書籍の詳細

2011年2月の「ラグビー議連」による決議に始まり、2012年11月の国際デザイン・コンクールによるザハ・ハディド案決定、2013年9月の2020東京オリンピック決定をへて今日まで、新国立競技場建設の迷走はつづいている。問題は建設費用や維持費、工期などコストや時間の問題だけではない。建築のあり方、神宮外苑という場での環境、景観、住民問題など、IOCの「アジェンダ21」を無視し、建築関係者など多くの専門家の意見や市民の反対にもかかわらず、新国立競技場建設計画は突き進められていった。数々の記憶のつまった前の国立競技場が解体され、神宮外苑の木々も伐採された今になって、安保法案がらみの政治判断もあり、2015年7月17日、安倍首相によって「現行の新国立競技場建設プラン」は白紙撤回になった。しかし、これから事態がどのように進んでいくか、まったく見えてこない。「いらないものは作らせない。大事なものは残す」。本書は、当初よりこの問題に取り組んできた著者および「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」の2年間の活動記録を中心に描いたものである。槇文彦はじめ建築関係者との協力、JSC(日本スポーツ振興センター)とのやりとり、東京都や地域住民との接触など、事の始まりから現在、そして未来まで、この暴挙の全貌と課題がここに明らかになるだろう。巻末には関連年表など貴重な資料を付した。「これは政治運動ではない。あくまで、知られないうちに決まってしまった公共工事が環境を破壊し、次世代へのツケとなるのを防ぐための市民として当然の活動なのだ」

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森のなかのスタジアム――新国立競技場暴走を考えるのレビュー一覧

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  •  10月に入って最初の日曜の午後4時過ぎ。東京千駄ヶ谷の国立競技場の〝跡地〟の周りを歩きました。
     JR千駄ヶ谷駅から絵画館を左に見て右回りのコースへ。かつてあった競技場も、その周囲にあって人々の目をなごませてくれた豊かな緑もいまやありません。〝跡地〟を取り囲む白い覆いの隙間からのぞくと、かつてキーパーによって芝の長さがきちんと管理され、三浦カズやヒデ(中田英寿)らサッカー日本代表が戦った緑のピッチはなく、雑草がはえ、乾いた土が剥き出しとなった荒れ地と化していました。緑の芝とのコントラストが美しかったアンツーカーのトラックもあとかたもなく消えてしまっています。分かっていたことなのですが、それでもその光景を目(ま)の当たりにすると、「ああ、国立はもうないんだ」という喪失感が胸の内に沈殿していきました。

     1997年9月~11月。サッカーワールドカップ(フランス大会)アジア最終予選。国立競技場で行われたホームの4試合(ウズベキスタン、韓国、UAE、カザフスタン)をすべてゴール裏で妻と二人、見守りました。日本代表はジョホールバル(マレーシア)のプレーオフでイランを破り、ワールドカップ初出場を果たしました。
     1984年8月25日。国立競技場で行われた釜本邦茂の引退試合。私は妻、当時小学生だった一人息子とともにバックスタンドにいたのですが、高校生の頃から早稲田の東伏見のサッカーグランドで見ていた釜本の最後のプレーで感慨深いものがありました。つめかけた観客6万人。神様ペレ、元西ドイツ代表のオベラート(ちなみに左利きミッドフィールダーで、好きな選手の一人でした)が特別参加していました。
     1967年10月7日。翌年のメキシコオリンピック行きの切符を賭けたアジア予選1組。3勝同士で迎えた日韓戦。雨の国立競技場バックスタンド――高校生だった私はチームメートとカッパをはおって日韓の死闘に感動、興奮のしっぱなしでした。3-3で迎えた終盤44分、韓国選手の放ったシュートがバーを叩いたとき、4万人を超すスタンドが一瞬静まりかえったことを覚えています。日本代表は次の最終戦でベトナムに1-0で勝って、4勝1引き分け。勝ち点で並んだ韓国を得失点差で上回り、予選を突破。翌年のメキシコオリンピックでは、銅メダルとフェアプレー賞に輝き、大会7点の釜本が得点王。国立競技場で行われたアジア予選の期間中、競技場のすぐ隣にあって代表の宿舎となった日本青年館も現在取り壊し工事が進んでいます。
     その1か月前、1967年9月16日。国立競技場の早慶サッカー定期戦。高校戦で、高等学院イレブンとしてピッチに立ちました。相手は慶応高校と慶応志木の合同チーム。その頃、高校サッカーでは土のグランドが普通でしたから、芝の国立でサッカーができることがうれしくてしょうがありませんでした。8月の国体東京都予選決勝で帝京に敗れていた私たち3年にとっては、高校サッカー最後の試合となりました。

    ――その国立競技場が、いまはありません。国立競技場――正式名称「国立霞ヶ丘陸上競技場」――はどうしてなくなってしまったのか。ずいぶん久しぶりに千駄ヶ谷に足を運んでみたのも、『森のなかのスタジアム――新国立競技場暴走を考える』(みすず書房)がきっかけでした。著者の森まゆみさんは、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を1984年に仲間とともに創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた作家・編集者です(本書「著者略歴」より)。「いらないものは作らせない」「大事なものは残す」を30年来のシンプルな原則としてきた森さんは仲間と語らって「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」を立ち上げました。2013年10月28日のことです。森さんたちは、ロンドン在住の女性建築家ザハ・ハディド氏のデザインに基づく新国立競技場案に異を唱え、その活動は多くの専門家、アスリート、普通の市民の賛同を得て確かな流れをつくってきました。本書はその活動経過を綴った貴重な記録です。
     森さんは、そもそもの発端についてこう書いています。

    〈(1964年の東京オリンピックの頃のことで)一番覚えているのは、家の前の石やコンクリート製の固定式ゴミ箱が撤去されて、青いポリ容器のゴミ箱になったことである。東京は明治維新のあとの違式●違(かいい)条例よろしく、ゴミ箱や罹災者バラックや傷痍軍人など、外国人に見てほしくない、恥ずかしいと思うものを隠し、吹き払い、突貫工事を保存に優先させた。今度も同じことが起こるのだろうか?(●は「言」偏に「圭」を合わせた文字)
     東京オリンピックで由緒ある建物や町並みの多くは消えた。そのわずかなよすがを探して、私は地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を、オリンピック二〇年後の一九八四年から二〇〇九年まで足掛け二六年、編集してきた。私たちの地域が残ったのは震災や戦災であまり焼けなかったせいだと思ってきたが、実は東京オリンピックと関係なかったからでもある。そのとき、客人は羽田空港に降り立ち、競技場は代々木や駒沢で谷根千から遠く、影響は薄かった。東京オリンピックはたしかに敗戦後一九年目、「もはや戦後ではない」と言明した「経済白書」から八年目、敗戦国日本の国力の回復を象徴するような明るいイベントだった。これでようやく「先進国」の仲間入りだ。そしてオリンピックをテコにインフラをふくめ、都市開発が加速されたのも確かである。〉

     光があたる部分もあれば、埒外に置かれたことでいい町並みや文化が残った例もあるという。コンペで選ばれたザハ案は、森さんの目から見れば、作らせるわけにはいかない「いらないもの」でした。「残すべき大事なもの」神宮の樹木とひきかえにしてまで、地上70メートルの巨大な建物を作る必要があるのだろうか。
     森さんたちは、国立競技場を「改修・リデザインする」という考え方を軸にすえます。その画像をここで紹介できないのが残念ですが、美しい国立競技場の写真、青い空を背景に白抜きで「さまざまな記憶のつまった私たちの国立競技場を改修して使い続けよう」の大きな文字というチラシ(デザイナー上村千寿子さん制作)に、その考え方が凝縮されています。バックボーンとなったのは、世界的な建築家の槇文彦氏の主張です。槇氏が書いた論文「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」が日本建築家協会の機関誌『JIAマガジン』(2013年8月号)に掲載されたことが建築関係者の間で話題となっていました。森さんは、本書でこう要約しています。

    〈槇さんは、二五年ほど前に国立競技場に隣接する東京体育館を、敷地に課せられた高さ制限に苦労しながら設計したときのことと比較し、当選案の巨大さ、とくに人間の目の高さからの見え方、敷地の狭さなどを指摘していた。さらに神宮外苑の歴史的文脈について、少子化時代の維持費について、若手建築家にチャンスを与えないコンクールの杜撰さについても、多彩な言及をしていた。この論文がオリンピックが東京に決まる九月より前に書かれ、八月号(引用者注;日本建築家協会の機関誌『JIAマガジン』)に載ったのは特に意義がある。〉

     さらに――そもそもJSC内部で当初は立て替えではなく、改修が本格的に検討されていたという驚くべき事実を本書は明らかにしています。引用します。

    〈(二〇一四年)四月十九日。「東京にオリンピックはいらないネット」の渥美昌純さんから、二〇一一年の久米設計による改修調査概要版が送られてきた。JSC(引用者注:文部科学省の外郭団体「独立行政法人 日本スポーツ振興センター」。国際デザイン・コンクールを主催、立て替え案を募集した新国立競技場の事業主体)も当初は既存施設改修の可能性を追求していたのだ。しかしせっかく一億近くもかけて精密な調査をしたのに、これを公表しないのはなんという秘密主義なのか。渥美さんは情報公開を粘り強くもとめた。コピー代はばっちり取るのに、資料の肝心なところは黒塗りばかり。しかも詳細版の請求にもかかわらず概要版しか出してこない。
     森山高至さん(引用者注:建築エコノミスト)に送ったところ、「これはイイ! 特級資料です」というメールが来た。「既存躯体の構造調査もしてあるし、改修方法の三段階の提案もある。これを参考資料とすれば、誰でも現競技場の現実的な改修案の提案もできるし、仕事を引き継げると思います」〉

     久米案の精緻なスケッチ画像も収録されています。競技場周囲には緑の樹木がちゃんと描かれています。そのうえ、改修費用はおよそ777億円とあります。しかしJSCは1億円もの費用をかけて行われた精密な調査を顧みることもなく、2倍、3倍の費用を投入する立て替えへの道を突き進みました。森さんたちはこれを「暴走」だとし、本書のサブタイトルにも使っています。その詳細な経緯は、本書巻末に収録されている「資料編」をご参照ください。

     とまれ、2015年7月17日、安倍晋三首相は、新国立競技場計画の全面見直しを表明しました。ザハ・ハディド氏の奇抜な流線型の競技場を法外な予算で建設する現行案に国民の80%が反対しているとの各種調査が出ていたことが背景にあっての白紙撤回です。出直しコンペは9月18日に締め切られ、年末までには事業者を選定する予定になっています。しかし、白紙撤回ののちに、どんな考え方で、どんな競技場をつくっていくのか、私たちには肝心なことがなにひとつ分かっていません。著者の森さんは、最終章「私たちも驚いた白紙撤回――あとがきに代えて」にこう綴っています。

    〈白紙撤回の「白紙」とは何かについて、文科省もJSCも定見はない。政府は新国立競技場の新しい計画に、内閣府や国土交通省の官僚をも投入し、これまでの経緯や責任を検証する第三者委員会を発足させたが、その動きも旧態依然のようにみえる。文科省の久保公人局長が辞職し、下村文科相(引用者注:10月7日発足の第3次安倍改造内閣で再任されず、内閣を去りました)は自己都合だとしているが、国民にはトカゲの尻尾切りにしか見えない。(中略)
     槇文彦さんは今回の新国立競技場問題を「戦後最大の建築論争」と定義したが、私にとっても過去最大の保存運動であったことは間違いない。そして市民にとっては「聞かない民主主義」「引き返せない官僚主義」をくつがえした記念すべき運動であった。さっそく、つくば市でも運動公園計画が住民投票で白紙撤回されることになった。上野千鶴子さんがツイッターで「賛同はしたが、とうてい白紙撤回は出来ないと敗北主義に陥っていた。森さんありがとう」と書いてくださったが、運動の渦中にあるわたしたちも何度、心折れそうになったことか。〉

     神宮外苑にどんな競技場をつくるのか。これこそが白紙撤回を実現したあとの大きな問題です。迷走を繰り返さないために「新国立競技場暴走」の経過を改めて検証することから始める必要があることを、本書は示しています。
     私たちの国立競技場――東京体育館、神宮球場、秩父宮ラグビー場に囲まれた「国立霞ヶ丘陸上競技場」の懐かしい姿はそこになく、更地(さらち)になってしまっているのですから。(2015/10/30)
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    投稿日:2015年10月30日