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薩長(さっちょう)史観に隠された歴史の真実!“官軍(かんぐん)”が始めた昭和の戦争を“賊軍(ぞくぐん)”が終わらせた!!鈴木貫太郎(関宿)、石原莞爾(庄内)、米内光政(盛岡)、山本五十六(長岡)、井上成美(仙台)……など、幕末維新で“賊軍”とされた藩の出身者たちの苦闘を通して「もう一つの昭和史」を浮かび上がらせた異色の対談。奥羽越列藩同盟など、幕府方につき新政府軍(官軍)抵抗した藩は、維新後「賊軍」としてさまざまな差別を受けた。その藩士の子息たちは、陸軍、海軍で薩長閥によって非主流派に追いやられ、辛酸をなめることになる。やがて昭和に入り、日独伊三国同盟に反対した海軍の米内、山本、井上の賊軍トリオは、主流派である薩長閥に抗しきれず開戦を迎える。そして、“官軍”が始めた無謀な戦争により滅亡の瀬戸際まで追い込まれた日本を救ったのは、鈴木貫太郎、米内光政ら賊軍出身者だった――。新視点からあの戦争の真相を読み解き、いまに続く“官軍”的なるものの正体を明らかにする。★著者の言葉半藤一利「あの戦争で、この国を滅ぼそうとしたのは、官軍の連中です。もっとも、近代日本を作ったのも官軍ですが……。この国が滅びようとしたとき、どうにもならないほどに破壊される一歩手前で、何とか国を救ったのは、全部、賊軍の人たちだったのです。」保阪正康「太平洋戦争を批判するとき、実は薩長政権のゆがみが継続していた点は見逃せないのではないでしょうか……。薩長閥の延長にある軍部を(賊軍の官軍的体質といったものまで含めて)批判するという視点がそのまま持ち込めるように思います。」

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賊軍の昭和史のレビュー一覧

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  • 「憲法守れ」「国民なめんな」「勝手に決めるな」
     この夏、国会議事堂前で若者を中心に中高年も高齢者も、そして男性も女性も、ラップのリズムにのせ、安保法案反対の声をあげていました。組織動員によることなく集まった市民の、一人一人の考えに基づく主張がひとつの声になっていました。
     9月19日午前2時過ぎ、安保法案が参院本会議で可決され、成立しました。国会の外では「安保法案廃案!国会正門前大集会」に集まった人たちが「戦争法案採決撤回」「安倍は辞めろ」と叫び続けていました。
     法案に反対する野党の質問時間を制限して未明の採決が強行され、国会の外では市民たちが抗議の声をあげ続けていることを伝えるテレビ映像を見ていて、リリースされて間もないある本の一節が脳裡に浮かびました。『昭和史』(平凡社刊)で知られる半藤一利と「昭和史」研究で菊池寛賞を受賞した作家・保阪正康の対論集『賊軍の昭和史』(東洋経済新報社)――「プロローグ 官軍・賊軍史観が教えてくれること」に半藤一利は、こう綴っています。
    〈安倍首相は本年二月の施政方針演説で、吉田松陰(しょういん)がしきりに唱えた「知行合一(ちこうごういつ)」(知と行は二つにして一つ)という陽明学の言葉を引用して述べた。
    「この国会に求められていることは、単なる批判の応酬ではありません。『行動』です」
     与党が多数の国会はさかんなる拍手大喝采(だいかっさい)で歓迎した。
     この様をテレビで眺めながら、わたくしは思わず自分の頭をぶっ叩いてみたのである。おいおい、この科白(せりふ)はその昔に何度か聞かされたのではなかったか、と。「もはや批判し合っている秋(とき)にあらず、行動せよ、強い者が勝つのだ」「勝った者が正しい。それは歴史が証明している」……。しかし、それらの言葉は、維新という名でよばれる“革命”を正当化するために、「行動を起こしたことは正しかった」と、くり返しくり返し国民の頭に刷りこんできた明治いらいの権力者たちの壮語と、同じなんではあるまいか、と。〉

     9月18日から19日未明にかけて、大詰めを迎えた参議院本会議では、議員の討論時間が一人10分に制限されましたが、安倍首相は7か月前の施政方針演説で、この異常事態を予告するかのように、「この国会に求められていることは、単なる批判の応酬ではありません。『行動』です」との考えを出身地・山口(長州)の先人・吉田松陰が唱えた「知行合一」という陽明学の言葉を引用しつつ開陳していたのです。
     戦争に向かって坂を転がり落ちていった時代に繰り返し聞かされたのと同じ匂いのする科白に不安を感じ取った著者は、さらにこう続けます。

    〈本書のなかでわたくしは松陰の『幽囚録(ゆうしゅうろく)』に記されている極端なくらいにナショナリスティックな言葉を引用している(第一章十節)。日本の近代史とは、黒船来航で一挙にこの高揚された民族主義が顕在化し、そして松陰の門下生とその思想の流れを汲むものたちによってつくられた国家が、松陰の教えを忠実に実現せんとアジアの諸国へ怒涛の進撃をし、それが仇(あだ)となってかえって国を亡(ほろ)ぼしてしまった、しかもそれはたった九〇年間のものであった、そう考えている。つまりそれが“官軍・賊軍史観”というわたくしの仮説なのである。(中略)
     人間はだれでも「おれにはかくかくの正しい歴史認識があるのだ」と、それが唯一無比のように考えるときが、大そう危ない状態にあるといえる。思い起こせば、戦争中は排外的な神国思想があり、世界に冠たる民族意識があり、八紘一宇の理想の下に、アジアの盟主たるべく運命づけられた国民というはなはだ思い上がった考えが強調されていた。それが、つまりは「薩長史観」の行きつくところであったのであるが。いま、そんなことをアジるものはいないと信じるが、もしいたら、危ない危ない、また、せっかくのこの穏やかで平和な国を亡ぼしますぞ、と八五爺いは心からご忠告申しあげる。〉

     日本国憲法の根幹である平和主義を“解釈改憲”して、フツーに戦争できる国に改める政治の選択の背景に、明治以来の「薩長史観」があるのではないか。半藤仮説を検証していく二人の著者の議論は日本の近現代史を読み直す新たな視点を私たちに提示しています。著者(半藤一利)は、その端的な例として明治期の著作家・歴史家の宮武外骨の『府藩県制史』に注目しています。引用します。

    〈半藤 ・・・・・・これによると、県名と県庁所在地の違う県が一七あり、そのうち朝敵とされた藩が一四もあり、残りの三つは小藩連合県である。つまり、明治四年(一八七一)廃藩置県で県ができるとき、県庁所在地を旧藩の中心都市から別にされたり、わざわざ県名を変えさせられたりして、賊軍ばかりが差別を受けたと、宮武外骨はいっているわけです。
     新潟県は一応、新潟市が県庁所在地だから、宮武外骨のいう差別を受けた県には入っていませんが、長岡藩が西軍に付いていたら長岡県となっていたと私は思います。
     また、公共投資で差別された面もあります。だから、賊軍と呼ばれ朝敵藩になった県は、どこも開発が遅れたのだと思いますよ。〉

     宮武外骨は「朝敵藩」と「曖昧藩」にわけて、それぞれの県名がどうなっているかを調査して、賊軍に対する差別的扱いを明らかにしているのですが、ここでは主要朝敵藩について紹介しておきます。
    松江藩→島根県(県庁所在地:松江)
    姫路藩→飾磨県→兵庫県に合併(県庁所在地:神戸)
    松山藩→石鉄県→愛媛県(県庁所在地:松山)
    高松藩→香川県(再三廃合復県、県庁所在地:高松)
    桑名藩→津県(廃止)→三重県(県庁所在地:津)
    徳川家 名古屋藩→愛知県(県庁所在地:名古屋)
    徳川家 水戸藩→茨城県(県庁所在地:水戸)
    小田原藩→足柄県(廃止)→神奈川県(県庁所在地:横浜)
    川越藩→入間県(廃止)→熊谷県(廃止)
    佐倉藩→印旛県(廃止)→千葉県(県庁所在地:千葉)
    松本藩→筑摩県(廃止)→長野県(県庁所在地:長野)
    高崎藩→群馬県(県庁所在地:前橋)
    仙台藩→宮城県(県庁所在地:仙台)
    盛岡藩→岩手県(県庁所在地:盛岡)
    米沢藩→置賜県→山形県に合併(県庁所在地:山形)
     慣れ親しんだ地名からの変更を強制され、また県庁所在地も地域の中心的な町ではなく、移された例も少なくありません。
     明治維新に始まる近代日本の歴史は、じつはこのような官軍による賊軍差別が構造化されて形づくられてきたのではないかというわけです。ちなみに、東京・神田の古本屋のほとんどは新潟・長岡の人が創業したそうです。新潟出身の半藤一利さんが本書で語っているのですが、賊軍出身者は出世できないから苦労した、自分たちの力で生きなければならなかった。その一例が神田の古本屋というわけです。
     70年前の「日本のいちばん長い日」――幕府直系の関宿藩出身故に陸軍内部で冷遇されてきた鈴木貫太郎が首相として太平洋戦争を終わらせました。半藤一利vs保阪正康、二人の対論はそうした賊軍の精神状況こそが昭和の戦争終結の原動力にもなったという議論に発展していきます。いま、一読に値する歴史書です。(2015/10/9)
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    投稿日:2015年10月09日