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台湾でも大反響! 国を越え、溢れる想い台湾に日本の新幹線が走る! 巨大プロジェクトに、それぞれの国の人々の個々に抱いてきた想いが繋がる。確かな手触りの感動傑作!

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  •  いきなり、目頭が熱くなった。何ページも読み進んではいない。幕が開いたところで、物語に引きこまれていました。
    『パーク・ライフ』(文藝春秋)で芥川賞を受賞(2002年)、李相日監督、妻夫木聡、深津絵里主演で映画化された『悪人』(朝日新聞出版、大佛次郎賞、毎日出版文化賞受賞)などで知られる吉田修一の長編『路(ルウ)』(文藝春秋)――。

    〈二人同時に深呼吸してからドアを開けた。一斉に事業部スタッフたちの視線が集まるが、その全ての目が「まだなんですよ」と訴えかけている。部長席の電話が鳴ったのはそのときだった。二人に向けられていた視線が今度は一斉に窓際の席へ向けられ、中にはすでに中腰になっている者もいる。
    「待て! 俺が出る! 俺が!」
     デスクの間を縫う山尾のあとを春香も思わず追いかけた。山尾が押し退けた椅子が、勢いよく春香の腰にぶつかる。
    「はい、もしもし、台湾新幹線事業部」
     受話器を上げた山尾の声が静まり返ったフロアに響く。気配を感じたのか、仕切りの向こうから覗いている他の部署の社員たちの姿もある。
    「おう、萩尾か? 俺だ」
     そこで一瞬沈黙が流れた。横に立つ先輩社員がごくりと唾を飲み込む音を春香ははっきりと聞き取った。
    「……え? ……取った? ……取った? と、取ったんだな? うちが取ったんだな!」 
     それが山尾が発した声だった。途端にフロアのあちこちから溜息が漏れ、次の瞬間、「やった!」「やった! 取った!」「勝った!」という悲鳴にも近い声が沸き上がる。
    「……取った。……勝った」
     あちこちで上がる声に包まれながら春香もそう呟いた。椅子の背を掴んだまま、思わずその場にしゃがみ込んでしまいそうになる。しかし横にいた先輩社員が、「取ったぞ。勝ったぞ」と言いながら、そんな春香の腕を引っ張り立たせる。
    「ですね。取りました……。勝ちましたね」
     先輩社員に応えた春香の声も震えている。
    「とにかく分かった。すぐに折り返すから!」
     そう伝えた山尾が受話器を置き、興奮した顔で振り返る。
    「みんな、決まったぞ」
     一同を見渡した山尾がゆっくりと伝えた。
    「……決まったぞ。日本の新幹線が台湾を走る!」
     山尾の報告にまた一斉に声が上がった。抱き合う者がいた。机に飛び乗る若い社員がいた。気がつけば、みんなが山尾の元へ駆け寄り、肩を抱き合い、手を握り合っていた。台湾新幹線事業部を取り囲む他部署の社員たちから、あたたかい拍手が起こっていることに春香は気づいた。〉

     クライマックスではなく、物語の始まり。最初の1行からの数ページ(紙の文庫版でいえば8ページから15ページまで)で、「いい小説」に出会ったことを確信しました。
     1999年12月末。2年前に台北(タイペイ)-高雄(カオシュン)を結ぶ台湾高速鉄道の入札で欧州連合に惨敗、交渉優先権を奪われた日本サイド――その中心となる大井物産台湾新幹線事業部。青山通りを見下ろす20階のオフィスは静まりかえっていた。施工業者が最終決定される日とあって、仕事納めの日だというのにデスクを離れる者は一人もいない。息が詰まるような緊張感のなかでスタッフ全員が台北からの連絡を今か今かと待っている。そして――台北からの電話。「……え? ……取った? ……取った? と、取ったんだな? うちが取ったんだな!」の山尾部長が発した声・・・・・・緊張と沈黙から解き放され、喜びを爆発させるスタッフたちの姿が熱い共感を呼びます。
     2年前の敗北の数週間後に台湾新幹線事業部に配属された多田春香(ただ・はるか)は入社4年目。新聞紙上で「日本サイド、受注に成功」の見出しの記事が踊っているうちに、部長の山尾から台湾出向を打診されます。

    〈とつぜん山尾部長から会議室に呼び出され、「多田、お前、台湾に行く気ないか?」と訊かれた。「台湾新幹線の開業予定は二〇〇五年の十月。行くとなれば、一年や二年というわけにはいかない。どうだ? ちょっと考えてみる気はあるか?」と。
     あまりにも急なことで、春香自身は一瞬迷ったと記憶しているのだが、後日部内に山尾部長から伝えられた話によれば、「……考えてみる気はあるか?」と部長が言い終わる前に、「行きます。行かせて下さい!」と即答していたらしい。
     春香としても、まさか入社四年目の女性社員がこのような大きなプロジェクトに参加できるとは思っていなかった。中国語を多少勉強しているとはいえ、もちろんビジネスで使いこなせるほどではないし、簡単に言ってしまえば、あるのは熱意だけだったのだ。〉

     ホテル勤務の恋人を東京に残して台北のアパートでひとり暮らしを始めた春香は、台湾の水があったのか、国際プロジェクトの困難に直面する先輩スタッフを支えて台湾新幹線開業を目指して邁進していくのですが、彼女の台湾プロジェクトに対する熱意には胸に秘めた理由がありました。
     学生時代の気ままなひとり旅のときの思いがけない出来事――ひとりで台北の街歩きをしていた春香は偶然、台湾の青年と出会います。英語名エリック。よく洗い込まれていて、洗剤の匂いが漂ってくるような青いTシャツを着た建築科の大学生です。電話をかけると約束して別れたのに、神戸の実家に戻った春香はエリックが書いてくれた電話番号のメモがなくなっていることに気づきます。探そうにも、英語名しか分からないのですから、探しようもなく、けっして短くはない時が過ぎ去っていきました。
     エリックにもう一度会いたい・・・・・・胸の奥底にそんな青春時代への思いを秘める春香。台湾で仕事をするという選択をしたのは、エリックとの出会いがあったからこそという思いを抱きながら台湾人社会に溶け込んでいく春香。そんな彼女の思いを知った現地採用の台湾人スタッフが動き始めます。
     ホテルを出発した空港行きのバスの中の春香に向かってバイクに跨がったまま手を振ったエリック。窓を開けようとあせりながら「電話する!電話するから!」と電話する真似をした春香。そんな別れから二人の間に9年という時間が流れているのです。二人の思いはその距離を埋められるのでしょうか。再会シーンで、吉田修一は〈この一メートルには九年という月日が流れているのだ〉と書いています。
     そして、もうひとつの物語が春香の物語と並行して描かれていきます。第二次世界大戦前台北で暮らし、終戦によって日本に引き揚げた旧制台北高校出身の葉山勝一郎(はやま・かついちろう)――東名高速や名神高速など戦後日本の交通システムの開発に携わってきた元建設会社技術者の物語は、やがて春香の物語と合流していきます。
     台湾に新幹線を走らせる――夢の大プロジェクトに関わった人々の、さまざまなドラマ。日々の仕事の中に希望を見いだして成長していく若者たちの姿は心地よい共感をもたらします。仕事と家庭のはざまで悩み、人生のやり直しに踏み切る男には、「よかったな。これからだぞ」と口の中で呟きながら背中を押してあげたいような気持が湧いてきます。
     日本と台湾を結ぶ人々のさまざまな想いを克明に描いていく吉田修一の小説。読み始めて数ページで完全に引き込まれて、一気に読み通しました。人間が生きていく営み。そのすべてがこの小説にはあります。幾度も幾度も目頭を熱くしながら読み終えました。吉田修一らしい、ほんとうに「いい小説」です。(2015/7/10)
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    投稿日:2015年07月10日