書籍の詳細

――それは、時代の曲がり角をはっきりと象徴していた。昨夜、寝室でその女を抱いて寝た男は“軍靴”をはいた男だった。〈戦争〉に虐げられた、あの忌わしい記憶がよみがえってきた……。すさまじい日本経済の海外進出は、インドネシアに政情不安を起こした。政治は腐敗堕落し、むき出しの反日感情が昂まった。日本政府は、西イリアンの石油利権を保護する名目で派兵を強行。既成事実がつくり上げられ、刻々、〈戦争の危機〉が近づいていた!どす黒い現代の恐怖感を描いた、著者会心の長編小説。カバーイラスト/杉本一文

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軍靴の響きのレビュー一覧

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  •  時代を感じ取る作家の感性、そしてそこに潜む危うさを剔出(てきしゅつ)し物語に組み上げていく想像力。半村良が1972年に発表した『軍靴の響き』(角川書店版と祥伝社版があります)は、その研ぎ澄まされた感性と想像力とによって40年余りたった「現在(いま)」――集団的自衛権の容認に踏み切った安倍政権の下で戦後日本が大きく変わろうとしている時代を撃つ、刺激に満ちたリアルな作品です。〈マンモスタンカー東亜丸撃沈さる。──海上ゲリラ魚雷艇で奇襲── 翌朝ロビーヘ煙草を買いに降りた室井は、何気なく売店の脇にある新聞を見てあっと思った。新聞を買い、あわてて拡げると、第一面に東亜丸の写真がでかでかと載り、船長以下の主だったクルーの顔写真が並んでいた。室井は自分の顔から血の気が引くのが判った。エレベーターヘ駆け、エレベーターから出てまた駆けた。じれったい思いでチャイムを押す。閉れば必ず錠がおりてしまうホテルのドアは、中から美子があけるまで開きはしないのだ。「どうしたの」まだ全裸で、しどけなくバスタオルを胸にあてがった美子は、異様な室井の表情に気づいて眉をひそめた。「とに角早く着かえろ」「どうしたのよ」勘のいい美子は素早くベッドヘ戻り、下着を手早くつけながら言った。「東亜丸が沈んだよ」「まさか……」「これをみろ」下着をつけ終ったのをみて室井は新聞をほうり出した。〉元歌手の美子の夫はゲリラによって撃沈されたタンカー東亜丸の船長です。室井は東亜丸を所有するT石油を大手スポンサーとする広告代理店に勤めています。歌手時代の美子と愛人関係にありましたが、前日、久しぶりに呼び出され、なじみのホテルで一夜を共にしていた時、夫の乗る東亜丸が撃沈された――。事件の一報が入った直後、横須賀から海上自衛隊の八艘からなら護衛艦隊群がパラオ島南方のソンソロル諸島に向かって出港した。待機中のタンカー、光洋丸をイリアン湾への護送が目的です。第二次世界戦後はじめて日本の軍艦が外国に出動したのですが、表だった反対の声はあがりません。それ以上に、室井には気になることがありました。T石油の応接室で新聞に掲載する臨時広告の原稿を書いていた時に隣室から漏れてきた“密談”の声です。〈ガタンと音がしてとなりの応接室に人が入った様子だった。ボソボソと低い話声が聞え、それが時々高い声になった。「何だ、横須賀の第一護衛隊群だけか」聞き覚えのない声だった。「充分だろう」相手はむっとしたような声音だった。
    「とにかく昨夜の内に艦隊は出てる」「陸上はいつ行ってくれるのだ」「それはこっちでもまだ判らん」とに角船を一隻沈めているのだ。内調の言うなりに踊ったと、あとでうしろ指さされんようにしてもらいたい」〉〈不審は次第に疑惑となり、床についてからも室井の頭に重苦しい圧迫感を与えていた。内調とは何だ。いうなりに踊るとはどういうことだ。室井は明け方近くまで、浅いねむりをくり返しては、その合い間にT石油での声をくり返し考えていた。(中略)……内調とは何だ。いうなりに踊るとはどういうことだ。
     室井は明け方近くまで、浅いねむりをくり返しては、その合い間にT石油での声をくり返し考えていた。〉東亜丸事件がテレビや新聞などで大々的に取り上げられるようになるまでに、なぜか二日の空白がありました。事件は金曜の午後発生し、大略が入電したのがその夜から土曜の朝にかけてでした。そして自衛艦は第一報直後に南の海を目指して横須賀を後にしているのですが、護衛隊群の発進が防衛庁から正式に発表されたのは、土曜の夜になってからでした。〈月曜の各紙は筆を揃えてこの点を衝いた。シビルコントロールが守られていない……。だが一方では、撃沈された東亜丸と同型の光洋丸が、その危険海域に接近中だったという事実があった。何をおいてもそれを守りに発進しなければ自衛隊の意味がない。そういう議論も、人々には素直に受けとれるようだった。攻撃ではない。自衛だ。防衛庁長官はくり返しそれを強調した。〉夫を奪われた妻、父を失った子供たち・・・・・・乗組員の遺族がマスコミに登場して、人々の怒りや涙を誘っていた。なかでも船長夫人の宗近美子は元美人歌手として一時期人気を得ていただけに、悲劇のヒロインの役割を演じきっていくのですが、室井は、美子の叔父が元内調の幹部で、いまはイリアン湾の油田にガードマンを派遣している警備保障会社の社長だと聞き、いやでも事件の背後でうごめくものへの関心を強めていきます。〈室井の頭には、次第に東亜丸撃沈事件が、本当に現地のゲリラによるものなのかどうかという疑問が芽ぶいて来た。その気になって見ると、現地におけるゲリラとか、排日運動とかには、一筋繩では行かぬ複雑な背景があるような気がして来た。或る考え方をすれば、それは日本の権益、殊に西イリアンで独占に近い形をとりつづけている、石油利権からの追い出し策ということが考えられる。当然背景はイリアン湾石油によって巨大な日本の石油市場の半ばを失いかねない国際石油資本の暗躍である。また、もっとオーソドックスな見方としては、南下して来た中国大陸の勢力の先端部が、インドネシアで強力な地下運動を展開しようとしているとも考えられる。ソ連が日中の摩擦を煽っているというのも、その考え方の部分にはあてはまる。現地支配層の中で、親日派が主流を占めた今、その逆転を狙い、主流の位置を奪おうとする勢力のあることも事実だろう。また、それを利用してソ連と同じ狙いをつけるアメリカの力も考えられる。ひょっとすると、それが入り混り合って、ごたごたと正体不明のもつれ方をしているのが実態かもしれない。いずれにせよ、民間警備会社だけの手に陸上防衛がゆだねられているイリアン油田は、それを経営する者にとっても日本政府にとっても、不安の種でないことはない。陸上軍をくり出し、半永久的な防衛体制をとらなければ、複雑怪奇な情勢下ではいつ権益が危うくならないともかぎらないのだ。とすれば、考えにくいことではあっても、日本みずからが貴重な巨船と原油を沈めて国民の眼をこの問題に向け、とりあえず海上軍派遣の既成事実を、それも多くの国民の支持のもとに作ってしまったということも可能性としてはあり得るのだ。時代が動きはじめた……。〉「時代が動きはじめた」――広告マンとしての室井の直感でした。日本経済の生命線ともいうべきタンカーがゲリラによって撃沈されるという衝撃的な事件に見舞われた日本は石油ルートの確保、経済権益の安全保障、そして邦人の生命を守るという名の下に、急ピッチで軍事国家へと変貌をとげていくのですが、その変化を導こうと深層で動く自衛隊幕僚が本当に目指している国家の姿とはなにか?たとえば、予備登録をした若者は就職で圧倒的に有利になるという、新しい装いをまとって復活した徴兵制度。親と子の間に走る亀裂――就職のために予備登録をし、召集を受けた息子は父親にこう語ります。〈「自衛隊の最初の海外派兵の時、父さんたちは反対もしなかった。防衛庁の国防省昇格の時、デモもかけなかった。反戦グループの活動を過激ときめつけ、彼らがまき起す騒動の市民生活に対する迷惑だけを数えあげて、結局彼らを潰してしまった。何が起ってもしらん顔だ。戦争の悲惨さと戦後の貧乏を知っている世代のくせに、長いものにまかれ、流されるにまかせて何ひとつ、してくれなかった。〉半村良は、40年あまりも前に戦争前夜への回帰思潮を感じ取っていました。歴代政権がとってきた「集団的自衛権の行使は違憲」という考え方を否定した安倍政権は2015年、そのための法整備を政治課題にあげています。半村良が『軍靴の響き』で描く国が変わっていく様は、私たちが生きる「現在」を彷彿とさせます。まるで同時代史のようです。中東歴訪中の2015年1月17日、安倍首相はエジプトで「イスラム国と戦う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します」と表明しました。その直後、イスラム国は日本人2人を拘束していることを明らかにし、身代金を要求しました。そして回答期限の72時間を過ぎたところで、2人のうち1人を殺害したことを明らかにしました。残る1人、ジャーナリストの後藤健二さんの無事解放を祈るよりありませんが、それにしてもイスラム国と敵対する姿勢を示したと受け止められてもおかしくはない安倍首相の積極発言です。フランスの風刺新聞へのテロ直後の緊張した情勢下であることを考えれば、もう少し慎重な言い方があったのではないでしょうか。この発言をきっかけに始まった事態は最悪です。「地球儀を俯瞰する外交」を標榜し、これまでに50か国以上を訪問してきた安倍首相。国際経験豊富な総理が緊張感のない「軽率な発言」をしたのはなぜでしょうか。『軍靴の響き』ではタンカー撃沈→自衛隊海外派兵が、その後に続く時代の回転の始まりになりました。つくられた危機を踏み台にして、時代が思いもかけない方向に動き出したのです。戦後70年を迎えた2015年――イスラム過激派によって日本人が殺され、さらにもうひとりの日本人の命が危険にさらされている状況下、安倍首相の喫緊(きっきん)課題である集団的自衛権をめぐる安保法制整備、アフリカ基地の強化、そして憲法改正への追い風が吹きはじめたようです。日本が大きな岐路に立っていることを『軍靴の響き』は教えています。(2015/1/30)
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    投稿日:2015年01月30日