書籍の詳細

〈税金をもちいた多額の交付金によって地方議会を切り崩し、地方自治体を財政的に原発に反対できない状態に追いやり、優遇されている電力会社は、他の企業では考えられないような潤沢な宣伝費用を投入することで大マスコミを抱き込み、頻繁に生じている小規模な事故や不具合の発覚を隠蔽して安全宣言を繰りかえし、寄付講座という形でのボス教授の支配の続く大学研究室をまるごと買収し、こうして、地元やマスコミや学界から批判者を排除し翼賛体制を作りあげていったやり方は、原発ファシズムともいうべき様相を呈している〉

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福島の原発事故をめぐって――いくつか学び考えたことのレビュー一覧

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  • 「山本義隆」を知っていますか。1960年代末、全共闘運動が日本社会を揺るがしましたが、東京大学理学部物理学科を卒業、同大大学院博士課程に在籍していた山本義隆は、東大全共闘議長として、日大全共闘議長の秋田明大とともに、全共闘運動の象徴的存在でした。専攻は素粒子論で、京都大学の湯川秀樹研究室に国内留学していたこともあり、研究者として将来を嘱望されていましたが、全共闘運動のあと大学を去り、駿台予備校講師の仕事に就きました。在野の研究者として研究活動を続け、磁力と重力の〈遠隔力〉という独自の視点から自然科学の歴史を考察した『磁力と重力の発見』(2003年、全3巻、みすず書房)で第1回パピルス賞、第57回毎日出版文化賞、第30回大佛次郎賞を受賞、読書界の話題となりました。その山本義隆が2011年3月11日の東日本大震災によって発生した過酷事故から核力エネルギーについて論じた『福島の原発事故をめぐって―いくつか学び考えたこと』(みすず書房刊)を事故から5ヵ月後の2011年8月に出版しました。その電子版がeBookJapanでもリリースされたのを機会に再読しました。自然科学史を捉え直してきた山本義隆の核力エネルギーについての考察は、経済効率を言い立てる俗説とは対極にあります。その視点に迷いはありません。「本質的な問題は、政権党(自民党)の有力政治家とエリート官僚のイニシアティブにより、札束の力で地元の反対を押しつぶし地域社会の共同性を破壊してまで、遮二無二原発建設を推進してきたこと自体にある」とする山本義隆はそもそも「原子力の平和利用」という考え方に対し根源的な疑問を投げかけます。〈一九六〇年は安保闘争の年でもあれば、三池闘争の年でもあった。三池闘争は日本の資本主義の石炭中心から石油中心へのエネルギー政策の転換にたいする労働者の抵抗であったが、その同じ年に東京大学工学部にはじめて原子力工学科が設置された。それは国策にそったものであったが、政治家たちは、その時点ですでに石油から原子力へのエネルギー政策のさらなる転換を展望していたというよりは、むしろ政治・外交面での先を見据え、重視していたと思われる。一九五八年に原子力発電にむけてアクセルを踏んだのは、時の総理大臣で戦前に東条内閣のもとで商工相として戦時統制経済を指導した岸信介であり、彼は回顧録で語っている。〉安倍内閣は原発再稼働に舵をきろうとしていますが、そもそも原子力への転換の基礎を固めたのは、安倍首相の祖父・岸信介だったという。岸信介は原子力エネルギーに取り組む意義を隠すことなく以下のように言明しています。本書より引用します。〈昭和三十三年(一九五八年)正月六日、私は茨城県東海村の原子力研究所を視察した。日本の原子力研究はまだ緒についたばかりであったが、私は原子力の将来に非常な関心と期待を寄せていた。原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての使用も共に可能である。どちらに用いるかは政策であり国家意志の問題である。日本は国家・国民の意志として原子力を兵器として利用しないことを決めているので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核兵器は持たないが、[核兵器保有の]潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を高めることが出来る。〉いつでも核兵器を保有できるという潜在的可能性を内に秘めた形で原子力政策を推進してきた電力会社、経済産業省(旧通産省)と東京大学工学部原子力工学科を中心とする学者グループ、そして自民党の族議員からなる〈原子力村〉と称される集団の、内部的には無批判に馴れ合い外部的にはいっさい批判を受け入れない無責任性と独善性が、福島原発の事故によって明るみに引き出された――として山本義隆はその責任を厳しく指摘しています。原子力村の独善性が日本社会に何をもたらしたか。榎本聡明という東京大学工学部原子力工学科を出て東京電力の副社長と原子力本部長を勤めた人物の2009年の書『原子力発電がよくわかる本』(オーム社刊)の驚くべき内容を紹介して、著者はこう批判しています。〈「高レベル放射性廃棄物の地層処分は、地点選定に数十年、さらに処分場の建設から閉鎖まで数十年とかなりの長期間を要する事業であるとともに、処分場閉鎖後、数万年以上というこれまでに経験のない超長期の安全性の確保が求められます。したがって、地層処分事業を円滑に実施するためには、事業の意義やそのしくみについて、各地方自治体や国民に広く理解、協力を得る必要があり、理解活動がよりいっそう重要となります」正気で書いているのかどうか疑わしい。「数万年以上」にわたる「超長期の安全性」をいったい誰がどのように「確保」しうるのだろう。太平洋プレート・北米プレート・ユーラシアプレート・フィリピン海プレートの境目に位置した世界屈指の地震大国にして有数の火山地帯で、国土には多くの活断層が縦横に走り、豊富な地下水系を有する日本国内に、数万年も安全に保管できる場所がどこにあるというのか。数万年といえば、その間には日本列島の形すら変わっているであろう。そもそもがホモ・サピエンス・サピエンス(現生人類)が誕生したのがいまから三ないし四万年前のことである。ちなみに「理解活動」とはなんのことか。これまでのように、札束の力で「理解」させる「活動」のことなのだろうか。〉ニュージャーナリズムの旗手といわれたアメリカのジャーナリスト、デイヴィッド・ハルバースタム(ニューヨークタイムズ記者、ベトナム戦争報道でピューリッツアー賞受賞)の名著『ベスト・アンド・ブライテスト』(二弦社刊)を思い出しました。ケネディとそれを引き継いだジョンソン政権で安全保障政策を担当した「最良の、最も聡明な人びと」がいかに政策を誤り、アメリカをベトナム戦争の泥沼に引きずり込んでいったか、ホワイトハウス、国務省、国防総省の内幕を克明に描いたノンフィクションですが、ハルバースタムが描く「最良の、最も聡明な人びと」に東京大学出身の電力会社幹部や通産官僚が重なって見えてきます。自然科学史を探究してきた山本義隆の次のような指摘は特に重要です。〈経験主義的にはじまった水力や風力あるいは火力といった自然動力の使用と異なり、「原子力」と通称されている核力のエネルギーの技術的使用、すなわち核爆弾と原子炉は、純粋に物理学理論のみにもとづいて生みだされた。実際、これまですべての兵器が技術者や軍人によって経験主義的に形成されていったのと異なり、核爆弾はその可能性も作動原理も百パーセント物理学者の頭脳のみから導きだされた。原子炉はそのバイプロダクトである。その意味では、ここにはじめて、完全に科学理論に領導された純粋な科学技術が生まれたことになる。しかし理想化状況に適用される核物理学の法則から現実の核工業――原爆と原発の製造――までの距離は極限的に大きく、その懸隔を架橋する過程は巨大な権力に支えられてはじめて可能となった。その結果は、それまで優れた職人や技術者が経験主義的に身につけてきた人間のキャパシティーの許容範囲の見極めを踏み越えたと思われる。実際、原子力(核力のエネルギー)はかつてジュール・ヴェルヌ(引用者注:『海底二万里』を書いた19世紀フランスの小説家。晩年、1895年に『動く人工島』(引用者注:創元SF文庫)で、20世紀を舞台にした近未来社会を描き、人間の愚かしさが破局をもたらすことをはじめて予言したことは特筆すべきだと山本義隆は本書で述べています)が言った「人間に許された限界」を超えていると判断しなければならない。第一にそのエネルギーは、ひとたび暴走をはじめたならば人間によるコントロールを回復させることがほとんど絶望的なまでに大きいことが挙げられる。石油コンビナートが爆発し火災を起こしても、何日かせいぜい何週間かで確実に鎮火され、跡地に再建可能である。しかしチェルノブイリにしてもフクシマにしても、大きな原発事故の終息には、人間の一世代の活動期間を超える時間を要する。そしてその跡地は何世代にもわたって人間の立ち入りを拒む。このような事故のリスクは個人はもとより企業でさえ負えるものではない。そのうえ、廃棄物が数万年にわたって管理を要するということは、どう考えても人間の処理能力を超えている。第二に、原子力発電は建設から稼働のすべてにわたって、肥大化した官僚機構と複数の巨大企業からなる“怪物”的大プロジェクトであり、そのなかで個々の技術者や科学者は主体性を喪失してゆかざるを得なくなる。プロジェクト自体が人間を飲み込んでゆく。(中略)三月一一日の東日本の大震災と東北地方の大津波、福島原発の大事故は、自然にたいして人間が上位に立ったというガリレオやベーコンやデカルトの増長、そして科学技術は万能という一九世紀の幻想を打ち砕いた。・・・自然にはまず起こることのない核分裂の連鎖反応を人為的に出現させ、自然界にはほとんど存在しなかったプルトニウムのような猛毒物質を人間の手で作りだすようなことは、本来、人間のキャパシティーを超えることであり許されるべきではないことを、思い知るべきであろう。〉2014年12月の総選挙で勝利した安倍政権は2015年を迎えて、遮二無二原発再稼働を推し進めようとしています。祖父の岸信介元首相が核兵器保有の潜在的可能性を高めることの意義を強く意識しながら原発への道を拓いたことはすでに述べました。核爆弾と、そのバイプロダクト(副産物)である原子炉が人間のキャパシティを超えた“怪物”であるとする著者の警鐘に耳を傾けるべき時ではないでしょうか。(2015/1/2)
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    投稿日:2015年01月02日