとき、突如、太い声が室内に響きわたり、私ははじかれるように顔を上げた。
 北川が立っていた。入り口で仁王立ちになり、猜疑心(さいぎしん)に満ちた目で私を凝視している。
「調べものです」
 私は綴りを箱の中へ戻した。
「書庫の管理者は君じゃないだろう」
 北川は私のところまで来ると、足元に転がっていた鍵に目をとめ、咎(とが)めた。
「調べものがあったので、宮下代理に借りたのですが」
「管理者を任命するのは私だ、伊木」
 北川は私の足元にある振込依頼書の箱を見下ろした。「何を調べていた」
「取引先から振り込みの確認を受けたものですから。でも、もう終わりました」
 適当にいい繕(つくろ)って立ち上がった。北川は動かなかった。そのため、通路の出口を塞いだような格好になっている。
「前場所(ぜんばしょ)からの申し送り通りだな、伊木。お前、まだ企画部での失敗に懲りてないのか。勝手なことばかりすると次も期待できない。そう覚悟しておいたほうがいい」
 北川は下卑(げび)た笑いを唇の端に浮かべて、踵(きびす)を返した。その姿が入り口の向こう側に見えなくなってから、私はもう一度振込依頼書の綴りを手にとった。
 綴りは、端を揃えてドリルで穴を開け、プラスチック製の芯で留められている。支店に備えつけられた機械で簡易的に処理されたものだ。
 仔細に調べると、芯になっているプラスチック部分に小さな紙片が挟まっているのを見つけた。それが何を意味しているか考えるまでもなかった。
 誰かが持ち去ったのだ。〉

 不審なことはそれだけではなかった。伊木の机の上に置かれた資料が席を離れていた僅かな時間になくなっていた。また、坂本のパソコンの中のデータが坂本の通夜の夜に更新されていた。いったい、行内のだれが?
 休日の夕刻。支店内を常時映している防犯ビデオ入手に動いた伊木の自宅マンションを、北川副支店長が訪れた。思いもかけない訪問に伊木の頭の中で警報が鳴る。

〈「何を調べている」
北川はくってかかるように言った。
「なんのことかわかりませんが」
「とぼけるな。お前が防犯カメラのテープを持ってることぐらいお見通しだ」
「さあ、なんのことですかね。そんなことを聞くためにわざわざ休日にいらっしゃったわけですか」
 組んでいた指を拳にし、右の膝の上を叩いた。
「ふざけるのもいい加減にしろ。これは支店にとって重大な問題なんだ!」
「支店にとって、ではなく、あなたにとってじゃないんですか」
「きっ、さまぁ!」
 北川は立ち上がり、私の胸ぐらを掴んだ。Tシャツが伸び、北川の拳に巻きついている。「出せっ! どこだっ、出せっ!」
「なにをそんなに怯えているんです」
「うるさいっ!」(中略)
「ひとつだけ忠告してやる。いい気になってちょっかい出してるといまに吠(ほ)え面(づら)さらすぞ、伊木。この件から手を引け。いつまでも突っ張って生きていられると思ったら大間違いだ」〉

 北川副支店長の顔面から血の気が失せていた。いままで浮かべていた怒りの表情と絶望が混在し、奇妙な具合に表情が歪んでいた──それでも精一杯の捨て台詞を残して伊木の部屋を出て行って数時間後、北川副支店長は晴海埠頭で転落死した。伊木には、事故だとはとうてい思えなかった。まして、自殺のはずはない──。

 いったい銀行の暗闇でなにが行われているのか。伊木が後を託した東京シリコンのために奔走していた坂本は、なぜ死ななければならなかったのか。〈これは貸しだからな〉の意味を求めて銀行の内部腐敗に挑む伊木の孤独な闘い──果つる底なき暗澹たるものに対する池井戸潤の挑戦は、ここから始まります。(2018/3/2)
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