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恋も仕事も中途半端、片山製作所勤務の「役立たずOL」梢恵に、ある日まさかの社命が下された――単身長野に赴き、新燃料・バイオエタノール用のコメを作れる農家を探してこい。行く先々で断られ、なりゆきで農業見習いを始めた24歳に勝算はあるか!? 働くこと、生きることの意味を問う、『ジウ』シリーズ著者による新境地。

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幸せの条件のレビュー一覧

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  •  大学を卒業して就職先として農業を選択する若者が増えているそうです。林業を目指す女子を追跡したTV番組もありました。会社組織の農業法人が増えていることも、農業に縁のなかった若者の農業参入をしやすくしています。TPPで環境の変化を懸念する声も高まっている日本の農業ですが、若者が仕事の実感を求めてチャレンジする時代が来たといえるようです。
     誉田哲也の新作『幸せの条件』(中公文庫)は、農家に住み込んだ24歳女子の1年を描いた青春ストーリー。主人公は、三流私大理学部卒の瀬野梢恵(こずえ)。理化学実験ガラス器機の専門メーカー、片山製作所に入社して2年の女子社員です。物語は、ダメキャラの梢恵が布団を抜け出すまでの、愛すべき〝葛藤〟から始まります。

    〈ヒステリックなベルの音が右耳に突き刺さり、頭蓋骨(ずがいこつ)の中で乱反響する。慌てて布団(ふとん)から手だけを出し、その元凶(げんきょう)の在(あ)り処(か)を探る。凍(い)てついたシーツの表面を這(は)い、冷たい空気中をさ迷い、ようやく、中指と薬指が角張ったプラスチックの塊を捉える。そのままよじ登り、天辺にある丸いボタンを押し込む。
     リッ、という一打を最後に、目覚まし時計は沈黙した。毎朝のことながら、このリアルなベルの音は心臓に悪い。息苦しくなるほど脈が速く打っている。(中略)
     梢恵(こずえ)はうつ伏せのまま膝を折り畳み、布団の中で亀になった。その姿勢のまま十分ほどじっとしておく。こうしていると眠気が徐々に薄れていき、会社にいかなければという焦りが適度に湧(わ)き上がってくる。十分経ったら、とりあえず洗顔。これに三分。その間に淹(い)れたコーヒーを飲むのに五分。歯を磨いて、化粧と着替えに十分か十五分。アパートから北千住(きたせんじゅ)の駅までは速歩きで十分強。遅くとも八時十四分の日比谷線に乗れれば、八時半には会社に着く。〉

     梢恵が勤める片山製作所――理系出身のリケ女でありながら、入社早々の会話でろくに大学時代に勉強していなかったことがわかっても、入社して2年たっているのにナス型フラスコと丸型フラスコを取り間違えても、試料管と冷却器を逆に接続しようとして両方破壊してしまっても、けっしてクビになどしない懐の深い会社。製品開発のための実験もできなければ、切断や溶接、研磨といった加工業務も苦手という梢恵に在庫管理や伝票整理というわかりやすい仕事を与えてくれて、給料を毎月ちゃんとくれる優しい会社だ。
     梢恵にもそれは十分すぎるほどわかっています。自分が会社に感謝しなければならない立場にいるということは痛いほどよく分かっている梢恵です。ですが、駄目なのです。朝を迎えると、布団の中で「あー、会社にいきたくなーい」と思ってしまい、実際に口に出していってしまう。ときには叫びなら枕を投げてしまう。じめじめと泣きながら、今日はお腹が痛いことにしようかと考えてしまうこともあります。
     毎朝繰り返される梢恵の〝葛藤〟ですが、目覚まし時計を止め、布団の中で亀になって10分もたてば、上半身を起こしてもいいかなという心構えができてきます。

    〈「よし……起きよう……起きましょう」
     その宣言からゆっくり百数えて、ようやく上半身を起こし、正座になる。
    「うん、起きた。私、いける……気がする」
     ベッドのすぐ横、カラーボックスの上に載せてあったメガネをかけ、さっき止めたデジタル式の目覚まし時計を改めて見る。
     七時四十二分。まあ、そこそこ予定通りだ。〉

     中途半端な気持で会社を往復している梢恵に、ある朝まさかの社命が下されます。8時28分、タイムレコーダーに自分のカードを挿入した直後、社長が捜していたと告げられた梢恵。社長室に行ってみたが、不在。事務室に戻って伝票の入力作業を始めたところに片山社長が来た。「ちょっと来い」と言われて、一緒に社長室に行った梢恵はそこで社長から直に「長野に長期出張に行ってくれ。期間はお前が任務を完遂するまでだ」と言い渡されます。

    〈任務そのものは極めてシンプルだ。長野の穂高(ほたか)村ってとこの農協に知り合いがいるから、そいつに協力してもらって、一緒に休耕田を抱えている農家を回って、バイオエタノール用に安いコメを作付けしてくれるよう頼んでこい。一ヘクタールとか二ヘクタールとか、それくらいの単位でいい」
     片山は斜め上を見上げ、ふわりと両手を広げた。
    「そうして植えられたコメが収穫され、まあ、日本酒状態まではやってもらうとして……そこまでは誰だってできるんだ。粉砕して酵素ぶっ込んで糖化させて、酵母(こうぼ)で発酵させりゃいいんだから。最終的に作るのは燃料、味は関係ないんだから、とにかく発酵させりゃなんとかなる。そこまでできたらこっちの出番だ。この機械を運び込んで蒸留、脱水と。そうすりゃ、純度百パーに近いバイオエタノールができあがる。少なくとも、農家一軒が使うガソリン分くらいにはなる。……そう、農家の基本は自給自足だ。実にいいコンセプトだろう。上手(うま)くいったら農協にだって売り込める。このシステムなら規模の拡大も、工業用への転用も自由自在だ。……うん、いい。これは実に有意義なプロジェクトになるぞ、梢恵」
    「はあ」〉

     社長がとくとくと説明する、社運を賭けて発明したというエタノール等の溶剤類、脱水・精製装置は、梢恵の目にはむき出し状態のガラス管迷路です。その装置を使ってエタノールをつくる実証実験をやりたい、そのために休耕田を持つ農家を説得してエタノール用の米を作付けしてもらえるようにしてこい――これがいきなり梢恵に課せられた新たな仕事でした。
     2月21日(月曜日)早朝、梢恵は新幹線で長野に向かいます。長野で飯山線に乗り換えて飯山が目指す穂高村の最寄り駅です。農協で休耕田を持つ農家のリストをもらい、一人で5軒を回りますが、どこもけんもほろろ、話すら聞いてもらえません。「百姓ってのは、食うためのコメを作るもんだ。燃やすためにコメを作る百姓なんざ、百姓じゃねえ」最初に訪ねた農家で出てきた老人に言われた一言が、梢恵の前に立ちはだかるハードルの高さを示していました。
     その晩、ユースホステルに泊まった梢恵は、翌日、「農業法人あぐもぐ」を訪ねます。ユースの奥さんが「経営者はとっつきにくいものの、奥さんはきれいでいい人だから行って相談してごらん」と熱心に勧めてくれたからです。
     しかし、説得できる自信はまるでなく、かといって、説得できなければ東京へ帰ることもできないと思えば、自然足どりは重くなります。節約と自分で自分に言い訳しながら「あぐもぐ」の方向に歩きだして2時間。着いてしまってなお、迷っている梢恵に、中から出て来た女性が声をかけてきます。あぐもぐ経営者、安岡茂樹の奥さんの君江さんでした。

    〈「……あの人は、農業の力を信じてる。お洒落な服より、速い車より、美味しくて安全な食べ物の方が人間には重要なんだって、いつもいってる。そのためにも、田んぼは田んぼであり続けなきゃいけない、って。減反だのなんだのいわれて、田んぼを畑にしたって上手くいきっこない。そんなの、空っぽのプールで柔道やるようなもんだって……それも、よく分かんない喩えだけど、でも、いいたいことは分かるでしょ?」〉

     君江さんはそう言って、安岡に会って話をすれば道が開けると背中を押してくれた。
     前日に続いて出直して話を聞いてもらっていたとき、安岡がいきなり言い出します。

    〈「そうだ。あんた、この夏、うちで働けよ」
     思わず「えっ」といったまま、梢恵は固まってしまった。
    「君江から聞いたよ。どうせ農家と契約できなきゃ、あんた東京帰ったって会社に居場所ないんだろう。だったら肚(はら)括(くく)って、ひと夏うちで働けよ。体で農業覚えて、その上でまだバイオエタノールをやりたいっていうんだったら、そのときまた改めて相談に乗ってやる。あんたはまず、農業とはいかなるものかを知る必要がある。いや、絶対にやらなきゃ駄目だ。あんたは会社のためにも、農業のなんたるかを身をもって知る必要がある。違うか」〉

     あまりにも無茶苦茶な話と思った梢恵ですが、携帯電話で連絡した片山製作所の社長は、〈面白(おもしれ)えじゃん。やってみろよ〉と即答。

     農業女子・梢恵の誕生です。母屋の裏に建てられた家に住み込んだ梢恵の仕事は田んぼや畑、ハウスの除雪から始まりました。初めての梢恵には、気の遠くなるような広さです。そして、東日本大震災、福島原発の事故を経て、米作り、野菜作りの本格的な季節です。春から秋まではほとんど休みなし。日曜も祝日も関係なし。夏はみんな3時半くらいに起きて、キュウリとかズッキーニの収穫をして、男衆は6時から2時間くらい田んぼの水の見回りにいって、ようやく、8時くらいに朝食。そのあと、スタッフが集まってミーティング。一日の予定を決めて、お昼までまた収穫とかいろいろ。昼休みは長めにとるが、2時過ぎからまた収穫とか、諸々の作業。それで夕方、また男衆は田んぼの水見にいって、8時を回った頃に夕飯。夕食後ひと休みしたら、今度は野菜の箱詰め。忙しいときだと、男衆は夜中の二時くらいまで仕事をこなす。その繰り返しが秋まで続きます。
     そんな生活に飛び込んで一日一日、見よう見まねで指示された仕事をこなしていくうちに、梢恵の眼の輝きが徐々に変化していきます。中途半端な会社員だった24歳女子が、農業に真正面から向き合う人々と一緒になって汗を流します。その農作業を通して梢恵の意識が少しずつ変わっていくのです。働くことの喜び、苦しみ、そして穂高村に来て最初に訪ねた農家の一徹な老人・文吉との心温まる交流・・・・・誉田哲也は、そっと寄り添うようにして梢恵が成長していく過程を描いていきます。それは「幸せの条件」――生きることの意味、仕事のやりがいとはなにかという、青春時代に誰もが抱く悩み、迷いをめぐる片山社長の印象的な言葉と重なりあって、心に響いてきます。(2015/10/23)
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    投稿日:2015年10月23日