書籍の詳細

東京裁判で絞首刑を宣告された七人のA級戦犯のうち、ただ一人の文官であった元総理、外相広田弘毅。戦争防止に努めながら、その努力に水をさし続けた軍人たちと共に処刑されるという運命に直面させられた広田。そしてそれを従容として受け入れ一切の弁解をしなかった広田の生涯を、激動の昭和史と重ねながら抑制した筆致で克明にたどる。毎日出版文化賞・吉川英治文学賞受賞。

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落日燃ゆのレビュー一覧

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  •  直木賞作家・城山三郎は『落日燃ゆ』を、いまから66年前(1948年)の年末、横浜の火葬場で行われた秘密裡の作業の様子から書き始めています。〈昭和二十三年十二月二十四日の昼下り、横浜市西区のはずれに在る久保山火葬場では、数人の男たちが人目をはばかるようにしながら、その一隅(いちぐう)の共同骨捨場を掘り起し、上にたまっている新しい骨灰を拾い集めていた。当時、占領下であり、男たちがおそれていたのは、アメリカ軍の目であったが、この日はクリスマス・イブ。それをねらい、火葬場長と組んでの遺骨集めであった。やがて一升ほどの白っぽい骨灰を集めると、壺(つぼ)につめて、男たちは姿を消した。骨壺は男たちによって熱海(あたみ)まで運ばれ、伊豆山(いずさん)山腹に在る興亜観音に隠された。その観音は、中支派遣軍最高司令官であった松井石根(いわね)大将が、帰国後、日中両国戦没将兵の霊を慰めるために建立(こんりゅう)したもので、終戦後の当時は、ほとんど訪れる人もなかった。骨壺を隠して安置しておくには、絶好の場所でもあった。〉京浜急行黄金町駅からほど近い火葬場の共同骨捨場で、数人の男たちが人目をはばかるようにして拾い集めた骨灰を入れた骨壺。その中には、7人の遺骨が混じっていました。・土肥原賢二(どいはらけんじ、陸軍大将、在満特務機関長、第七方面軍司令官、教育総監)・板垣征四郎(いたがきせいしろう、陸軍大将、支那派遣軍総参謀長、朝鮮軍司令官)・木村兵太郎(きむらへいたろう、陸軍大将、関東軍参謀長、陸軍次官、ビルマ派遣軍司令官)・松井石根(まついいわね、陸軍大将、中支派遣軍最高司令官)・武藤章(むとうあきら、陸軍中将、陸軍省軍務局長、比島方面軍参謀長)・東条英機(とうじょうひでき、陸軍大将、陸相、首相) ・広田弘毅(ひろたこうき、外相、首相)最後の広田弘毅は、「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」を宣告された7人のA級戦犯の中でただ一人の文官でした。城山三郎はこう続けます。〈七つの遺骸(いがい)は、その前日、十二月二十三日の午前二時五分、二台のホロつき大型軍用トラックに積まれて巣鴨(すがも)を出、二台のジープに前後を護衛され、久保山火葬場へ着いたもので、二十三日朝八時から、アメリカ軍将校監視の下に、荼毘(だび)に付された。遺族はだれも立ち会いを許されなかった。それどころか、遺骨引き取りも許可されなかった。アメリカ軍渉外局は、「死体は荼毘に付され、灰はこれまで処刑された日本人戦犯同様に撒(ま)き散らされた」と、発表した。アメリカ軍が持ち去った遺骨は、飛行機の上から太平洋にばらまかれたといううわさであった。狂信的な国粋主義者が遺骨を利用することのないようにとの配慮からだとされた。ただし、アメリカ軍は七人分の骨灰のすべてを持ち去ったわけでなく、残りは火葬場の隅(すみ)の共同骨捨場へすてられた。男たちは、それをひそかに掘り返し、興亜観音へ隠したのであった。それから七年、昭和三十年四月になって、厚生省引揚援護局は、この骨灰を七等分し、それぞれ白木の箱に納めて、各遺族に引き渡した。だが、広田の遺族だけが、「骨は要りません」と、引き取りをことわった。すでに遺髪や爪(つめ)を墓に納めてあり、だれの骨灰ともわからぬものを頂きたくないという理由からであったが、それは、表向きの理由でしかなかった。昭和三十四年四月、興亜観音の境内に、吉田茂の筆になる「七士の碑」が建てられ、友人代表としての吉田茂や荒木元大将はじめ遺族やゆかりの人約百人が集まり、建立式が行われた。だが、このときも、広田の遺族は、一人も姿を見せなかった。広田の遺族たちは、そうした姿勢をとることが故人の本意であると考えていた。広田には、ひっそりした、そして、ひとりだけの別の人生があるべきであった。せめて彼岸(ひがん)に旅立ったあとぐらい、ひとりだけの時間を過ごさせてやりたい。たとえ、事を荒立てるように見えようと、心にもなく参加すべきではないと、考えていた。〉福岡市の働き者の石屋の倅として生をうけた少年は、地元の県立修猷館(しゅうゆうかん)中学に進みます。中学4年の時、日清戦争が勃発。一時は軍人を志願した少年は、講和後に起こった三国干渉に衝撃を受けます。ロシア、ドイツ、フランス三国の強硬な申し入れにより、戦後の講和会議で獲得したばかりの遼東半島を清国に返さなければならなくなった日本。外交の力というものがなさすぎることを痛感した少年は、提出していた陸軍士官学校の入学願書を取り下げ、外交官を目指して一高・東大へ進みます。篤志家の援助を受ける貧乏書生で生活は苦しかったが、朝6時に起床、夜は10時就寝という日課をきちんと守って外交官になります。〈吉田茂はじめ同期のだれにも先んじて外相から首相にまで階段を上りつめ、そして、最後は、軍部指導者たちといっしょに米軍捕虜服を着せられ、死の十三階段の上に立たされた。広田の人生の軌跡は、同時代に生きた数千万の国民の運命にかかわってくる。国民は運命に巻きこまれた。だが、当の広田もまた、巻きこまれまいとして、不本意に巻き添えにされた背広の男の一人に他ならなかった。その意味で、せめて死後は、と同調を拒み通す広田の遺族の心境は、決して特異なものではなかったはずである。〉1919年(大正8年)、広田弘毅は数え42歳で駐米大使館一等書記官としてワシントンに赴任します。広田の赴任後まもなく、駐米大使として着任した幣原喜重郎は、もう一人の一等書記官・佐分利貞夫を重用します。「外交平和親善・国際協調に徹する」という見解の持ち主で、月2回、官邸で催すパーティなど華やかな社交に力を入れる幣原大使とは対照的に社交が苦手の広田はそりがあいません。広田は、大使館の主流の仕事からははずされていきますが、それならそれで勉強に励もうと考えた広田は、新聞雑誌はもちろんのこと、新刊の書籍を集めて、黙々と読み続けます。アメリカは中国をどう見ているのか――北京駐在を振り出しに外交官生活に入った広田の研究テーマでした。「中国」は常に広田の念頭にあり、冷遇されたワシントン時代、中国に対する日本の姿勢について、広田は広田なりに、ひとつの考え方を固めていった、として城山三郎はこう書きます。〈広田は部下にいった。「日本は断じて支那本土に手をつけてはならない。また欧米の勢力範囲を侵すべきではない。それは日本の対岸に欧米列国を割拠させ、彼らに一致して日本に当らせることになり、日本を危殆(きたい)に陥らせるおそれがあるからだ。われわれは祖先から二千五百年の遺産を継いだのだから、これを二千五百年後の子孫に伝えるべき義務がある。」〉領土不可侵、国際協調の中にこそ、日本の安全があると考えた広田弘毅ですが、後に外相、そして首相の重責を担っていく過程で、必ずしも自身のこうした信念を貫くことができずに時代の流れに不本意に巻き込まれて刑場に消えていくこととなったのは何故なのか。その航跡をたどり、黙して語らなかった広田弘毅の真実に光をあてた城山三郎が描く“背広の男”の凛々とした最期の日々。その胸のうちを思う時、誰もが圧倒されます。〈七人は、他にだれも居ない第一号棟で、死のときを待った。 死出の旅を共にする仲間として、広田にとって、残りの六人は、あまりにも異質であった。呉越同舟とはいうが、にがい思いを味わわされてきた軍人たちに、最後まで巻き添えにされ、無理心中させられる恰好であった。(中略)同じ死刑囚とはいえ、広田と他の六人に心の底から通い合うものはなかった。〉そして死刑執行の日――。〈処刑はまず、東条・松井・土肥原・武藤の組から行われた。Pマークのついたカーキー色の服を着た四人は、仏間で花山の読経を受けたが、そのあと、だれからともなく、万歳を唱えようという声が出た。そして、年長の松井が音頭をとり、「天皇陛下万歳!」と「大日本帝国万歳!」をそれぞれ三唱し、明るい照明に照らされた刑場へ入った。広田・板垣・木村の組は、仏間に連行されてくる途中、この万歳の声をきいた。広田は花山(引用者注:教誨師・花山信勝)にいった。「今、マンザイをやってたんでしょう」「マンザイ? いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣の棟からでも聞こえたのではありませんか」仏間に入って読経のあと広田がまたいった。「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか」花山はそれが万歳のことだと思い、「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」といい、「それでは、ここでどうぞ」と促した。だが、広田は首を横に振り、板垣に,「あなた、おやりなさい」板垣と木村が万歳を三唱したが、広田は加わらなかった。広田は、意識して「マンザイ」といった。広田の最期の痛烈な冗談であった。万歳万歳を叫び、日の丸の旗を押し立てて行った果てに、何があったのか、思い知ったはずなのに、ここに至っても、なお万歳を叫ぶのは、漫才ではないのか。万歳! 万歳! の声。それは、背広の男広田の協和外交を次々と突きくずしてやまなかった悪夢の声でもある。広田には、寒気(さむけ)を感じさせる声である。生涯(しょうがい)自分を苦しめてきた軍部そのものである人たちと、心ならずもいっしょに殺されて行く。このこともまた、悲しい漫才でしかない――。〉広田の処刑は、12月23日午前零時20分。朝のラジオが処刑のニュースを全国に流しました。同じ日、広田と同期の吉田茂は、国会を解散しました。吉田の党の大勝が約束された、新憲法公布下の最初の総選挙へと時代は動き出します。(2014/12/19)
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    投稿日:2014年12月19日