書籍の詳細

日本人がもし一部の人の言うような模倣と小細工のみに長けた民族であったなら、あの「零戦」は生まれえなかった。独特の考え方、哲学のもとに設計された「日本人の血の通った飛行機」それが零戦であった。本書は零戦のチーフデザイナー(主任設計技師)が、アイデアから完成までの過程を克明に綴った技術開発成功の物語である。

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零戦―その誕生と栄光の記録―のレビュー一覧

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  • ちょうど1年前の2012年7月に講談社からリリースされた『零戦―その誕生と栄光の記録―』という本のダウンロードがここへきて増え始めています。爆発的にというわけではありませんが、毎日、毎日手に取ってくれる読者がでてきているようです。著者は、堀越二郎氏。先頃公開された映画「風立ちぬ」の主人公のモデルとなった、「零戦」設計開発者です。公開にあたって監督の宮崎駿は、実在の堀越二郎と小説『風立ちぬ』著者の文学者・堀辰雄をごちゃまぜにしてひとりの主人公“二郎”に仕立てあげたとして、ホームページなどで「堀越二郎、堀辰雄に敬意を込めて。」と最大級のオマージュをささげています。零戦――正式名称は零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)。太平洋戦争中にアメリカの戦闘機パイロットの間では「退避してよいのは、雷雨にあったときと、ゼロに逢(あ)ったとき。ゼロとはぜったいに一対一の格闘戦をするな」という指令がだされていたそうです。戦闘機乗りの間だけの評価ではありません。1963年、新戦闘機選定のいきさつを調べたアメリカの上院調査委員会で、海軍作戦部長W・G・アンダーソン大将は「過ぐる太平洋戦争のはじめ、日本の零戦は、われわれのどの戦闘機よりも運動性と行動力でまさっていた。その差はひじょうに大きなものとは見えなかったが、零戦によるわが国のパイロットと航空機の損害、および零戦が護衛してきた雷電機や爆撃機による味方の艦船の損失はきわめて重大であった。零戦のもっていた優差(ゆうさ)は、拳闘のチャンピオンが、相手より一インチ長いリーチ(攻撃の届く深さ)をもっているのにたとえることができる。航空機の場合、ひじょうな強さを示すものでも、一般に個々の性能の数字で見れば、大した差ではないのである。われわれはこの小差の集合から生まれる優差をわが手に握る必要があるのだ」と零戦を引き合いに出して証言しています。航空機分野で欧米諸国の後塵を拝していた日本で、時代のトップをいく性能をもつ零戦が作り出されたのはなぜか。本書は、東大を卒業して三菱内燃機株式会社(のちの三菱重工)に入社、名古屋航空機製作所で主任設計技師として30名あまりの開発チームを率いた堀越二郎氏が、1970年に光文社より出版した同名の回顧録がもととなっています(電子化底本は、1984年に刊行された講談社文庫版)。著者の堀越二郎氏はこう述べています。
    〈私が自分の口から言うのはおかしいが、たしかに、日本人が、もし一部の人の言うような模倣(もほう)と小細工のみに長(た)けた民族であったなら、あの零戦は生まれえなかったと思う。当時の技術の潮流に乗ることだけに終始せず、世界の中の日本の国情をよく考えて、独特の考え方、哲学のもとに設計された「日本人の血の通(かよ)った飛行機」――それが零戦であった〉海軍から新しい艦上戦闘機についての性能要求が出されたのは昭和12年(1937年)。日中間が全面戦争状態になるなど悪化しつつあった内外の情勢を反映して、海軍からの性能要求は、不可能と思えたほど苛酷なものでしたが、その不可能を可能にするために堀越氏ら設計グループは文字通り一丸となって零戦を創り上げていきます。開発着手から3年、昭和15年(1940年)7月に完成、「零式艦上戦闘機」の正式名称がつけられ、中国戦線への投入が始まります。そして昭和16年(1941年)の真珠湾奇襲で太平洋戦争が始まり、昭和20年(1945年)8月15日の敗戦(終戦)によって、堀越氏らが続けた零戦の開発・改良の長い道も終わりの時を迎えるわけですが、その間、未だかつて経験したことのない新技術への発想、既存技術を生かして新しい領域に到達するための工夫、新しい材料導入の取り組み・・・・・・堀越氏が綴る「零戦開発」の過程は、現在のビジネス社会における開発ストーリーにも通ずるものがあるというか、ピタリ重なり合います。飛行機を夢見た男がいくつものハードルを多くは仲間たちの努力によって、そしてときには一瞬のひらめきによって乗り越えていった軌跡は読むものに静かな感動をもたらします。最後に、与えられた環境条件を乗り越えるユニークな着想の事例を紹介しておきましょう。
    〈試作工場で残工事を終え、数個の部分に分解され梱包された一号機は、三月二十三日午後七時過ぎ、牛車二台に分載されて、名古屋市の南はずれ、港区大江町の工場を出発、名古屋市内を夜のうちに通過し、小牧、犬山をへて、まる一日がかりで、約四十八キロ離れた岐阜県各務原飛行場の片隅にある三菱の格納庫に着いた〉完成した時速数百キロの飛行機を、時速三キロにも満たないノロノロの牛車に積み、一昼夜もかけて飛行場に運んだというのですが、じつはちゃんと合理的な理由があってのことでした。
     まず第一に平野部の小さい日本では工場と飛行場が隣接する欧米のような環境は望めません。それでもなぜ、牛車なのか、すべては説明できません。
    〈遠距離ということに加えて、道の悪さということがあげられる。当時、岐阜市と犬山町のほぼ中間にあった飛行場に行くのに、きれいな舗装されたハイウエーなどありえなかった。大半が砂利を敷いた穴ぼこだらけの曲がりくねった道だった。そんな道を、トラックや荷馬車で運んだらどうなるだろうか。軽金属や木製の軽い機体は、ガタガタと揺られたり、じゃまなものに触れたりして傷ついてしまう。そのため、静かで小回りのきく牛車が選ばれていたのであった〉世界最高の艦上戦闘機開発の、ひとこまです。(2013/8/2)
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    投稿日:2013年08月02日