書籍の詳細

それは、希望という名の恐怖――寂れゆく松保商店街に現れた若きリーダー図領。人々は彼の言葉に熱狂し、街は活気を帯びる。希望に満ちた未来に誰もが喜ばずにはいられなかったが……。

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呪文のレビュー一覧

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  •  2015年の日本は「平和」です。11月13日、パリで発生した同時テロ――金曜日の夜を愉しんでいた120名を超える人々の命を一瞬にして奪った――は、東京ではまだ起きていません。しかし・・・・・・。犯行声明を出した「イスラム国」(IS)は、自らの考えに同調しない〝他者〟を敵と断じて銃撃しました。その衝撃的な事件を伝える報道を見ながら、1冊の本のことを考えていました。
    「平和」な日本社会に拡がるある現象とその病理を描いた小説『呪文』(河出書房新社)。著者の星野智幸は、1965年アメリカ・ロサンゼルス生まれ。88年、早稲田大学卒業。新聞社勤務後、メキシコに留学。97年『最後の吐息』で文藝賞を受賞しデビュー。2000年『目覚めよと人魚は歌う』で三島由紀夫賞、03年『ファンタジスタ』で野間文芸新人賞、11年『俺俺』で大江健三郎賞、15年『夜は終わらない』で読売文学賞を受賞。意欲作を相次いで発表している気鋭作家です。
     2015年、一見平和に見える日本の社会。しかし、その裏側では――自らが信じる「正義」に同調しない人はすべて〝敵〟と見なし、その非を徹底的に叫弾し、その存在を無化しようとする現象がインターネットを舞台に拡散しています。ヘイトスピーチはその好例でしょうし、最近ある書店が行ったキャンペーン企画に「偏向している」との批判がとくにネット上で集中し、内容変更に追い込まれた事例も同調を求める現象とみていいでしょう。帰属集団への同調圧力がなぜ、強まっているのか。寂れゆく商店街を舞台にその怖さを描き出した問題作が『呪文』です。
     戦後になってできた新興住宅街夕暮が丘の商店街が栄えていく一方で、隣の駅にある松保(まつほ)商店街は歴史はあるものの、活気はありません。賃料も安い松保ならと出店しても長くは持たずに閉店する例も少なくありません。その松保商店街で、小さなトラブルが発生します。
     金曜日の深夜、後輩のミスの責任をかぶせられて終電の時刻ギリギリまで残業となった佐熊竜輝(さくまたつき)は、以前から目をつけていた自宅近くの人気の店、「夕飯のとれる居酒屋 麦ばたけ」に入った。ちょっとだけ贅沢に散財してお腹を満たすことにしたのだ。

    〈「何、全部ないの! じゃあ何があるのよ?」
    「すいません、今日に限って普段の五割増しでお客様がいらっしゃって、大半の料理が終わってしまいまして」
    「そんなこと知ったこっちゃないよ! おたくの見通しが甘いってことでしょ。この店はさ、帰り道にちょいと食事もしながら飲めるのがウリなんじゃないの? 看板に偽りありでしょう!」
    「はい、ごもっともです」
    「それで、何だったらできるの?」
    「チーズ類とか、乾きものになってしまうんですが」
    「俺は飯を食いに来たの。何か飯作りなさいよ。スパゲッティとかないの? そのぐらいならすぐできるでしょ。ベーコンとバジルのトマトソースとか。よし、それでいこう」
    「すみません、そちらは素材がないので、鶏肉とキノコのホワイトソースのパスタはいかがでしょうか。少々お時間はかかりますが」
    「ホワイトソースね、オッケー。腹減ってるんだから、十五分以内にお願いね」
    「うーん、がんばってみますが」
    「あ、それと何かサービスしてよ。迷惑かけられてるんだから」
    「それはもう。グラスワインをおつけいたします」
    「じゃあ、赤と白一杯ずつ。ハウスはゴメンだよ、それなりのボトル開けてよ」〉

     応対している店主の図領は、老舗酒店を経営する商店組合理事長の娘と結婚して、今は組合事務局長に就いている商店街の若手です。問題は、あり合わせの料理を出す前に、佐熊の内側で始まっていました。

    〈まったく今日一日、自分ばっかり何でこんな目に遭わにゃならんのだ、バカにしやがって、と佐熊の腸(はらわた)は煮えくり返る一方である。悪酔いをして悪意を暴走させるのは避けたいと思って、自分の感情の爆発を抑え、この店を選んだのに、むしろ暴走させろってことか? 人の親切を台無しにしてくれるなら、もう知らないよ、したいようにさせてもらうから、後悔しても遅いからな。
     そう考えたら、目がカッと熱くなり、火を噴いたように感じた。深呼吸をすると肚が据わり、佐熊はスマートフォンのカメラを立ち上げ、動画撮影を開始し、時計を見るふりをしてカメラを厨房に向け、「ほらもう時間。ブー、ブー。十五分過ぎてるよ、遅い、遅い」と言った。できあがったときには、「二十三分。何考えてるの。俺だってもっと早く作れるよ? 素人より遅いって、プロ失格じゃない? 見通しは甘いわ、手際は悪いわ、店持つにはまだ早すぎたんじゃないの?」と嫌味を浴びせた。
     そして食べ始めるや、「腐ってる」と怒り出した。〉

     鶏肉がにおう、牛乳は古くて腐りかけてダマになっている、おまけにワインまで酸化して味が落ちている・・・・・・言いたい放題の佐熊に対し、店主の図領はプレートのにおいをかぎ、ひとさじ食し、素材の残りもチェックしてから、「これはこういう料理ですから問題はありません。においは、ソースに一、二滴加えた隠し味のナンプラーのせいじゃないでしょうか」「ダマになっているのは、お客様が風味を加えようとして白ワインを垂らした効果かと思われます。牛乳に冷たいワインを加えると、凝固しますので」と丁寧な説明を繰り返しましたが、佐熊の怒りは収まるどころか、逆に燃え上がります。

    〈佐熊は顔をボルドー色に変色させ、「ワイン垂らす前からダマになってたんだよ! 俺の鼻がおかしいっての? 俺はこれでもボーイスカウトの子どもたちにキャンプで料理作りを指導してる身なんだから、新鮮さには敏感なんだよ。おたくがいっつも古い食いもん出してるから、おたくの鼻のほうが麻痺しちゃってるんじゃないの?」と、声を次第に荒らげながら言った。(中略)
    「何、その上から目線。慇懃無礼ってのはこういうことを言うんだよ。何で率直に客の批判を聞けないかね。においますよ、間違いなく。鶏肉も古いし、スープ自体、饐(す)えた酸味が混じってる。死にゃあしないかもしれないけれどね、いわば、何日も風呂に入ってないババアと無理くりセックスするような、やるせない気分だよ」
     それまで丁寧だった店主が豹変したのは、この瞬間だった。
    「失礼しましたね、メニューにもないこんな不味くて不完全な料理、お出しした私が悪うございました。下げましょう、その酸化しているというワインも」
     店主は、佐熊が手にしていたワイングラスを強引に奪い、パスタの皿も厨房へ持っていった。そして蛇口からコップに水を入れると、「お口直しにどうぞ」と佐熊の前に置き、「飲んだらあなたも下がってください。私はあの腐ったとあなたの主張する料理とワインを味わえるお客様を大切にしておりますので、わざわざそんなものを食べに来て文句を言う方にはご縁がありません。お引き取りください。むろん、お代はけっこうです」と通告した。〉

     クレームをつける客と店主の言い争いは、もみあいとなり、結局、110番で駆けつけた警察官が調停する形でその場は収めました。久保田の碧寿(へきじゅ)を1升、佐熊に進呈することでケリをつけようと提案した図領。1升瓶を受け取りつつ、「例外中の例外だからな。普通だったらこんなことじゃ済まされないよ。お巡りさんのメンツを立てて、今日は引っ込むけどよ」とヤクザのような捨てゼリフを残して店を出た佐熊――とうてい一件落着とはなりません。問題はここから始まるのです。
     深夜、部屋で一人、一心不乱にパソコンに向かう男。その姿を活写する星野智幸のテンポのある文章が、読むものを物語世界に引きずり込んでいきます。

    〈徹底してつぶす、絶対叩きつぶしてやる、とつぶやきながら、数分後に自分のアパートに帰り着くと、佐熊はさっそくブログに上げる文章を、取り憑かれたような勢いで打ち始めた。
     一時間半かけて完成させると、今度は録画したムービーをパソコンに取り込み、ブログの文章と合うような形に編集していく。
     できあがったらアップロードし、いくつものアカウントを駆使して、あちこちの掲示板やSNSで拡散する。それらのまとめサイトも作る。さらに、麦ばたけと松保商店街を貶めるどぎつい文言を記したビラを作って、プリントする。
     すべてが完成したのは、夜が明けようかというころだった。足をすくわれるようなミスをしてないか、いまいちどチェックしながら、佐熊は満たされた気持ちに陶然となる。不満が破裂せんばかりに高まり、怒りが沸騰すればするほど、同時に佐熊は高揚し集中力が増すのだった。ネット上の期待に応えてあり余る掘り出しモノのネタを仕込めたという興奮が、佐熊に巨大な誇りの感情を与える。特に今回は近年でもまれに見る大当たりの予感がある。大きな波が押し寄せるだろう。〉

     沸騰する怒りの感情とネット上の期待に応える大ネタを仕込んだ高揚感にひたりながら、佐熊は麦ばたけのメールアドレス宛にメインで使っているハンドルネーム「ディスラー総統」の名でメールを送りました。「今日はゴチソウサンでした」と始まり、「おたくの店、宣伝しておきました。以下の日記を、私が掛け持ちして持っている複数のブログにアップしておきました」と続くメールには、ブログのURLが張り付けられていました。
     日記のタイトルは「この暴力居酒屋にご注意!」。
    〈私が「警察を呼びますよ」と忠告すると、私の顔や腹を殴るだけ殴った挙げ句に、自ら一一〇番したのには唖然としました。この訳の分からない男の理不尽な暴力に、死ぬ程の恐怖を味わいました。(中略)
     全く今の世はニセモノばかりだ。こんな詐欺紛いのぼったくり遊園地みたいな居酒屋が、大きなツラをして、寂れていく商店街を乗っ取ろうとしている。嘆かわしい、実に嘆かわしい。〉

    「宣戦布告」です。悪意を持って書かれたディスラー総統の「日記」は、またたくまにネット上に拡散していき、さらに商店組合の他の店にまで影響が及び始めます。週末だというのにいつもよりも人通りが少ないと思っていたら、メガホンと金属バットを持った三人組が「暴力居酒屋、悪徳商店街に気をつけましょう。騙されたり、殴られたりするので、この地域には立ち入らないようにしましょう」と叫んで練り歩いていた。
     拡散する悪意、ネット上の炎上を前にすると、さらに刺激することを恐れて沈黙してしまうケースが多いのですが、店主の図領は真正面から反撃に出ます。その先に何が待っているのか。商店街の改革を掲げる図領の「正義」に潜む毒が街を冒し始め、やがて商店街に底知れぬ変化が始まっていることに気づく人が出てきます・・・・・・。

    「この本に書かれているのは、現代日本の悪夢である」(直木賞作家・桐野夏生。本書オビより)――星野智幸が描く「松保商店街」はまさに日本の縮図です。現代日本のゆがみを見事に映しだしたディストピア(反理想郷)小説。2015年最大の収穫のひとつといっても過言ではありません。
    (2015/11/20)
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    投稿日:2015年11月20日