書籍の詳細

明仁天皇の言葉でたどる、日本の戦後70年。衝撃のベストセラー『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』の著者・矢部宏治は、なぜいま、明仁天皇の言葉に注目したのか。戦後日本最大の矛盾である「沖縄問題」と真正面から向かい合い、その苦闘のなかから「声なき人びとの苦しみに寄り添う」という、象徴天皇のあるべき姿を築きあげていった明仁天皇。その平和への思いと重要なメッセージの数々を、写真家・須田慎太郎の美しい写真とともに紹介します。サイパン、パラオ、中国、沖縄、広島、長崎、福島…。単行本としては空前の海外&国内ロケを敢行!(2015年7月発表作品)【ご注意】※この作品はカラー画像が含まれております。

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戦争をしない国 明仁天皇メッセージのレビュー一覧

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  •  戦ひにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に横たふ

     1月14日、皇居で行われた「歌会始の儀」。2015年4月、明仁天皇はパラオ共和国への慰霊の旅で日本軍約1万人が戦死した激戦の地ペリリュー島最南端に立ち、戦没者の碑に日本から持参した白菊の花束を手向けたときのことを詠みました。
     1944年9月、上陸を開始した約3万の米軍を相手に、洞窟などを拠点に迎え撃った日本軍の抵抗は2か月半に及び、米海兵隊上陸部隊の死傷率は史上最高の約60%、日本軍はほぼ全滅――小さな緑の島(南北約9キロ、東西約3キロ)は、70年の時を経て南太平洋に静かに浮かんでいます。しかしかつて壮絶な戦場だったペリリュー島の山中にはいまなお約2600柱の遺骨が埋もれているという。即位直後の1990年代前半から南太平洋の島々への慰霊の旅をしたいという希望を表明していた明仁天皇にとっては、2005年のサイパンに続く念願のパラオ訪問でした。ペリリュー陥落の時、栃木・日光に疎開していた明仁天皇は学習院初等科の生徒、10歳でした。戦後70年の節目の年に81歳にして念願かなってその地を訪ねた天皇の胸の内に去来するものは何だったのでしょうか。歌に託された、その思いとは?

     ここに、一冊の本があります。『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』(小学館。2015年7月5日紙書籍発行。2016年1月15日電子版配信)。[文]矢部宏治/[写真]須田慎太郎による写文集です。紙書籍の帯には

     あなたは、
     天皇の言葉に
     耳を傾けたことが
     ありますか?

     素朴な、そして70年を過ぎた戦後の象徴天皇制のなかにある日本人にとっては根底的な問いかけの言葉。
     [文]を綴る矢部宏治は、近著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル、未配信)で注目を集める気鋭の論者。[写真]を担当した須田慎太郎は、日本写真協会新人賞受賞(1986年)の報道写真家。立花隆との共著『エーゲ 永遠回帰の海』(2012年12月7日配信、「立花隆全集7」)などの著作で知られています。

     戦後70年。大きな曲がり角に立つ日本。唯一の地上戦を経験した沖縄慰霊を実現することなく生涯を終えた昭和天皇に代わって、1975年(昭和50年)皇太子時代の初訪問以来10回にわたって沖縄の地を訪れ、「沖縄問題」と真正面から向かいあってきた明仁天皇の思いはどこにあるのか。その言葉の束を丁寧に検証した文筆家とサイパン、パラオ、中国、沖縄、広島、長崎、福島と続く明仁天皇の足跡たどり、その「光景」を写し撮ってきた写真家の二人が共同作業によって紡ぎ出した一冊の写文集。表紙(カバー)は、白い雲が浮かぶ青い空の下の透き通ったパラオの海の浅瀬に沈む零戦の写真。その上に「戦争をしない国 明仁天皇メッセージ」の白抜きの書名。
     南国の浅瀬に沈む伝説の戦闘機・零戦。透明な海中にゆらめく、その〝壊れた名機〟はまるで「戦争」の愚かさを今に伝えるために歴史が遺したオブジェです。筆者はその一枚の写真に明仁天皇の以下の言葉を添えています(78ページ)。2015年4月8日、パラオ共和国の歓迎晩餐会におけるスピーチの一節です。

    〈「ミクロネシア地域は第一次大戦後、国際連盟の下で、日本の委任統治領になりました。パラオには、南洋庁が設置され、多くの日本人が移住してきました。(略)
     しかしながら、先の戦争においては、貴国を含むこの地域において日米の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、多くの人命が失われました。(略)ここパラオの地において、私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います」〉

     明仁天皇にとっては20年越しの懸案だったパラオ訪問であり、国籍や軍人・民間人の違いをこえ、「戦争で亡くなったすべての人々」に対する慰霊の旅でした。その思いは上記のスピーチにあるとおりですが、筆者はそのなかでとくに、天皇が「ミクロネシア地域は……日本の委任統治領」であったことに言及したことに注目しています。少し長くなりますが、引用します。

    〈しかし明仁天皇が長年、パラオやサイパンというミクロネシアの地にこだわってこられたのは、右の言葉にあるように(引用者注:歓迎晩餐会におけるスピーチ)、それが戦前は「南洋諸島」とよばれる日本の委任統治領だったからということもあるのです(南洋庁という行政機関がおかれたパラオは、その首都のような存在でした)。
     そのために戦後、この地域の人びとは、沖縄の人びととよく似た苦難の道を歩むことになりました。国連憲章で定められた信託統治制度のなかで、「戦略地区(ストラテジック・エリア)」という差別的な位置づけをされ、とくにマーシャル諸島などはアメリカの核実験場にされてしまったのです。
     みなさんもビキニという環礁(かんしょう)でくり返されたアメリカの核実験について、耳にされたことがあると思います。そこでは1946年から1958年までのあいだに、もうひとつの実験場(エニウェトク環礁)とあわせて計67回の核実験が行われました。
     そのうちのひとつが、日本ではマグロ船・第五福竜丸の被曝で知られる水爆実験「ブラボー」です(1954年3月)。その威力は広島型原爆の1000倍とされる15メガトン。じつはこのとき第五福竜丸以外にも、日本の1000隻以上の漁船が被曝しています。
     当然、周囲の島に住む多くの住民もこのとき被曝し、その被害は現在までつづいています。
     基本的人権の尊重をうたった戦後の国連憲章のもとで、いったいなぜそんなメチャクチャな核実験が可能だったのか。その理由は「敗戦国〔=敵国〕の戦後処理の問題については国連憲章は適用されない」とした、敵国条項(国連憲章107条)の悪用にありました。この法的なトリックは、沖縄を軍事植民地化しつづけたトリックとまったく同じものでした。
     日本に委任統治されていたというだけの理由で、戦後、そうした理不尽な差別を経験しつづけたミクロネシアの悲劇。明仁天皇がどうしても訪問したいと希望された理由は、その声なき人びとの苦しみに心を寄せるという意味もあったのではないかと私は思っています。〉

     2016年1月26日、明仁天皇と美智子皇后はフィリピンに発ちました。戦争犠牲者慰霊の旅です。その「戦争」への思い、「戦争をしない国」への思いは、日本国憲法に対する思いと重なり合っているようです。
     1989年(平成元年)1月9日。即位後の朝見の儀(ちょうけんのぎ)で明仁天皇は「ここに皇位を継承するに当たり、(略)みなさんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすこと」を誓いますと宣言して以来、折に触れて憲法を大事にする考えを表明しています。そのなかから筆者は、2013(平成25年)12月18日、80歳の誕生日を前に開かれた記者会見における発言を紹介しています。

    〈80年の道のりを振り返って、(略)やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです。私が学齢に達した〔=小学生になった〕時には中国との戦争が始まっており、その翌年の12月8日から、中国のほかに新たに米国、英国、オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。
     この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましい限りです。
     戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対して、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の努力も忘れてはならないことと思います〉

     海の向こうにある太陽が空をオレンジ色に染めて沈んでいく。第二次大戦でアメリカ軍が上陸を開始した沖縄県読谷村(よみたんそん)の海岸を撮した写真が明仁天皇の言葉と対置され、記憶に残る印象的なページになっています(86、87ページ)。

     第二次大戦後の占領期に来日して若き明仁天皇を教えたバイニング夫人にインタビューしたことがあります。週刊誌編集者時代の1980年4月、フィラデルフィアの住まいを訪ねたのですが、その時、『皇太子の窓』の著作もある夫人は皇太子と新憲法について語り合ったことを明かしてくれました。印象的な内容で、いまも鮮明に記憶しています。
    「新憲法はアメリカ人がつくったものともいわれていますが、皇太子はどうお考えになりますか、とお聞きしてみたことがありました。皇太子のお答えは、『これは英語から翻訳されたものではない』というものでした。というのは新憲法の文章は半分文語体、半分口語体で書かれていて、翻訳文ほど統一されていない――とこういわれたのです」
     日本語と英語、両方を読んだ上での発言でした、バイニング夫人はそう言って目を細めました。

     2015年に安保法を成立させた安倍晋三政権は、2016年に入って「憲法改正が現実的段階に移ってきた」と改憲に向かう姿勢を強めています。夏の参議院選挙、あるいは衆参同時選挙を視野に入れて改憲への道筋をはっきりさせていこうということのようです。
    「戦争をしない国」か、「戦争のできる国」か。
     気がついてみれば、「改憲への流れ」に囲まれていた2016年のニッポン。天皇の政治利用は論外だが、明仁天皇の思いに考えをめぐらせ、そのメッセージに耳を傾けてみたいと思う。「大きな闇を体験し、その中でもがき、苦しみ、深い思索を重ねた」(本書「はじめに」より)明仁天皇の〝考え抜かれたメッセージ〟なのだから。(2016/1/29)
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    投稿日:2016年01月29日