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小生、東京オリンピックのカイサイをボウガイします―― 兄の死を契機に、社会の底辺というべき過酷な労働現場を知った東大生・島崎国男。彼にとって、五輪開催に沸く東京は、富と繁栄を独占する諸悪の根源でしかなかった。爆破テロをほのめかし、国家に挑んだ青年の行き着く先は? 吉川英治文学賞受賞作

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オリンピックの身代金のレビュー一覧

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  • 奥田英朗の吉川英治文学賞受賞作『オリンピックの身代金』(上・下2巻)は、東京オリンピックに向かって日本中が一色に染まっていく時代にあって、「東京」だけが富と繁栄を享受する社会の有り様――富める者と貧しき者、中央と地方の格差に一人異を唱え行動を起こしていく東大生・島崎国男の孤独な闘いを描いたミステリーの秀作です。7月12日に兄の死を伝えられた島崎国男と警視庁刑事たちの、世紀の祭典・東京オリンピックをめぐる想いが交錯し、10月10日開幕日にクライマックスを迎える90日間の物語。オリンピックムードが高まる中で、政府、警察幹部を震撼させる事件が連続して発生します。●8月22日(土)19時5分、東京千駄ヶ谷2丁目の須賀警視庁警務部長私邸で時限発火装置によるダイナマイトが爆発。離れの茶室と書庫およそ150平米が全焼。須賀警務部長はオリンピック最高警備本部の幕僚長の要職にある。じつは、爆破事件の前々日、警視総監宛に封書が届いていた。消印は中央郵便局。「小生 東京オリンピックのカイサイをボウガイします 近日中にそれが可能なことをショウメイします ヨウキュウは後日追って連絡します 草加次郎」とあり、悪戯の可能性が高いと判断し当面様子を見ることとなっていたが、予告通りに爆破事件が発生した。ただちに警察庁長官、首相官邸に報告され、警視庁内に特別捜査本部が設置された。●次いで8月26日、同じく中央郵便局の消印で2通目の脅迫状が警視庁に届く。《当局のケンメイな判断を評価します もう一度ハナビを上げます ヨウキュウはまたあとで 東京オリンピックはいらない 草加次郎》――当局のケンメイな判断とは事件を公表しなかったことを差すと思われたが、3日後の7月29日15時、中野の警察学校南宿舎、配膳室で爆発があり、屋根が吹き飛び、200平米が燃える被害が出た。千駄ヶ谷の警務部長私邸爆破と同様、時限発火装置付きのダイナマイトが使用された。オリンピック開幕まで1ヶ月あまり。警視庁幹部、警察施設を狙った連続爆破事件は一切公表されることなく、マスコミの目を避けた極秘の捜査が始まります。1964年(昭和39年)――10月10日開幕の東京オリンピックを目標に、東京がその姿を大きく変えた年です。渋谷から代々木にかけての一帯は、その象徴というべきエリアでした。若者の言葉を借りれば、恐竜の頭のような先端をもつ代々木総合体育館の屋根が威容をのぞかせ、金網に囲まれた米軍の士官用宿舎ワシントンハイツは前年に日本に返還され、周囲に舗装道路が走る五輪選手村となった。現在の代々木公園です。隣には内幸町から移転してきたNHKの電波塔。渋谷公会堂とガラス張りの渋谷区役所も完成しました。半世紀たった今では古くなったこれらの建造物が東京の新しいランドマークとして光り輝いていました。9月17日、羽田空港と浜松町を結ぶ東京モノレールが開業したのに続いて、10月1日は東海道新幹線(東京ー新大阪)が開業します。そして10月3日に日本武道館が開館。7日後の10月10日に東京オリンピック開幕という、綱渡りのような日程でしたが、なんとしてでもオリンピックを成功させて、敗戦から19年で復興した日本の姿を世界に示そうと国全体がひとつになっていました。オリンピックのためならなんでもあり――当時、中学3年だった私も、そんな時代の空気だったことを覚えています。ちなみに、3月にはホンダ(当時は本田技研)から小型スポーツカー「S600」が発売され、4月に入ると週刊誌「平凡パンチ」が創刊され、ともに若者の間で大きな話題となりました。秋田の山深い寒村に生まれた島崎国男は、色白で女性的な印象が強い好男子。十五歳上の兄が秋田を出て北海道や東京で出稼ぎをして家計を支えるなかで、高校に進学し、そして東京大学に進みました。こんな一節があります。〈十八歳で国男が上京して最初に感じたのは、東京の豊かさというより、自分たちは如何に貧しかったのかということだった。それは劣等感でも義憤でもなく、純粋な驚きだった。社会の格差の現実に呆れ、嗤うしかなかったのだ。国男の生まれ育った熊沢村では、電気が通ったのすら戦後しばらくしてのことだった。小さい頃は、米軍の捨てていった麻袋にタールを塗り、頭から被って防寒着としていた。長男以外は白米を食べさせてもらえず、家を出るまで当然のように麦飯を食べていた。村の若い衆は全員中卒で、長男以外は口減らしのために都会に集団就職するのが普通とされていた。陰では少し前まで〝人買い〟も存在した。娘で器量がよければ芸者として売られ、悪ければ炭焼き場の飯炊き女として売られていった。なぜ産むのかと言いたくなる、粗末な扱われ方だった。中学と高校の担任教師が「国男君は優秀なので上の学校に行かせてあげてください」と母親に言い、奨学金の手続きをしてくれなければ、おそらく中卒で肉体労働をしていただろう。集落全体に夢がなかったのだ。〉(上巻)本郷の学生下宿で暮らす島崎国男のもとに秋田の実家から電報が届いたのは7月12日(日)の夕方だった。文面は《アニ シス シキュウヤクバニレンラクコウ》というものだった。公衆電話から故郷の熊沢村の役場に電話を入れると、そこで待機していた母が出て、十五歳上の兄、初男が東京で死んだらしいという。心臓麻痺とのことで、現場での事故ではないらしい。いずれにしても、秋田からは誰も行けないので、東京にいる国男が後始末をすることになった。翌13日、島崎国男は大田区大森の斎場で行われた兄の葬儀に参列。兄の遺骨と形ばかりの弔慰金、死亡診断書、給与の精算書類などを受け取って、夜行列車で秋田に向かいます。死んだ時、兄は首都高速の工事にたずさわっていたという。給料からは、斎場の使用料、私物の郵送費用がちゃんと引かれていた。日当は手取り700円で、飯場の寮費と食費を引かれて500円台に下がる。“通し“と呼ばれている連続労働をしなければ家族を養えない。冷たい現実の一端を垣間見た気がした国男は、東京に戻ると、兄が死んだ飯場で働き始めます。島崎が籍を置く東大大学院浜野研究室の浜野教授に宛てた手紙(8月21日付け、蒲田局の扱い)にこうあります。〈現在わたしは、主に東京オリンピックの建設現場で働いています。日本武道館や代々木総合体育館のモダンで巨大な建造物を見上げ、日本は敗戦二十年を待たずしてここまで復興したのかと、一国民として、人並みの感慨を抱いています。マルクスは世界中に資本主義が行き渡ることを前提として、その頂点にある国が崩壊すると予言したわけですが、その伝で行くならば、日本もその道を順調に歩んでいると言えるのかもしれません。「近代主義の最大の武器が生産であるならば、それを批判せずして近代主義を克服することはできない」と先生がいつかおっしゃった言葉を、今はただ噛み締めるばかりです。ここでの労働は過酷の一語です。朝の七時にバスに詰め込まれ、現場で吐き出されると、あとは役牛と同じです。労働基準法も出稼ぎ人夫相手には守られておらず、残業は事実上強要され、食事と睡眠を除けば、労働のみの毎日です。怪我をしても、労災が認定されるのは建設会社に属する社員だけで、出稼ぎ人夫たちは無視されます。人が死んでもうやむやにされます。現場監督の目は常に親会社の人間に向き、下の意向が上に伝わることはありません。労働力は補充するモノなので、備品と同列です。高価な重機と比べると、それ以下です。(中略)わたしが筆をとったのは、ひとつ残念なことを先生にお伝えしなくてはならないからです。九月からのゼミに、わたしは参加することが出来ません。レヴィ・ストロースの構造主義人類学の研究は、非常に楽しみにしていた授業ですが、ある理由からそれが叶わなくなりました。その理由について、今申し上げることは出来ません。あくまでも個人的事情によるものです。どうかご心配などなさらず、一学生のしばらくの休学と受け取っていただけると幸甚(こうじん)です。わたしは健康で、意気盛んです。〉(上巻)この手紙が投函された8月21日の翌日、最初の爆破事件が起きました。東京オリンピックに対する妨害行為阻止に全力で取り組む警視庁は刑事、公安がそれぞれの方法で東大大学院生への疑いを強めていきます。9月中頃には、浜野教授さえ公安の監視下に置かれています。東京オリンピックを人質に、島崎国男が最後に目指すものは何か。10月10日東京オリンピック開幕の日――国立競技場で何が起きるのか。(2014/12/5)
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    投稿日:2014年12月05日