同日同刻 ――太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日

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太平洋戦争中、人々は何を考えどう行動していたのか。敵味方の指導者、将軍、兵、民衆の姿を、著者の蒐集した膨大な資料を基に再現。開戦の日、昭和16年12月8日と終戦にいたる昭和20年8月1日から15日までの、同日同刻の記録が戦争に翻弄された人間の狂気、悲劇、愚かしさを焙り出す。

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太平洋戦争中、人々は何を考えどう行動していたのか。敵味方の指導者、将軍、兵、民衆の姿を、著者の蒐集した膨大な資料を基に再現。開戦の日、昭和16年12月8日と終戦にいたる昭和20年8月1日から15日までの、同日同刻の記録が戦争に翻弄された人間の狂気、悲劇、愚かしさを焙り出す。

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 安倍晋三首相の「真珠湾訪問」によって、「戦後」は終わったのでしょうか?
 1941年12月7日午前7時49分(日本時間8日午前3時19分)、第一波百八十三機、続いて9時(日本時間8日午前5時)過ぎに第二波167機の日本海軍航空隊がハワイ・オアフ島の真珠湾に碇泊(ていはく)していたアメリカ太平洋艦隊に襲いかかりました。第一波攻撃のほぼ1時間後、ワシントン時間7日午後2時23分(日本時間8日午前4時23分)には「日本軍、真珠湾を攻撃す」という臨時ニュースの第一報がアメリカに流れました。日本軍が米英軍と戦闘状態に入ったことを伝える臨時ニュースが日本国内に流れるのは、アメリカの第一報から3時間たった7時18分のことでした。

 その日――日本で、アメリカで、そして世界で何が起き、何が始まったのか。敵味方の指導者、将軍、兵、民衆の姿を、真実ないし真実と思われる記録だけをもって「その日」の再現を試みた一冊の本があります。戦時下を医学生として過ごし、戦後忍法帖シリーズで知られる人気作家となった山田風太郎『同日同刻 ――太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』(筑摩書房、2014年12月19日配信)です。〈(太平洋戦争を語る手段として)同日、できれば同刻の出来事を対照することによって、戦争の悲劇、運命の怖ろしさ、人間の愚かしさはいっそう明らかに浮かびあがるのではなかろうか〉と考えた山田風太郎は、多くの指導者、将官ばかりではなく、民衆の「語り部」の役割を果たすことの多かった作家の記録も丹念に読み込み、その一人、太宰治の短編小説『十二月八日』を引いてこう綴ります。

〈この年「ろまん燈籠」「新ハムレット」などを発表し、十月文士徴用を受けたが胸部疾患で免除された三十三歳の作家太宰治は、一主婦の記録に託してこう書いている。
「しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ、あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらを胸の中に宿したような気持。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」〉

 太宰は妻の津島美知子をモデルに、「主婦の日記」という形式で日米が戦争状態に入った「その日」を描きました。ちょうど半年前に生まれた長女も登場させた、原稿用紙20枚ほどの小品『十二月八日』は、直後の「婦人公論」1942年2月号に掲載されました。
 太宰が描く〈私の人間は変わってしまった〉〈日本も、けさから、ちがう日本になったのだ〉という気分は、当時の日本人の間で広く共有されていたようです。当時40歳だった作家・上林暁も「歴史の日」と題してこう書いている、と著者は続けます。
〈「私はガバと起きて、台所で朝の支度をしている妹に向って叫んだ。
 『いよいよ、アメリカ、イギリスと戦争がはじまったよ』
 私はもう新聞など読みたくなかった。今朝来たばかりの新聞だけれど、もう古臭くて読む気がしないのだ。我々の住む世界は、それほどまでに新しい世界へ急転回したことを、私ははっきりと感じた。〉
〈私はそばに寄って来た、五つになる女の子を抱きあげると、平生ぐずって仕方のない子だから、この際活を入れておこうと思った。
 『アメリカと戦争がはじまったんだから、もうぐずぐず言っちゃ、駄目だよ。好い子で居さえすりゃ勝つんだから』
 そんな言い方も、今朝はちっとも不自然でなかった。子供は素直にうなずいた」〉

 当時、医学生だった作家・加藤周一の文章も引用されています(『羊の歌』)。
〈その朝、東京帝国大学医学部の学生加藤周一も、同級の学生たちと共に、本郷の大学の医学部の構内を、附属病院の方へ向って歩いていた。
「そのとき、学生の一人が、本郷通りで手に入れた新聞の号外を読みあげた。すると私たちの間には、一種のざわめきが波のように拡がった。誰かが何かを言ったというのではなく、いわば言葉にはならぬ反応が集っておのずから一つの溜息のようなものになったのであろう。私たちは、そのとき太平洋戦争という事実と向き合っていた。
 私は周囲の世界が、にわかに、見たこともない風景に変るのを感じた」〉

 ちなみに作品『十二月八日』主人公のモデル、太宰の妻・津島美知子(2016年2月に亡くなった作家・津島佑子の母)は、後年、作品自体について、こう述べています。
「長女が生まれた昭和16年(1941)の12月8日に太平洋戦争が始まった。その朝、真珠湾奇襲のニュースを聞いて大多数の国民は、昭和のはじめから中国で一向はっきりしない○○事件とか○○事変というのが続いていて、じりじりする思いだったのが、これでカラリとした、解決への道がついた、と無知というか無邪気というか、そしてまたじつに気の短い愚かしい感想を抱いたのではないだろうか。その点では太宰も大衆の中の一人であったように思う」(講談社文庫『回想の太宰治』より)

 戦前、女性には一切の参政権が与えられていませんからどうしようもなかったのですが、「さあ、新時代だ」と昂揚していく男たち(加藤周一は少しニュアンスがちがいますが)に比して、そんな世の中から一歩引いた冷めた視線が感じ取れ、歴史に「もし」はないことは重々承知していますが、それでもあの時代に女性がもっと役割を与えられていたら、だいぶ違った道筋になったのではないかと残念に思うのは私一人ではあるまい。

 話を戻します。ハワイ時間の12月7日、日曜日の朝に対米戦争の最前線になったハワイの領事館の外交官たちはどうしていたのでしょうか。

〈三月から、ホノルル総領事館員森村正として、刻々真珠湾在泊のアメリカ艦隊の動静について報告していた日本海軍の諜報課員吉川猛夫は、朝食のパパイアを一さじ二さじ食べかけたとき、ズシーンズシーンと腹までひびく音響をきき、庭に走り出た。そして真珠湾上空に巻きあがる黒煙の中に日の丸の翼をひろげて飛ぶ機影を見た。
 彼は庭をつっ切って官邸に走った。そこへ喜多総領事も出て来た。
「あれが日本機かね、おお、やっとる、やっとる。……」
 喜多総領事は涙を浮かべて吉川の手を握った。
「森村君、とうとうやったね」
「やりました、やりました」
 吉川も天を仰いで、涙を流しながら総領事の手を握り返した。〉

〈・・・・・・正午過ぎホノルルの日本総領事には、七人の武装警官が拳銃や小銃を持って乱入し、書類を焼却しつつあった館員を捕えた。彼らは喜多総領事以下全員を並べ、その身体検査をはじめた。敵も味方も両眼血走り、顔面蒼白であった。約八〇キロの巨体を持つ喜多総領事の検査は特に厳重で、最後にサルマタまで下ろされた。すると平生豪快な総領事自慢の”男性”がチンマリと萎縮(いしゅく)しているのが見えて、吉川たちが思わず笑い出した。それにつられて警官たちも笑い出した。
“Don't laugh !”と隊長が一喝したが、これで双方の緊張が一瞬に解けた。そのまま館員一同は監視のもとに拘禁された。〉

 未明の日本機の来襲を目の当たりにして歓喜した外交官たちが昼過ぎには衣服をはぎ取られて検査されて拘禁された。これが戦争の断面だ。

 一方のアメリカ、イギリス側はどんな状況だったのか。
 日本の8日午前5時は、イギリスでは7日午後8時です。8時のニュースを聞いていたイギリス首相チャーチルとアメリカ大統領ルーズベルトのこんなやりとりが紹介されています。

〈・・・・・・短く日本機のパールハーバーへの攻撃が放送された。
 チャーチルはしばらく後報を待っていたが、待ち切れず、テーブルから起ち上って事務室にゆき、「ルーズベルト大統領を呼び出してくれ」と命じた。二、三分の後、大統領が出た。チャーチルはきいた。
「大統領閣下、いったい日本はどうしたというのですか」
「本当のことですよ、日本はパールハーバーでわれわれを攻撃したのです」
 と、ルーズベルトはいった。
「これで、われわれはみな同じ舟に乗ったということになります」〉

 チャーチルの『第二次大戦回顧録』からの引用はこう続きます。
〈「今や、ここに至って、アメリカが完全に、死に至るまでの戦争に入ったことを私は知った。かくして、われわれはついにこのとき戦争に勝ってしまったのである。ヒトラーの運命は定まった。ムソリーニの運命も定まった。日本に至っては、木ッ葉微塵(こっぱみじん)に打ち砕かれるであろう。
 米国は巨大なボイラーのようなものである。それに点火されると、作り出す力には限りがない。
 満身これ感激と昂奮という状態で私はベッドにつき、救われて感謝に満ちたものの眠りを眠った」〉

 奇襲を受けたハワイはもちろんのこと、アメリカ本土でも日本に対する怒りは爆発的でした。〈この黄色い野郎どもが!〉〈ジャップの出っ歯をいやというほど叩きのめしてやれ!〉という声が巷に満ちましたが、チャーチルのような指導層の中には、ドイツ・イタリア・日本に対する勝利を確信して、何年ぶりかの深い眠りについたものもいたのです。奇しくも12月8日は、ヒトラーのドイツ軍がソ連軍と白い壁の前に撤退を始めた日だった。ドイツのリッベントロップ外相からの電話で「真珠湾攻撃」を知ったイタリアのチアノ外相の〈余としては、この出来事の終局の利益については何らの確信が持てない〉という述懐に続けて、著者はこう綴ります。

〈日本の八日午前五時は、モスクワでは七日午後十一時である。すなわちモスクワ前面の戦線では十二月七日最後の一時間に入ろうとしていた。そしてその日こそ、ソ連軍の猛反撃と零下三十度を越える極寒に耐えかねて、ドイツ軍がついにモスクワ戦線から吹雪の中で総退却を開始した運命の日なのであった。〉

 先のチャーチルの述懐、そして上の一節を併せ読むと、4年後の1945年――6月23日の沖縄陥落、8月6日広島、8月9日長崎への原爆投下、そして8月15日の終戦を告げる玉音放送と続いた71年前の夏の出来事は、その日――”運命の日”12月8日に決定づけられていたように思えます。

 同日同刻に何があったのかを信頼できる記録を採集し、太平洋戦争開戦の一日と終戦の15日を書きのこすことを意図した本書は、いうまでもなく真珠湾のことだけで終わりません。真珠湾奇襲は、マレー半島コタバル、タイ領シンゴラ、シンガポール、英領香港、フィリピンでも一斉に戦闘状態に入った同時多発作戦の一環だったわけですが、時間軸を揃えて記録が配置されているためその「戦争」というものが何であるのかがはっきりと見えてきます。

 これまで太平洋戦争開始の一日を見てきましたが、本書後半は終戦の15日間です。広島・長崎の被曝の日の記録は、人類が開けてしまった核の時代の黙示録そのものです。ここではそのひとつひとつを紹介はしません。ぜひ、本書を手にとってお読みください。
ただ、太平洋戦争開戦時の首相・東条英機の次の発言を紹介しておきます。広島に原爆が投下された、その日の言葉です。
〈この日まで疎開のことなどいちども口にしなかった東条は、
「これはいかん」
 と、妻と娘にいった。
「おまえたちはすぐ疎開の準備をしなさい。そして七ケ月、辛抱しなさい」〉
 この時、東条英機とその家族が暮らしていたのは、東京の用賀でした。

 2016年12月27日(日本時間12月28日)、オバマ大統領とともに真珠湾の地に立った安倍晋三首相は「戦後」との訣別を謳い、日本のメディアは首相が繰り返す「未来志向の日米同盟」という言葉を大きく伝えています。
 2013年4月、安倍首相は国会で「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と答弁しています。この答弁に表れている首相の「戦争観」を危ぶんで、オリバー・ストーン監督、高橋哲哉・東大教授ら日米53人が公開質問状を出しましたが、真珠湾訪問時のスピーチ、会見などにそれに正面から向き合う姿勢は見られません。過酷な時代を生きた人びとによる記録――歴史に目を閉ざして「未来」を語ることはできません。国会で、「ポツダム宣言」をよく読んだことがないと堂々と言ってのけた首相の「未来志向」は、日本の、そして世界の人びとの心に響くのでしょうか。
 戦争を、そして戦後の日本人の暮らしを見つめた山田風太郎の貴重な記録集『同日同刻』、『戦中派不戦日記』などの日記文学をこの機会にぜひ手にとっていただきたいと思います。(2016/12/30)
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