書籍の詳細

日本国外でプレーする日本人サッカー選手は100人を超えるという。彼らは何を求めて海を渡るのか。星出悠、伊藤壇、中村元樹、酒井友之。馴染みの薄い国でプレーする選手からサッカーの「深さ」に迫る。

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越境フットボーラーのレビュー一覧

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  • 6月12日に開幕するワールドカップ・ブラジル大会。日本の初戦は6月15日(日)午前10時にキックオフされますが、今大会のサムライブルーを左右するのはボランチ遠藤保仁(えんどう・やすひと)の出来だとみるサッカー専門家は多い。ヤットさんの愛称で親しまれている34歳のベテランが、おそらく最後となるであろうワールドカップでどんなプレーを見せてくれるのか。そのゲームコントロールをどんな思いで見つめるのか気になる男がいます。酒井友之(さかい・ともゆき)。元日本代表です。酒井友之は、小野伸二、稲本潤一、高原直泰らとともに1994年のU-16アジアユース選手権カタール大会を制した黄金世代の一人で、5年後の1999年にはA代表監督でもあったフィリップ・トルシエによってU-20日本代表に選出されナイジェリアで開かれたワールドユース選手権に出場。決勝でスペインに敗れはしたものの準優勝の快挙を成し遂げました。酒井は右アウトサイドとして全試合に出て、日本の躍進に貢献しました。そして翌2000年のシドニーオリンピック。準々決勝のアメリカ戦、2-1でリードしていた終了直前に酒井は痛恨のPKを献上、2-2に追いつかれて試合はPK戦へ。中田英寿がPKを外して、結局メダルには手が届かなかったものの、銅メダルを獲得したメキシコ大会(1968年)以来のベスト8入りの快挙でしたから、酒井選手の名前を記憶している人もいるのではないでしょうか。ともに黄金世代と呼ばれた同期生の酒井と遠藤――シドニーでレギュラーとして戦った酒井に対して、予備登録メンバーだった遠藤は、シドニーのスタンドで悔しい思いを抱きながら酒井たちの試合を見ていました。しかしこの時の明暗は後に逆転していき、いま遠藤はブラジル大会へ、一方の酒井は2013年にインドネシアのチームで現役を引退して帰国。浦和レッズのハートフルのコーチとして子供たちにサッカーを教えています。サッカージャーナリスト佐藤俊は酒井友之を始め、サッカー選手として生きる道を海外に求めて越境していった若きフットボーラー4人の軌跡をたどり、その苦闘のなかで彼らが何を掴んでいったのか、その経験は何を日本サッカーにもたらすのかを綴りました。本書『越境フットボーラー』です。酒井友之は2007年シーズン半ばに出場機会を求めて浦和レッズから神戸へ移籍します。しかし、2008年シーズンの開幕直後、6年前からの腰痛が悪化します。それでも騙し騙し試合出場を続けていましたが、結局椎間板ヘルニアの手術に追い込まれます。そして退院して復帰を目指してリハビリ中の11月に戦力外通告をうけ、その日からチームという場を失った酒井の孤独な戦いが始まります。酒井は声をかけてくれた藤枝MYFC(静岡県リーグ所属)と4ヵ月間の契約を結びました。薄紫のユニフォームの背番号は50番だった。〈「最初は『マジかよ』って思いましたよ。高校生みたいに外で着替えて、小学生が蹴っている横で練習するんです。でも続けているうちに、芝生のグラウンドじゃないとか、トレーナーがいないとか、そんなことに文句言っている自分がバカらしく思えてきたんです。なぜかって言えば、そんな環境でもみんなサッカーを楽しんでいたからです。与えられた環境で、文句一つ言わずにプレーしている。俺はそれまでプロのレベルで、当たり前のように芝の上でプレーしてきたけど、それがやりたくてもできない人たちもいるんですよね。そういう人たちの気持ちを考えると、文句ばっかり言っている場合じゃないな、と。俺はまた芝の上でプレーできる可能性もあるわけだし、彼ら以上にサッカーができることに感謝して、プレーしなきゃいけないって思ったんです」どうやらJリーグのトップしか知らなかった酒井にとって、アマチュアレベルの世界は衝撃的だったようだ。プロから見れば「こんな環境で……」と思う場所で彼らはプレーしていたのだ。だが、彼らは不満も言わず、サッカーに打ち込んでいる。その姿に触れた時、このままではいけないと強く感じた。そしてこれ以降、酒井の姿勢は謙虚になり、以前にも増して一生懸命にプレーするようになり、コンディションも上がっていったのである〉酒井はサッカーを続ける環境――契約してくれるチームを海外にまで拡げていきました。2010年ワールドカップ・南アフリカ大会で日本代表の中心選手として頑張る遠藤の姿に勇気づけられたという酒井の元に、インドネシアで外国人選手を集めたトライアウトがあるとの情報が届きます。〈トライアウトの5日前に代理人から連絡を受けた酒井は、ある覚悟を決めてインドネシアに飛んだ。「インドネシアで決まらなかったら引退する覚悟でした。1年半、ほぼ無収入だから自分の貯金を切り崩して、リハビリやトレーニングをして来たんです。かなりお金を使ったし、何よりもどこにも所属しないで、一人でトレーニングするのがキツかった。滝沢(たきざわ)さんという元ヴェルディでタイに行った先輩がいるんですけど、滝沢さんもクビになった後に半年間、公園で一人で練習していたらしいんですけど、おかしくなりそうだって言ってましたからね。そういう難しさもあったし、両親に『いつまでもサッカーのことばっかり考えてないで、次のことも考えなさい』って言われていたんです。その頃、ちょうどコーチの話とかもあったんですけど、まだ現役に未練があったんで断ったんですよ。親は呆れていました。結局は『自分の人生だから好きにしなさい』ってキレ気味に理解を示してくれましたけど。でも、それから半年以上が過ぎても状況は変わってない。このままダラダラ無職のまま過ごすわけにも行かないし、インドネシアを最後にしようと決めた。親にも『これでダメだったらサッカーをやめる』って言って日本を出てきたんです」トライアウトには50名もの外国人選手が集まり、インドネシアの各チームからそれぞれGMやコーチが品定めに来ていた。外国人選手は欧州やブラジル、アフリカからも来ていたが、韓国人、中国人がその半数を占め、日本人は酒井1人だけだった。テストは30分2本の練習試合が組まれ、その中で1人15分程度の出場を2回ほどこなす、というもの。ほとんどがFWかDFの選手で、ボランチはほとんどいなかった〉少数派のボランチは逆に目立ったのか、酒井はインドネシア・スーパーリーグに属するペリタ・ジャヤ(本拠地ジャカルタ)から「練習に参加してほしい」と声をかけられ、1週間の練習参加の終了後、オフィスに呼ばれた。そして契約書を手渡されました。その時のことを、酒井は「年甲斐もなく、『やったー』って言っちゃいましたね」と述懐しています。契約期間は1年、背番号は6番を選んだ。年俸は約10万ドル。Jリーグの実績があるがゆえの高額で、他の選手はずっと低かったそうです。2010年9月26日、スーパーリーグ開幕戦となるペルシワ・ワメナ戦で酒井はデビューを果たします。試合は4-0、1ゴール2アシストの活躍。順調なスタートでしたが、長続きはしません。監督不在のチームは下降線をたどり、新監督の下で評価を失った酒井は開幕戦を戦ったペルシワ・ワメナへ移籍。さらに2011年12月には3つめのチームの選手として開幕戦のピッチに立ちました――。欧州トップリーグとは天国と地獄といっていい悪条件下の地域に軽々と越境していく若き日本人たち。ストリートサッカーに飛び込んでチームの練習参加の道を見つけて契約にこぎつけ、「選手」になったフットボーラーもいます。実績のある酒井選手はまだ恵まれた存在というべきかもしれません。華やかなワールドカップの裏側で繰り広げられる、もう一つのサッカー戦記。彼らの苦闘は日本サッカーをどう変えていくのでしょうか。そして日本に何をもたらすのでしょうか。(2014/5/30)
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    投稿日:2014年05月30日