書籍の詳細

若い女性と燃えあがるような情交を愉しむ。妻の体の奥底まで追求する。男は会社を退き、都市と故郷を往復する気ままな暮しをおくっていた。或る日、河内亜紀と出会う。どこか謎めく女。その躯に惹かれ、逢瀬を重ねた。自宅には、ビジネスの世界で活躍する妻・治子が待つ。彼女も、夫に応じ、開かれてゆく。田園と都会、愛人と妻の間を揺れ動く日々。そして、一片の疑惑。渾身の長編小説。

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情事(新潮文庫)のレビュー一覧

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  • 「このミステリーがすごい」第1位に選ばれたのがきっかけとなって、ベストセラーとなり、映画、テレビと相次いで映像化された『行きずりの街』(新潮社、2014年6月20日配信)とは別に、1997年10月に単行本、2000年に文庫化されて版を重ねている志水辰夫作品があります。先頃電子書籍がリリースされた『情事』(新潮文庫、2016年7月22日配信)です。巻末に2007年11月発行の第16刷を電子化の底本としたとありますから、文庫化7年で16刷。累計部数はわかりませんが、かつて自他共に「永久初版作家」と認めていた志水辰夫です。特筆すべきロングセラー作品といっていいでしょう。

     代表作『行きずりの街』がまさにその象徴なのですが、志水辰夫といえばハードボイルド、ハードボイルドはシミタツという根強いファンを持つ作家として知られています。最近では時代小説にも力を注いでいますが、いずれにしても叙情性に富んだ大人の文体が読者を引きつける大きな魅力となっています。その志水辰夫が性描写をふんだんに盛り込んだらどんな作品が生まれるのか。本書『情事』は書名そのままに、男女の性愛シーンが多くを占めている、異色のシミタツ作品です。
     ミステリー評論家の池上冬樹さんが単行本発刊直後の志水辰夫の発言を紹介しています。
    〈……志水の作品とは思えないほど、性描写が占めているのだが、ポルノにしては欲情と無縁。作者自身、精緻(せいち)にセックスを描いたが、「読んでも勃(た)たない小説にしようと思った(「週刊朝日」十一月二十八日号〉と告白しているほど。〉(「ブック・アサヒ・コム」(1997年11月30日掲載)より)

     物語の主人公は、76歳になる老母がくも膜下出血を発病、入院したのを機に、31年勤めた商社を退社して、実家のある岡山と厚木(神奈川県)の自宅を新幹線で往復する生活を始めた内村静夫。半年前から〝失業者〟の立場だが、妻の治子は保険外務員から出発してスパーセールスレディとしてめきめき成績をあげて個人企業家として独立。静夫との収入差は8年前に逆転し、以降開く一方だ。おかげで退職金はそっくりそのまま残っているし経済的な問題はない。東大出身ながら、30をすぎたあたりから完全な頭打ちになっていた。自分を賭けたことも、我を通すこともない中途半端な性格は、企業という組織のなかでは埋没してしまうほかない。社内での自分の評価が低下しているのを知りながらも、それが苦にならないのだからどうしようもないのだ。定年前の退職は、彼の人生のなかでは、結婚と並んで最大のできごとだったが、それにしては切実感も現実感も希薄で、これによって新しい生活と新しい人生とが始まるかもしれないと考えていたのだ。実際、付添婦も頼んでいたので、なにかしなければならないという強迫観念が成立することもありません。半身不随に近い老母に顔を見せるのが最大の孝行ということにして、あとは自分の時間として――本屋巡りや喫茶店で時間をつぶしたりするのが日常だった。一日ぼーとしていて飽きることがなかった。

     さて、物語は、人家一軒ない山の中で、静夫が河内亜紀と出会うシーンで始まります。

    〈道に迷ってしまったらしい。途方に暮れた顔をしていた。そのくせ静夫の車が通りかかると、そっぽを向いてごまかそうとした。人家一軒ない山のなかだ。人目を引かないほうが不自然で、ほんとうは静夫のほうがぎょっとしたくらいだ。髪を茶色に染めていた。黄色いセーター、黒のスラックス、ボックス型のバッグ、かかとの高い靴、一見風俗系かと思われる外見だった。年はそろそろ三十だろう。
     行きすぎて車を止め、内村静夫は窓から顔を出した。
    「どうしました?」
    「いえ、あの、ちょっと……」
     口を濁した。助けが欲しいような、欲しくないような、どっちつかずの態度だが、それなりの媚(こ)びは身につけていた。体脂肪率の高そうな肉づきのいい体タ氏iたいく)、背丈はそれほどなく、スタイルもいいとはいえない。いわゆるぼってりしたタイプで、顔は丸く、唇が半開きになっていた。前歯にわずかだが紅が付着している。マスカラ、マニキュア、ピアス、施せるものは全部施してある。
    「なにか探しているんですか?」(中略)
     備前訛(なま)りはなかった。手に紙片らしいものを持っている。静夫は車を降りて、女のほうに近づいた。なんとなくだが、女が観念したような顔をした。化粧品の匂(にお)いが鼻をついてきた。衣服の下に詰まっている肉体を意識した。〉

     山菜採りに来て道に迷った父親が山中に置きっ放しにした車を取りに来たものの、描いてもらった地図にある鶏小屋が見当たらず、困り果てていたところだった。「なんならぼくの車で、この辺を一回りしてみましょうか」と申し出た静夫に、女はほっとした体で「すみません。お願いします」と答え、自分から助手席のドアを開けて乗り込んできた。十数分走り回ったが、結局目的の車は見つからず、静夫は岡山へ帰る女を送っていき、別れ際に何か分かったら連絡するからとグローブボックスからメモ帳を取り出し、名前を尋ねた。女は河内亜紀と名乗り、ちょっとためらいながらも携帯電話の番号を書き込んで、静夫に渡します。
     翌日、静夫は亜紀を岡山駅に隣接したホテルの喫茶室に呼び出した。車を見つけたことを伝え、車のキーを預かって車の回収に行きます。亜紀の父はほんとうは何をしに山中に行ったのか。疑問を持った静夫は現場を調べ始めます。亜紀には黙って進める調査行で、〝父〟とされている「河内忠洋」と名乗る男はいったい何者なのか。読者の興味を引きつける仕掛けを仕込んでいるあたりはさすがミステリーの名手です。そして一方の亜紀は広大かつ歴史ある静夫の生家に興味を抱いたのか、二人の距離は急速に縮まっていきます。フランス料理店での食事の誘いに応じ、さらに食後ホテル最上階のバーに移動して水割りをオーダー。相当飲めるようだ。いくらか饒舌になっているが、顔には出ない。「(欲しいものは)ブルガリかな。内村さんにおねだりしてみようかな」と、静夫の顔色をうかがいながら言う亜紀……。しかしこの日、ホテルに部屋を取っていたことを静夫は言いそびれた。
     食事から1週間近くたった夜――亜紀が電話してきて、次の木曜日の夜、仕事が終わった9時過ぎに静夫の家に行きたい、そして翌日の金曜日は代休を取るつもりだ、という。
     二日後の木曜日。亜紀は9時10分にやってきた。

    〈「わたし、どうして来ちゃったんだろう」
     小さな声で言った。肩に手をかけて引き寄せた。亜紀の躰がにわかに小さく感じられた。わずかにふるえている。その呼吸と、髪と、温(ぬく)もりと、匂いとが腕のなかにはいっており、自分の肉体に火がついたのを感じた。勃起(ぼっき)した性器がズボンのなかで痛かった。もうすこし、と静夫は自分の呼吸を整えた。亜紀を現実に抱きかかえて、どこかまだ歯を食いしばっていた。数分間、そのまま寄り添っていた。それから腕に力をこめて、うながした。亜紀は静夫にもたれかかって家のなかに入った。〉

     志水辰夫は二人の初めての情事を精緻に描いて見せます。

    〈バスローブの上からでもその豊かな肉づきはわかった。亜紀は声を殺してされるがままになっていた。抱きあげるには重すぎた。考えたり迷ったりするいとまを与えないよう両手で0・氓ウえて唇を奪い、しずかにその場へうずくまらせた。下へ落ちるまえに素早く上布団を]R(は)ぎ取った。やや斜めだったが、なんとか布団の上におさまった。顔を起こしてキスをつづけた。唇で唇を儼(か)み、舌を入れて上唇、下唇をなでながらはわせた。彼女の唇が開いた。唾液(だえき)はねばっていた。舌をからませ、その隙にバスローブのなかへ差し入れた右手で乳房をつかんだ。〉

    〈いまでは目が慣れて、亜紀の下腹部に密生している陰毛まで鮮明に見分けられた。豊かな肉づきだ。必ずしも均整はとれていないが、ひとつひとつはデフォルメされた土偶のような力感に満ちている。さらに局部のはちきれそうな盛り上がり。この年代の肉体でなければつくり出せない若さとみずみずしさにあふれていた。それがいま彼の目の前で、誰はばかることなく喜びの声をあげている。〉

    〈狼狽(ろうばい)とおどろきに打たれながらも、歓喜が全身を火だるまにして、なにも考えられなくなった。ひとつ意識したのは、自分が亜紀の肉体をとらえているのではなくて、自分のほうがとらえられているという感覚だった。なにもできない。なにも主導権がとれない。考えることも、計算することも、間を持たせることもできなかった。むさぼられているのは自分だという思いが頭をかすめ、しかもそれはこれまで味わったことのない絶頂感にほかならなかった。〉

     厚木の自宅。岡山から戻った深夜、妻の寝室に足繁く通う静夫――。

    〈舌をはわせはじめると、今夜は最初から反応がちがった。躰(からだ)の微妙なふるえでわかるのだ。それに力を得て局部を吸いはじめた。(中略)。胎児をふたりまで通過させたその柔軟さと広がり。治子の頭が持ち上がり、躰を折り曲げてわなないていた。断続的な呼吸の合間にもすすり泣くような声。歓喜と絶頂、ついに力つきて躰が落ちた。弛緩(しかん)して動かなくなった。目が閉じられ、唇は開いたまま、繰り返し襲ってくる余韻に打ち据えられている。
     コンドームを装着してなかに入った。豊かであたたかなひととき、目を細めてその感触を味わった。それから動かしてみる。いつもながらの一体感。その一方で抑えることのできないもどかしさや、満たされきらないむなしさのようなものも感じる。豊穣(ほうじょう)の砂漠のようなもの、飽食の飢餓感のようなもの、確認できるのはいつだって男は性の奴隷(どれい)でしかないということだ。〉

     若い亜紀との情事は、妻・治子とのセックスをどう変えていくのか。亜紀と同居する河内忠洋が山中に隠したものは何か。その正体とは? そして妻と亜紀を相手に、まるで己の存在証明を求めるかのように情事にのめり込む内村静夫のもとを山形県警の刑事が訪れる終盤。
     多くを望まず、平穏な日常を求めて生きた男が最後の最後にたどりついた極北。
    〈またたいている。揺れている。静夫はふらっと立ち上がると、山の頂上に向け、その星のほうに向け、歩きはじめた。
     星が十文字に光っていた。
     目がうるんでいるのだった。〉

     志水辰夫のラスト一文があなたのなかに残す余韻に、一人静かに浸ってみてはいかがでしょうか。(2016/10/21)
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    投稿日:2016年10月21日