幻の女

880円 (税別)

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弁護士の栖本は五年ぶりにかつての恋人、瞭子に会い、未だに彼女を忘れられない自分を知る。ところがその翌朝、瞭子が刺殺されたという連絡を受け、彼女の本当の過去を追い始める。日本推理作家協会賞受賞作。

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弁護士の栖本は五年ぶりにかつての恋人、瞭子に会い、未だに彼女を忘れられない自分を知る。ところがその翌朝、瞭子が刺殺されたという連絡を受け、彼女の本当の過去を追い始める。日本推理作家協会賞受賞作。

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書店員のレビュー

 1999年に第52回日本推理作家協会賞(長編部門)を受賞した香納諒一(かのう・りょういち)の『幻の女』が版を重ねています。角川文庫から初版が発行されたのが2003年(平成15年)12月25日、12年後の2015年(平成27年)4月10日に第15版が発行されました。書店の文庫平積みに並べられた本のオビには「名作 奇跡の復活」とあります。
 候補作としてノミネートされて本作品と受賞を競ったのは、奥泉光の『グランド・ミステリー』(未電子化)、小野不由美の『屍鬼』(未電子化。コミック版のみ電子化)、東野圭吾の『秘密』(未電子化)、中嶋博行の『司法戦争』(講談社よりリリース)。この5作品から、本書と東野圭吾『秘密』が受賞したのですが、本格ミステリーとしてのレベルの高さがうかがえると思います。
 
 物語は、神保町に事務所をおく弁護士・栖本誠次(すもと・せいじ)が、5年前に理由も告げずに消え去った女と地下鉄桜田門駅の階段で偶然の再会をするところから始まります。

〈警視庁の角。晴海通りがブーメラン型に折れている付け根のあたりに、地下鉄桜田門駅の下り口がある。下りかけて、足をとめた。
 女がひとり、下から階段を上がってくるところだった。
 薄いベージュのハーフ・コート。臙脂(えんじ)色のストライプのスカーフを巻いている。私のネクタイとよく似た色だが、心持ちむこうのほうが明るかった。コートの裾(すそ)から、黒のパンタロン・スーツがのぞいている。左手に、小振りのハンドバッグをぶら提げていた。
 首筋がすっぽりと隠れてしまうほどの長さの髪の、真ん中からやや左側に分け目をつくり、左側の髪は後方へ撫(な)でつけぎみにして先端を耳の後ろにはさみ、右側は額にむけて垂らしていた。垂らされた髪が、緩やかなカーブを描きながら、眉(まゆ)からこめかみにかけて淡い翳(かげ)りを生んでいる。
 両目は大きく、唇は薄い。
 足下を見つめて上ってくるため、睫毛(まつげ)が頬にかぶさっているように見えた。
 頬骨が高く、頬の肉付きが薄いので、顎(あご)が実際以上に小さな印象を与える。微笑むと、唇の左右の肉が、行き場を失ったように軽い畝(うね)と轍(わだち)をなす。縦長の靨(えくぼ)だ。全体にきつい感じのする女だったが、靨は十代の娘のように愛くるしく、眉は対照的に寂しげだ。
 私を見上げ、両目をゆっくりと瞬(またた)いた。
 すれ違うまでに、段差を四、五段ほど残している。瞬いたのち、軽く目をすがめた。細い眉が、それに連れてわずかにバランスを崩した。目の焦点が、私の数メートル後ろのどこかに合っているように思えた。
 薄い唇を、わずかに開き、小さく息を吐き落とした。
 そうではなく、何かを告げようとしたのだろうか? 私はといえば、何かが弾(はじ)ける音を聞いていた。確かに、それを、耳の奥で聞いた。
 また一段、階段を上る。私を見つめたままだ。
 華奢(きゃしゃ)な指が、そっと動いた。階段横の手すりを掴(つか)む。微笑みの兆候とでも呼ぶべき表情が、ほんの一瞬だけ、瞳(ひとみ)から唇にかけてよぎった気がした。それはまったくの思いすごしだった気もする。小林瞭子(こばやしりょうこ)。五年前、私のもとから、いきなり消え去ってしまった女だ。  
 息を吸い、吐いた。
 意図的にゆっくりと、吐きだした。〉

 根津の小さなスナックで出逢い、2か月ほどして深い関係になった弁護士の栖本と小林瞭子。栖本が結婚して4年が経過しようする年のことだった。もうだいぶ寒くなっていた。すっかり黄色くなった銀杏(いちょう)の葉が、人気のない舗道を風に舞いながら流れていた。

 5年前、いきなり栖本のもとを去った小林瞭子との偶然の再会シーン。端正なハードボイルの文体が描き出す香納諒一の世界にいきなり引きづり込まれます。

〈「やあ」
 かすれた声を出し、その間抜けさに舌打ちした。
 瞭子がさらに階段を上る。そして、綺麗(きれい)に微笑んだ。
 一瞬の間を空けたのち、「やあ」と、同じ言葉を返してきた。
 ハスキー・ボイス。色気と、強さを感じさせる声だ。人生の儚(はかな)さ空しさとでもいえばいいような何かに、立ちむかおうとする感じが溢れている。
 次の言葉が出てくるのを待った。彼女のほうでも待っているように思った。待ちきれなかったのは、私だった。
「元気でやっていたのか」
 元気だったわと、鸚鵡(おうむ)返しに応じた。(中略)
「義父の事務所を辞めて、独立したんだ。二年ほど前だ。いまは、神保町(じんぼうちょう)で、ひとりで事務所をやっている」
 女房とは別れた。子供はむこうが引きとった。そんな言葉を喉元(のどもと)で飲みこんだ。その代わりに内ポケットを探り、革の名刺入れを抜きだした。
 彼女は私の胸元あたりに視線を動かしながら、右手で名刺を受けとった。深く沈んだ紅色のマニキュアが、五つの爪を染めあげている。爪はどれも長く、先端が鋭角に切りそろえられている。ほんの一瞥(いちべつ)をくれただけで、名刺をポケットにおさめた。それが物足りなく感じられた。
「どうしていたんだ?」
 顔を見つめながらいった。まだビルのあいだに隠れるには間のある日射しが彼女を照らしている。目尻(めじり)に細い皺(しわ)が見えたが、皮膚は五年前と変わらず艶(つや)やかで白かった。薄化粧。五年前とは違っていた。
「いろいろとね」と、彼女は応(こた)えた。
「いまは、どこにいるんだい?」
 何気なく訊(き)いたつもりだった。
 微笑みだけが返ってきた。〉

 5年の空白を埋めようとする栖本に微笑みを返すだけの瞭子。糸口さえ見つけられない栖本・・・・・・。
〈・・・・・・いまは、仕事は何をしてるんだい?」
「何に見える?」
 彼女はちらっと私を見た。いたずらっぽい視線。
「──そう訊かれてもな。わからないよ。結婚はしたのか?」
「ううん」と、首を振った。
「なあ、電話番号ぐらい、教えてくれたっていいじゃないか」
 両目が乾く。冷たくはないが乾燥した風が、瞳の表面を撫でている。
 手帳を取りだすまで、長い時間はかからなかった。彼女が躊躇(ためら)いを感じなかったのかどうかはわからない。
 女物としては大きな手帳だった。バインダー式の、いわゆるビジネス手帳で、ビニール製のカバーは黒。名刺整理のためのバインダーページがいっしょになっており、かなりぎっしりと名刺が詰めこまれていた。万年筆のキャップをはずし、はずしたキャップを唇にくわえ、手帳の一ページにペン先を走らせた。
 人差し指と中指の側面で万年筆を挟み、親指を軽く添えていた。爪をのばしているために、人差し指を立てて握ることができないのだ。マニキュアを施された薬指の爪が掌(てのひら)に食いこんでいる。
 ページをゆっくりと破り、ふたつ折りにして、差しだした。受けとって、どうでもいいもののようにポケットにおさめた。
 万年筆と手帳をハンドバッグにもどしながら「それじゃあ」といった。
「ああ」と応えた。〉

 このまま別れていくのか。背中をむける相手に遅れまいとして背をむけたものの、耐えきれずに振りむく栖本。しかし、彼女は振りむいてはいなかった。

〈「五年ぶりで会ったっていうのに、それだけなのか」
 大声を立てているわけでない。ただ、相手に自分の声が届くかどうかが不安なだけだ。自分にそういい聞かせ、そして確実に届くようにと願い、彼女にむかって近づいていった。
 最愛の女は、心底困ったという顔で、近づく私を見つめていた。〉

 そして、翌朝――栖本は警視庁刑事からの電話で彼女の死を知ることになります。両親はすでに死去しており、天涯孤独の彼女です。親類縁者もなく、栖本は身元確認のために東大法医学教室に出向き、霊安室で冷たくなった小林瞭子と対面した。深夜1時過ぎに自室で胸や腹、背中を十カ所以上にわたって刺されていたという。
 栖本が神保町の事務所に戻ると、秘書の典子がいつものように昨夜入っていた留守電の伝言を再生した。

〈「──ひとつ、相談に乗ってほしいことがあります。またあした、電話をします」
 留守電から流れでてきたのは、懐かしいとしかいいようのない瞭子の声だった。
 近づいていくと、典子は飛びのくようにして脇によけた。自分がどんな顔をしているのか想像がつかなかった。息を深く吸いこんだあと、あらためて再生ボタンを押した。
細かいことはまだ考えられなかった。
 ──ただ、ひとつ。
 彼女には、あすという日はなかったのだ。〉

 彼女が残した最後の言葉――「相談したいこと」とは何だったのか? 手がかりを求めて彼女の故郷、福島の三春を訪ねた栖本の胸のうち新たな疑惑が芽生えます。彼女は「小林瞭子」なのか。自分が愛した女は、ほんとうの小林瞭子なのか? 思いもよらぬ結末、そして遺されていた手紙。
 幻の女の影を追い求める主人公の一途な思い。器用とはいえない男と女の交錯する生と死を描いて、静かな感動を呼ぶ本格ハードボイルドの名作です。香納ワールド――ほかに『蒼ざめた眠り』『無限遠』(以上小学館)、『あの夏、風の街に消えた』『ただ去るが如く』『タンポポの雪が降ってた』『刹那の街角』『さらば狩人』『夜の海に瞑れ』(以上KADOKAWA/角川書店)が電子書籍で楽しめます。(2015/5/29)
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