書籍の詳細

司法権力の中枢であり、日本の奥の院ともいわれる最高裁判所は、お堀端に、その要塞のような威容を誇っている。最高裁の司法行政部門である事務総局は、人事権を含むその絶大な権力を背景に、日本の裁判官たちをほしいままにコントロールしている。最高裁に君臨する歴代最高の権力者である須田謙造最高裁長官は、意に沿わない裁判官を次々に左遷し、判決の方向さえ差配し、ついには原発訴訟を電力会社に有利になるよう画策していく

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黒い巨塔 最高裁判所のレビュー一覧

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  •  これは、この世界の出来事ではない。
     あるパラレルワールドの物語である。

     巻頭に2行のことわりを置いて始められる戦慄の物語。著者はなぜ、『黒い巨塔 最高裁判所』(講談社、2016年10月28日配信)を書き始めるにあたって「この世界の出来事ではない」とことわり、「あるパラレルワールドの物語である」と重ねなければならなかったのでしょうか。
     著者の瀬木比呂志氏は、最高裁事務総局民事局付として勤務した経験を持つ元裁判官で、2012年に明治大学法科大学院専任教授に転身。裁判官として最高裁の奥の院――権力機構を目の当たりにしてきた自らの体験と法曹界にあって積み重ねてきた研究をもとに、日本の司法の知られざる実態を明らかにする衝撃の書2冊――『絶望の裁判所』(2014年2月)、『ニッポンの裁判』(2015年1月)を相次いで出版。いずれも講談社現代新書で、紙書籍、電子書籍がほぼ同時にリリースされてロングセラーとなり、後者は第2回城山三郎賞(小説、評論、ノンフィクションを問わず、いかなる境遇、状況にあっても、個として懸命に生きる人物像を描いた作品、あるいはそうした方々が著者である作品を顕彰することを目的に2014年に創設)を受賞しました。
     瀬木教授は、この2冊について――『絶望の裁判所』はもっぱら裁判所、裁判官制度と裁判官集団の官僚的、役人的な意識のあり方を批判、分析した書物であり、これに対し『ニッポンの裁判』はそのような裁判所、裁判官によって生み出される裁判のあり方とその問題点について、具体的な例を挙げながら、詳しく、かつ、できる限りわかりやすく、論じた、と述べています(「『ニッポンの裁判』はしがき」より)。
     著者の言葉を借りるなら、現在の日本の司法、裁判に対する国民、市民の不信と不満が耐えがたいほどに鬱積(うっせき)しています。にもかかわらず、その問題点を分析した書籍は少なく、中でも一般向けに書かれたものはほとんどなかったという。そうした中で、インサイダーとアウトサイダー双方の視点から包括的かつ構造的に批判・分析を試み、高い評価を得たのが前掲の2冊でした。
     しかし、元裁判官の瀬木教授は、2014年、2015年と連続出版した2冊にとどまらず、2016年秋に、これまでのようなノンフィクションではなく、あえてフィクションに挑戦し、パラレルワールドの出来事とことわった上で、最高裁と裁判官たちの戦慄の物語『黒い巨塔 最高裁判所』を世に送り出したのです。

     直木賞受賞作『復讐するは我にあり』(イーブックイニシアティブジャパン/2010年12月14日配信、文藝春秋/2013年3月22日配信)を初めとするノンフィクション・ノベルを数多く遺した佐木隆三さんが、むかし週刊誌の連載小説の打合せの場で「取材と調査は可能なかぎりおこなう。そうして虚構の世界で真実に迫ろうというのが小説家のモチーフだ。作者としては記録小説(ドキュメント・ノベル)をひたすら書いてゆく」と語っていたことを思い出しました。著者の意図はどこにあったのでしょうか。

    『黒い巨塔 最高裁判所』。主人公は、最高裁事務総局民事局付判事補の笹原駿(ささはら・しゅん)。物語は、1980年代後半の4月初め、笹原判事補が最高裁民事局付として初日の勤務に就く早朝に始まりますが、東大法学部在学中に司法試験に合格して1979年に任官、東京地裁の初任時代に左陪席として大規模事件を担当、そして留学試験に合格、1982年に研究員としてアメリカに渡り、1年後に帰国、地方の裁判所勤務を経て最高裁事務総局に異動という若き著者(瀬木教授)の軌跡と主人公の経歴が時期も経路もほぼ重なるのは偶然ではあるまい。
     最高裁中枢に近いエリートセクションに一歩、足を踏み入れた笹原局付が、そこで目の当たりにする最高裁の有り様は思い描いていたものとはまるで異なる姿だった。そして、最高権力者の長官から直接呼び出しを受けるなど身をもって知ることとなる最高裁の内幕――元裁判官が「パラレルワールドの出来事」とことわって描いた小説のリアリティが読む者を圧倒します。

     裁判官は、その判断の独立性を保つために、憲法によって身分が保障されています(憲法第78条)。しかし、裁判所も最高裁長官を頂点とするひとつの官僚機構であり、その中に身を置く以上、外の世界からの直接的な影響は受けることはないにしても、内部にあっては“裁判官の独立”も完全なものではありません。長官と側近たちの密議によって裁判官がその身分を失っていく過程を、瀬木教授はこう描いています。

    〈最高裁の一番奥まった位置にあり、お堀を望む眺(なが)めも抜群の豪壮で広大な長官室には、この午後に懸案事項のいくつかにまとめてけりをつけてしまおうという須田長官の思惑から、片隅にある会議用テーブルの周囲に、事務総長の折口、首席調査官の神林弘人(かんばやしひろと)、人事局長の水沼隆史といった面々が集められていた。〉
     長官の須田謙造と事務総長・折口茂ら側近数名が集まって懸案事項とそれにともなう人事に関する内密の話をするシーンです
    〈須田は、席につくと間もなく、顔を下げることもしないまま口の中のガムを器用に灰皿の真ん中にぷっと吐き出し、一同の顔を順次眺め回すと、切り出した。
    「まずは、小さなことから片付けよう。徳島の辻宏和のことだ。
     うるさい奴だから、早いところ東京地裁から所長に出して追い払ったが、そろそろ次の異動がみえてくる時期だ。しかし、あいつはやめさせる。少なくとも、今後関東には戻さん、絶対にな」
     折口事務総長は軽く、責任者の水沼人事局長は深くうなずいた。(中略)
    「なるべく早く片を付けろ。それから、公証人のポストは、実入りのいい場所で用意してやれ。それなら本人も呑むだろう。もし呑まなければ、今度は仙台管内の所長にでも送り込んでやれ。雪の深い秋田あたりがいいな。あいつの性格だから、雪下ろしに業者なんぞ頼まんだろう。所長官舎の屋根から落ちて、わしらの手間が省けるかもしれん……〉

     後日、高松高裁所長が徳島地家裁所長辻宏和に対し、新橋公証役場の公証人になるか、定年までの地方回りを選ぶかの二者択一を提示します。「なぜ60にもならない自分が公証人などに」と憤懣やるかたない辻所長でしたが、それが須田長官直々の意向だと知らされて気力が完全に尽き結局年収4千万円の公証人の道を選択、裁判所を去ります。
     自分の意向に沿わない裁判官に対する“意趣返し人事”を厭わぬ須田長官の司法行政。その影響は当然最高裁判事にも及びます。殉職自衛官合同慰霊祭事件で国家賠償を認めた地裁、高裁の判決に賛成する意向を示していた最高裁の女性判事からこの案件をとりあげ、長官自らが裁判長を務める大法廷に回すように画策します。「政権に寄り添う最高裁」という意味で大変興味深いエピソードなのですが、その詳細についてはここでは触れません。
     直視すべきは、司法行政についての自身の思惑の前には“裁判官の独立”など顧みることなく裁判官を意のままに操ろうとする最高権力者の存在です。最高裁、そして全国の裁判所を統制し、意に沿わぬ裁判官は適材適所の名の下に飛ばします。立身出世志向が強く、自己承認欲求が高いエリート裁判官たちは徹底的な人事統制にさからうことはできません。最高裁の闇の中で最高権力者はいったい何を狙っているのか――。

     須田長官が政権与党国民党の黒幕と呼ばれる大物政治家、渡邊直之の別荘に内々に招かれ、週末に訪問した。東京帝大の先輩でもある。最高の酒と酒肴のあと、くるべきものがきたという感触をもって臨んでいる須田長官に渡邊が切り出す。テーマは〈原発〉だ。

    〈……日本の原子力行政、原子力平和利用の基盤がようやく整ってきたこの段階で、仮処分に続き、原発稼働停止の本案判決、運転差止め認容の地裁判決が一つでも出れば、おそらくは後続の判決も現れ、新規原発の建設はおろか、稼働中の多数の原発についても、その順調な稼働が危ぶまれることになりかねません。
     須田長官のことですから、私のこんな懸念も本当に杞憂かとも存じ上げるのですが、石橋を叩いて渡らなければすまない老人の繰り言と御理解下さい」(中略)
    「仮処分が問題にしているのは、千年、二千年に一度起きるかどうかの災害。そんな極小リスクまで一つ一つ検証しなければならないとすれば、最後には、宇宙からの隕石の飛来まで考慮しなければならなくなる。そんなことができるというのか? 裁判所は、一体、何を考えているのだ!」
     電力業界と深い関係をもち続けてきた首相は、仮処分決定の要旨を目にして、側近たちに向かい、吐き捨てるようにそうどなったといわれていた。
    「……いや、実を申しますと、最近は、私も、党内のそういう声を抑えるのにいささか苦労しております。
     御存知のとおり、黒塚首相は、ああいう方で、正直、目から鼻へ抜けるような人ではないし、学歴などはいささか貧しいこともあって、行政官僚も、裁判官も、ひどく嫌っているのですよ。ことに、須田長官のような東京帝大、高等文官試験トップ組の方々に対しては、何と申しましょうか、インフェリオリティー・コンプレックスや嫉妬の入り交じった、すさまじい憎しみをあらわにされることもありましてな。
     いうまでもありませんが、表の顔や一見しての能力だけで彼を判断なさいませんよう。権謀術数やメディア、世論操作には非常に長けた、なかなか恐ろしい人物ですよ、あの人は」〉

     原子力の問題は、まさに国家のエネルギー政策と安全保障の根幹にかかわる。世間というものをよくは御存知ない秀才であられる裁判官の方々が立ち入るべき領域の問題ではない――婉曲な物言いながら、政権方針に反する判決など論外、裁判所全体を政権中枢の原発政策に資する形にまとめることができないようなら、長官の座も保証しないという恫喝同然だった。
     その恫喝はある意味で核心を突いていた。稼働中の原発の運転停止認容判決が仮処分に続く状況だけは、絶対に避けなければならない。ひとたび差止めを認めるロジックが定着すれば、必然的にすべての原発の稼働を停止せざるをえなくなる恐れがある。それは絶対に避けなければならない。もはや待ったなしだ。須田最高裁長官は秋の裁判官協議会で原発訴訟を取り上げることを決意します。
     年に一度全国から高地裁裁判官、主として地裁裁判長クラスの判事を集めて行われる、最も大規模かつ重要で、全国の裁判官たちに与える影響も大きい裁判官協議会です。協議会の進行準備を担当するのは局付ですが、笹原は局長から原発訴訟についての予備調査的検討を命じられます。課長を通さない局長直接の下命は異例です。
     そして、笹原に長官秘書官から電話が入った。長官からの内々の呼び出しだった――。

     須田長官は笹原局付に何を求めるのか。それに対して笹原は? 日本の司法は「原発」をどう判断するのか。
     いま、最もセンシティブな問題を素材に最高裁中枢を知り抜いた元裁判官が描いた最高裁判所の真実。黒い巨塔の知られざる実態を知れば知るほど、司法の荒廃に戦慄します。三権分立はもはや、“壮大なるフィクション”と化してしまったのか。(2016/12/16)
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    投稿日:2016年12月16日