書籍の詳細

終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、敗戦から70年が経過した日本。双方を重ね合わせることで、あらためて戦後ニッポンの歩みを検証・考察した、新感覚現代史! タモリが各時代ごとにすごした場所をたどり、そこでの人間関係をひもときながら、戦後という時代を描き出してみると…… タモリとは「日本の戦後」そのものだった! (講談社現代新書)

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タモリと戦後ニッポンのレビュー一覧

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  • 〈私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、いま、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです〉

     2008年8月7日、東京都中野区中央の宝仙寺。タモリは赤塚不二夫を送る弔辞を「私もあなたの数多くの作品の一つです」と締めくくりました。赤塚不二夫に対するオマージュ(賛辞)として、これ以上のものはないでしょう。

     1945年(昭和20年)8月15日、昭和天皇による「ポツダム宣言受諾」の玉音放送――終戦のちょうど1週間後の8月22日に生まれたタモリの足跡を通して戦後ニッポンを振り返る好著『タモリと戦後ニッポン』を著した1976年生まれのライター・近藤正高はこの弔辞を紹介した上で、こう続けています。
    〈居候・タモリが家主・赤塚不二夫に初めてお礼を言った瞬間だった〉

     タモリは、早稲田大学第一文学部哲学科を除籍になった後も、モダンジャズ研究会の公演の司会などメンバーとして活動を続けますが、1970年に郷里の福岡博多に帰ります。そして1972年、山下洋輔トリオと出会い、持ち前の密室芸で山下らを魅了し、1975年の夏に山下らの熱心な誘いに応じる形で再上京。山下らの行きつけだった東京・新宿歌舞伎町のスナック「ジャックの豆の木」で、赤塚不二夫に出会います。
     二度目の東京行きを果たしたとき、タモリは30歳。3月に博多-東京間が全通していた新幹線の切符代8,710円を山下らがカンパしてくれての上京でした。
     戦後30年目の節目の年であった1975年は、戦後生まれが人口の49.4%に達し、それを反映して若い戦後世代がさまざまな分野で台頭していきます。〈井上陽水、小室等、吉田拓郎、泉谷しげるがレコード会社「フーライフ・レコード」を設立し、若手ミュージシャンが自分たちの手でレコードを制作し流通させる試みとして注目を集めた〉〈マンガ批評集団「迷宮」の実質的な主催により第一回コミックマーケットが三〇あまりのサークルを集めて開催されたのもこの年のこと〉と、同書にあります。
     仲間内で芸を披露することから出発したタモリが、やがて表舞台に引っ張り出されていったのもそうした流れのなかのことでしたが、その詳細な過程は本書『タモリと戦後ニッポン』をお読みください。ここでは、タモリと赤塚不二夫の運命的出会いの瞬間、そしてタモリの衝撃のテレビデビューの顛末を紹介しておきます。
     まず「ジャックの豆の木」で開かれた独演会です。この日は、タモリの噂を聞きつけた作家・筒井康隆も神戸から駆けつけていました。

    〈独演会当日、店内には山下洋輔をはじめ、詩人の奥成達、マンガ家の上村一夫や高信太郎、それから長谷(引用者注:マンガ家で、赤塚不二夫のブレーンやマネジメントを担当していた)に同伴して赤塚不二夫も顔をそろえていた。赤塚は当初、長谷からタモリについて聞いても「そんな芸達者だったら、とっくにプロになっているはずだろう」と信じようとしなかったという。しかしとにかく行こうと長谷にうながされ、いやいやついてきたのだった。
     会が進行するうちに筒井から、中国人のターザンをやってくれとのリクエストも飛び出し、タモリはこれに見事に応じてみせた。しかし筒井の要望はとどまることを知らない。さらに「大河内伝次郎(映画俳優)の中国人ターザンが、宇宙船のなかで酸素漏れに苦しんでいるところをやってくれ」とむちゃくちゃな設定が与えられる。だがこれにもタモリは一瞬たじろぎながらも挑んでみせ、《「およ。うよ。すうしほ。ごよごよごよ」などと言いながらノドをカキムシリ、苦悶の表情物凄く、それでも必死に操作盤(コンソール)を手さぐりしようとする》その演技は客人たちを圧倒する(『ピアノ弾き翔んだ』)。こうしてリクエストに応えるがままに即興で演じるなかから、「四ヵ国語麻雀」など、のちに「密室芸」と呼ばれることになる初期タモリのレパートリーができあがっていったという。その様子を目の当たりにして、店に来るまでは渋っていた赤塚もいつしか惹きこまれていた。
     すっかりタモリに惚れこんだ赤塚不二夫は、目白にある自分のマンションの部屋に泊まっていけと申し出た。カーサ目白というそのマンションは、妻との離婚時に土地も自宅も譲ってしまった赤塚のため、事務所側が探してきたものだった。しかし淋しがり屋の彼は一人暮らしが苦手なうえ、仕事も忙しくてほとんど帰っていなかった。ようするに空家も同然だったわけで、まるでタモリのために用意されていたのではないかとさえ思わせる。〉

     1975年当時の家賃が月17万円――目白の高級マンションでタモリ自身が「日本史上、最後の居候」といった、デビュー前夜の助走生活が始まります。福岡から妻を呼び寄せ、赤塚のベンツを自由に乗り回し、金がなくなれば、都度3万円くらいの小遣いが手渡される。何から何まで赤塚不二夫によって支えられた居候暮らしが始まり、夜な夜な、新宿の「ジャックの豆の木」に現れては密室芸を披露するタモリ。
     そのタモリがテレビという表舞台に衝撃のデビューを果たします。1975年8月の最終土曜日正午からの「土曜ショー」という1時間番組。そこで「マンガ大行進!赤塚不二夫ショー」という企画が組まれており、長谷はこの番組の冒頭でタモリを出してしまうことにしたという。同書によれば、赤塚マンガの人気キャラクターを使ってデタラメな場面を七、八枚描き、それを紙芝居仕立てで、完全なアドリブで演じる、というのがタモリの役回りでした。赤塚もこれに同意します。出演時には牧師に扮装してもらおうということで、テレビ局の衣装部に発注した。引用します。

    〈番組は生放送、しかもリハーサルなしのぶっつけ本番。だがタモリは真骨頂であるアドリブを発揮し、その紙芝居口演にスタッフ一同はすっかり聴き惚れ、司会の高島(引用者注:忠夫、俳優)にも驚きが走った。
     高島はタモリを高く評価し、当初流す予定だった赤塚のアシスタント総出演のVTRを自らの判断でとりやめ、タモリにほかにも芸を演ってみせてほしいと頼んだ。進行の変更は、CM中に赤塚とタモリから了承を得て、カメラにも高島から指示を出す。
     こうして番組内容は赤塚マンガの話題から離れ、タモリにスポットが当てられた。タモリはカメラを前に、「ジャックの豆の木」でやっていたネタを視聴する層に合わせて短縮しつつ、四人の外国人がゲームを繰り広げる芸(「四ヵ国語麻雀」をアレンジしたものか)などをここぞとばかりに演じてみせた。スタジオは爆笑の渦に包まれ、エンディングで出演者全員が並ぶシーンでも高島はタモリに芸をやらせながら番組を終えるよう指示を出し続けたという。〉

     反響は番組終了と同時に返ってきました。黒柳徹子です。再び、引用します。
    〈テレビでタモリの芸を初めて見たタレントの黒柳徹子が、すぐさまテレビ局の受付に電話をかけて赤塚を呼び出し「あの人は誰!?」と訊ねたという話は、彼女が司会する『徹子の部屋』(テレビ朝日)でもたびたび語られている。黒柳が見たのがまさに『土曜ショー』のこの回だった。
     黒柳と赤塚不二夫は六〇年代後半、NETの『まんが海賊クイズ』という番組でそれぞれ司会者と回答者として共演して以来のつきあいだった。わざわざテレビ局まで「あの牧師さんは、スゴイ!」と電話をかけてきた黒柳に、赤塚は「あれがいつも話していた九州のモリタだよ。面白かった? 伝えるよ。喜ぶよ。初テレビで、本職の芸能人からほめられてさ。黒柳さんが最初だよ!」と我がことのように喜んでいたという(『赤塚不二夫のおコトバ』)〉

     電話してきた黒柳に対して赤塚が「あれが九州のモリタ」と言っているように、30歳になったばかりの森田一義はこのテレビデビューをきっかけに姓をひっくり返した「タモリ」への道を歩み始めました。しかし、タモリの居候生活は、このあと東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『空飛ぶモンティ・パイソン』への出演――タモリ初のレギュラー番組出演が決まる翌1976年4月まで1年近く続くことになります。赤塚にさんざん世話になりながらも、けっして礼をいうことのなかったタモリ、そして礼をいわれることを嫌がった赤塚不二夫。二人の真情は、葬儀の席上タモリの弔辞によって初めて明らかにされたことはすでに述べた通りです。

     タモリは30年以上にわたって『笑っていいとも!』――日本の昼の番組の顔としてテレビの世界で並外れた存在感を保ってきました。その芸、人的交流、足跡は、戦後ニッポンという時代をそのまま表現しているようです。
     昨年秋に始まった『ヨルタモリ』が日曜夜の秘かな愉しみになっています。湯島辺りにあるというバー「ホワイトレインボー」で繰り広げられる初期タモリを彷彿させる「密室芸」。ママの宮沢りえやリリー・フランキー、高橋幸宏、福山雅治などの客(ゲスト)とトーク、即興のセッションなどで盛り上がるタモリの番組です。篠山紀信が『サンタフェ』に載せなかった宮沢りえの未公開写真をもって登場したときは、思わず乗り出して見入りました。もっとも『ヨルタモリ』は9月で終了。タモリの「密室芸」もしばらく見られなくなると思うとすこし残念なのですが、そのルーツ、変転・発展の歴史、そして「タモリ」という存在を日本の戦後史と重ね合わせながら検証する本書は、戦後70年を迎えたいま、特に興味深い一冊です。
     タモリの70年はどこを切り取ってもほんとうに興味深いのですが、早稲田時代のタモリの一面を紹介して終わりとします――タモリは1965年春に早稲田の文学部に入学しますが、女優の吉永小百合も同じ年に早稲田の第二文学部に入ります。中学の時に週刊誌で写真を見たのをきっかけに吉永小百合の熱烈ファンとなったタモリにとって、吉永小百合は映画スターという次元を超えた「いてくださればいい」という存在だったそうです。
    〈その憧れの人が自分と同じ大学に進んだことを知ったのは入学直後だったという。(中略)学生食堂でラーメンを食べていたところ、たまたま前の席に吉永が座り、トーストを食べ残して立ち去った。それを持って帰ろうか迷っているうちに食堂のおばさんが片づけてしまった〉

     吉永小百合の食べ残したトーストをじっと見つめ、息を詰めるタモリ青年の姿が目に浮かびます。本書で知ったタモリの青春の断面です。(2015/9/18)
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    投稿日:2015年09月18日