書籍の詳細

昭和三十八年。福岡県の三池炭鉱で大規模な爆発事故が起きた夜に、一人の警察官が殺された。その息子・猿渡鉄男は、やがて父と同じく地元の警察官となり、事件の行方を追い始める。労働争議や炭塵爆発事故の下、懸命に生きる三池の人々と、「戦後の昭和」ならではの事件を描いた、社会派大河ミステリー。

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地の底のヤマのレビュー一覧

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  • 東京大学工学部を卒業して、労働省(現在の厚生労働省)に入省。4年後キャリア官僚からフリーライターに転じた西村健が2011年に出版し、第30回日本冒険小説協会大賞、第33回吉川英治文学新人賞を連続受賞した『地の底のヤマ』が、2014年11月に文庫化され、2015年1月に電子書籍版もリリースされました。物語の舞台は、福岡市で生まれた著者が少年時代を過ごした福岡県大牟田市。日本最大の三井三池炭鉱があったことで知られる町です。同じ九州の筑豊にしても北海道の夕張にしても炭鉱を「ヤマ」と呼びますが、大牟田の「ヤマ」は奥深い山のなかではなく、平地や海の底にあります。膨大な鉱脈を求めて地の底に坑道が張り巡らされていました。戦後日本の復興を支えた石炭産業も、エネルギー政策が石油へとシフトしていく過程で斜陽化の一途をたどり、三井三池炭鉱も1997年に閉山されます。大牟田という町のたどる歴史、そこに生きた人々に視点をあわせることで、戦後日本そのものを描くという著者の試みは、社会派大河ミステリーとして見事に結実しました。著者の西村健は、吉川英治文学新人賞に決まった日に選考委員の大沢在昌からかけられた言葉を本書下巻巻末収録の「文庫化に際してのあとがき」で紹介してこう綴っています。〈「お前、いい故郷(ふるさと)を持って幸せだな」作品中の、五島(ごとう)刑事の台詞(せりふ)ではない。吉川英治文学新人賞受賞が決まった日、大沢在昌御大に言われた。御大は同賞の選考委員であり、決定後にねぎらいの言葉を掛けて下さったのだ。本当に有難かった。いい故郷を持って幸せ。その通りだ、と今もしみじみ思う。あの町がなかったら今の私はない。本作品だって生まれていない。福岡県大牟田市。作品にも描いた通りかつて、日本最大の三井三池炭鉱を擁(よう)した町だ。東には熊本との県境の山が連なり、西は有明海に面す。山と海に囲まれ、気候は温暖。普通ならば風光明媚、住み易い町と称されるだろう。が、公害が酷(ひど)かった。石炭から舞い上がる粉塵(ふんじん)だけではない。化学工場が撒(ま)き散らし、垂れ流す煤煙と廃水で、空気も水も汚染されていた。今では随分、綺麗になったけれども。これも作品に描いた通りである。私はここで、六歳から十五歳までを過ごした。数えてみればほんの九年間に過ぎない。東京に出て来てからの期間の方が、ずっとずっと長い。だが、少年時代の最も多感(?)な時期だ。どちらの影響が大きいか、と言えば答えは自明だろう。また、振り返ってみればまさに一癖も二癖もある町だった。濃密な時を過ごした。植えつけられたものは、計り知れない。(中略)実家はまだ大牟田にあるから、盆と正月には必ず帰る。その他にも何かというと、帰郷する。どうにも東京にずっといると、息が詰まるのだ。定期的に大牟田の空気を吸わないと窒息してしまう。子供の頃にあの雰囲気にどっぷり浸かった、後遺症のようなものなのだろうか。こればかりは治ることはあるまい、と諦めている。〉こうして5年の歳月を費やして出来上がった作品。著者の言葉を借りれば「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・大牟田」が、本書『地の底のヤマ』(上・下)だ。主人公は、猿渡鉄男(さるわたり・てつお)。福岡県警の伝説の刑事を父に持ち、大牟田市の高校を卒業して福岡県警の警察官になった。父の猿渡石男(・さるわたり・いわお)は、1963年(昭和38年)三池炭鉱・三川坑炭塵爆発事故が起きた日に刺殺されました。犯人は不明のままです。伝説の刑事はなぜ、死ななければならなかったのか。半世紀の時を経て、主人公の鉄男は「父の死」の謎の解明を決意します。1960年(昭和35年)に始まった「三池争議」――三池労組による長期ストは総資本対総労働と呼ばれるほどの激しい闘いとなり、その先頭に立つ組合はストに反対する新労組設立で分裂。裏で会社側が暗躍していると見る旧労組と新労組が激しく対立し、その間に入った形の猿渡刑事(父)が旧労組側の何者かによって殺されたのではないかという見方もあったが、証拠と言えるものは何一つ出てきません。結局、事件は時効となり、「名刑事伝説」が県警内に残りました。物語は父の死の謎を追い続ける猿渡鉄男の追及を縦軸に展開していきますが、横軸には半世紀の間に鉄男が関わる人々の生き様、死に様が織り込まれて群像劇の趣をかもしだしています。巻頭に「主な登場人物」の一覧が掲載されていますが、その数、なんと65人にのぼります。しかし、この大河ミステリーの魅力は、登場人物の多さだけではありません。鉄男、その妻・富美(ふみ)、娘・由美(ゆみ)、父・石男、母・トシ子、姉の古賀理恵(こが・りえ)、その夫・良次(りょうじ)、鉄男の伯父・新田伊功(にった・よしのり)ら猿渡家の一族。鉄男の幼馴染みの3人、白川光(しらかわ・ひかる)、菅靖真(すが・やすまさ)、櫟園周明(いちぞの・ちかあき)。警察の先輩、同僚、後輩の安曇憲彦(あずみ・のりひこ)、沼留嗣雅(ぬまどめ・つぐまさ)、五島康夫(ごとう・やすお)、新谷和孝(しんたに・かずたか)、是政東一(これまさ・そういち)。三池労組関係者、三池旧労組書記次長・樺杵三千弥(かばきね・みちよ。第一部における事件の被害者、死亡)、三池旧労組組合長・角田明海(かどた・あけみ)、三池旧労組組合員・坪田玄作(つぼた・げんさく)。新労組結成のスポンサーとなったと見られる元三井鉱山三池鉱業所所長・盧山偵吉(ろうやま・ていきち)。その頭文字からR資金と呼ばれる裏金が大牟田はおろか福岡県の政官を動かしていく。鉄男の父との関わりもあったことがわかってきます。第二次大戦中、朝鮮半島から無理矢理炭鉱に連れてこられ、戦後そのまま大牟田に残った在日朝鮮人の田谷明浩(たや・あきひろ)、日本で生まれた息子・田谷在浩(たや・ありひろ、田谷運送社長)。そして町の暴れん坊、ヒカッしゃん。元炭鉱夫、CO集毒患者の江藤新三(えとう・しんぞう)。大牟田で必死に生き、働き、闘った人たちです。著者はその一人ひとりを丁寧に描いていて、それがこの社会派ミステリー作品に奥行きを与えています。たとえば、町の誰もが遠巻きにして避けるという、ヒカッしゃん。鉄男以外の警官では抑えることのできない暴れん坊ですが、下巻にこんな述懐をする場面があります。〈「寄る年波もクソも、自分が今いくつなんか正確に知らんけんなぁ」二人切りになると、ぼそりと言った。「俺、戸籍のなかけん」(中略)実は我が国には、戸籍を持たない人間は少なからずいる。国民健康保険も適用されないため、怪我や病気をしたら実費を払うしかない。その他、社会保障の対象には一切なれないので、全ての賄いは自己責任だ。文字通り、身一つで生きるしかないのである。その前に戸籍がないから、正式な名前もない。例えば旅回りの見世物小屋などで、蛇を口から鼻に通す「蛇娘」が周りから「ハナちゃん」などと呼ばれていたりするが、彼女には本当にそれ以外の名前がないのである。ヒカッしゃんもまた、然りだった。「俺、赤ん坊の頃、船の中に捨てられとったらしいんよ」ヒカッしゃんが言った。さすがに初めて聞く話だった。この町でも聞いたことのある者は、いないのではないか。「いったん港ば出たら、何ヵ月も海の上の貨物船で、くさ。赤ん坊が捨てられとるて分かった時には、もうどげんしよぅもなかったとげな」〉船員から「坊主」と呼ばれた赤ん坊は、少年になって船を降ろされます。女郎屋に預けられますが、名前もなければ、正確な年もわかりません。〈「そこで、思い出したわけたぃ。昔、俺ば一番可愛がってくれよった船員さんのおった。ある時どっかの港で喧嘩になって、刺されて死んだとばってんな。そん人が周りから『ヒカッしゃん』て呼ばれよった。やけん俺も、それば自分の呼び名にしたったぃ」沖縄に「比嘉(ひが)」という苗字がある。その人は察するに、「比嘉さん」だったのではないかと思われた。「比嘉さん」が訛って「ヒカッしゃん」になったわけだ。いかにもありそうではないか。〉流れモンの町。炭鉱も港も他所から流れ込んできた様々な人たちが互いに排除しあうことはない。それが大牟田の歴史であり、その歴史を体現しているのが戸籍を持たないヒカッしゃんです。彼はたぶん、奇跡の存在だ。トリックスターです。そして大牟田だからこそ自分たちが溶け込んで自然に生活ができたと語る在日朝鮮人の田谷明浩、父の信念を受け継ぎ、その理想する環境を社内に築こうとしている田谷在浩もまた、同様に規格を逸脱しているが故に魅力ある存在といえるでしょう。西村健が描く、大牟田の人たちの“熱量”のほとんどすべては、彼らの「大牟田弁」から発生しています。東京生まれの私は、テンポよい大牟田弁の会話を実際に口を動かして「音読」するようにして堪能しました。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・大牟田」――『地の底のヤマ』は何にもましてその大牟田弁が溢れる文体が魅力となっています。(2015/2/13)
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    投稿日:2015年02月13日