書籍の詳細

主流を外れた静かな職場、地方で入婿状態の息子、よりによって妻子持ちと交際中の娘。5年前に妻を亡くし、まだローンの残る建売の家でぽつんと一人、主人公は自分の役目は終わったと感じている。そんなある日、娘に再婚を勧められ──。初老のサラリーマンの寂寥をくっきりと描く「早春」。加えて時代小説「深い霧」「野菊守り」と、司馬遼太郎について書いた「遠くて近い人」など、著者晩年の心境をうつしだす随想、エッセイを収録。藤沢周平が身近に感じられる1冊です。

まだユーザーレビューはありません。最初のレビューを書いてみませんか?

早春 その他のレビュー一覧

絞込み条件
  • レビュアー絞込み
表示形式
  • 表示件数
  • 表示順
  • すぐそこにある人生の哀感。藤沢周平が遺した唯一の現代小説『早春』は、妻子を守って懸命に生きてきた56歳のサラリーマン・岡村が主人公。5年前に妻に先立たれ、長男の雄一は地方の大学を卒業してそこで就職。入り婿の形で地元の素封家の娘と結婚して、年に二、三回電話があるだけ。娘の華江は勤め先の妻子ある上司と不倫の関係にあり、上司が離婚するのを待って一緒に生活を始める準備をしている。しかも単身赴任中の5年前に病弱の妻の看護を理由に本社への復帰を願い出て、その時から窓際族となって、以来なすべき仕事はない。日がな一日資料を整理するだけの毎日で、息子、娘が巣立っていって、一人になっていく日々をおくる岡村の孤独感が迫ってきます。その寂寥感が胸をしめつけ、岡村の人生をすごく身近なものに感じさせます。時代小説の名手といわれる藤沢周平ですが、現代小説は平板で時代小説ほどにうまくはないとする評価も少なくありません。しかし、あえてストリー展開を抑制して平々凡々たる窓際族のもの静かな晩年を描いたところに藤沢周平晩年の思いがあったような気がします。藤沢周平の素の部分が晩年になって現れたのが、本書表題作『早春』といえるのではないでしょうか。藤沢周平は岡村の胸中をこう書いています。〈膝を入れるほどの小さな家でいいから自分の家が欲しいと、焦がれるように思いつづけたことも、頭金のつごうがついてローンを組みおわったときの喜びも、いまは夢かと思うばかりに気持から遠かった。家というものに抱いたそのころの欲望のはげしさを、岡村は理解しがたいもののように思い返すことがある。そしてそんなふうに家に対する愛着がうすれた理由についても、岡村はぼんやりと思いあたるところがあった。家を欲しがったのは、自分のためというよりは自分をその中にふくめた家族というもののためだったろう。だが繭の中の蛹(さなぎ)のようにその家でまどろんだ時間はほんのいっときで、家族はいま四散を目前にしていた。家は御役ご免になったのだ〉〈子供や家に対するあの熱くてはげしい感情は何だったのだろう。こんなふうに何も残らずにきえるもののために、あくせくと働いたのだろうか。窓の光はいつの間にか消えて、考えに沈んでいる岡村を冷えたうす闇の中に取り残した〉文学青年の残り火ともいうべき藤沢周平の現代小説は、あくまでも物語性を排して晩年にさしかかった男の哀感を色濃くにじませて、読むものの胸を撃ちます。救いのなさ故の共感といったらいいでしょうか。本書にはこの現代小説とは対極をなす時代小説2篇――『深い霧』『野菊守り』が収録されています。いずれも平成の作品で、晩年の藤沢周平らしい人に対する温かみが溢れる名品です。さらに、時代小説への取り組みや、司馬遼太郎への思いを綴ったエッセイなど4篇(『小説の中の事実』『遠くて近い人』『ただ一度のアーサー・ケネディ』『碑が建つ話』)も収録。編集上の工夫があり、編集力が十分に発揮されて、これまでとは違った「藤沢周平」を味わえる短編集となっています。(2011/12/2)
    • 参考になった 2
    投稿日:2011年12月02日