東京の戦争

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物干台で凧を揚げていて、東京初空襲の米軍機に遭遇した話。戦中にも通っていた寄席や映画館や劇場。一人旅をする中学生の便宜をはかってくれる駅長の優しさ。墓地で束の間、情を交わす男女のせつなさ。少年の目に映った戦時下東京の庶民生活をいきいきと綴る。抑制の効いた文章の行間から、その時代を生きた人びとの息づかいが、ヒシヒシと伝わってくる。六十年の時を超えて鮮やかに蘇る、戦中戦後の熱い記憶。

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物干台で凧を揚げていて、東京初空襲の米軍機に遭遇した話。戦中にも通っていた寄席や映画館や劇場。一人旅をする中学生の便宜をはかってくれる駅長の優しさ。墓地で束の間、情を交わす男女のせつなさ。少年の目に映った戦時下東京の庶民生活をいきいきと綴る。抑制の効いた文章の行間から、その時代を生きた人びとの息づかいが、ヒシヒシと伝わってくる。六十年の時を超えて鮮やかに蘇る、戦中戦後の熱い記憶。

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書店員のレビュー

『三陸海岸大津波』、『関東大震災』など記録文学の名作を数多く遺した吉村昭は、自らが体験した昭和の戦争を綴った『東京の戦争』で、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲の夜のことをこう書いています。当時、吉村昭は18歳、中学生(旧制)で、現在の東京都荒川区日暮里に住んでいました。夜間空襲に備えて、学生服を着て、ズボンの上からゲートルをまいて布団に入る日々でした。〈昭和二十年三月十日の夜間空襲は、きわめて大規模なものであった。記録によると、二百九十八機のB29が飛来し、下町方面に千七百八十三トンの焼夷弾を投下、それによって十八万二千六十六軒の民家が焼失し、七万二千名が死亡したとある。私の住む荒川区の半分も焼失したが、その方面に数機のB29が低空で飛ぶのが見え、鬼灯提灯(ほうずきちょうちん)のような無数の朱色の火の玉がゆっくりと降下してゆく。それが地上に達しかけた頃、闇に沈んでいた地域が明るくなり、火炎が一面に立ちのぼった。鬼灯提灯のようなものは、照明弾に類したものであったのか。妖しい色光であった。その夜の空襲で下町が大被害をこうむったことが伝わってきたが、数日後、隅田川にかかる尾竹橋の上からみた川面の情景にその実情の一端を見た。自転車に乗って橋に近づいた私は、橋の上に三、四人の男が欄干から身を乗り出して川を見下しているのを見た。私は近寄り、自転車をとめてかれらにならった。二、三十体の死体が、まるで大きな筏のように寄りかたまって浮んでいた。大空襲で焼きはらわれた地域は下流方向で、その空襲で火に追われて川に身を入れ、死んだ人たちであることはあきらかだった。潮が満ち、死体は附着力の作用で体を密着させ、上流に漂い流れてきたのだ。衣類に焼け焦げの跡は全くなく、私はそれらが窒息死したものであるのを知った。壮大な燃焼作用で酸素が無に近くなり、川に身を入れた人々は窒息し、そのまま川に漂い出たのだろう。短い白髪の裸足の老人、赤子を背負った中年の女、手さげ金庫を背にくくりつけた男、突っ伏した姿勢で浮ぶ若い女。それらを見下ろす私の眼はうつろであった。それまで私は、焼土と化した地で多くの死体を見てきた。路上にただ一体横たわっている炭化した焼死体。風で吹き寄せられたように一カ所に寄りかたまっていた黒い死体の群れ。それらを見てきた私には、死に対する感覚が失われていたのか、橋の下に浮かぶ遺体の群れにほとんど感慨らしいものは胸に浮かんでいなかった〉そして4月13日の夜。吉村昭の住む町に大量の焼夷弾がばらまかれました。米軍側資料によると、来襲したのは330機で、墓地のはずれに立った吉村昭の眼前に壮絶な情景がひろがっていた――視野一杯に炎が空高く噴き上げ、空には火の粉が喚声を上げるように舞い上がり乱れ合っている。得体の知れぬ轟音が体を包み込み、大津波が押し寄せてくるような感じだったとして、吉村昭は「私の生まれ育った町は、その夜、永遠に消滅した」と綴っています。大正から昭和に改元されたのは大正15年(昭和元年、1926年)12月25日ですから、昭和2年(1927)5月生まれの吉村昭は、昭和という時代そのものを生きたことになります。生まれついてから××事変と称された戦争が切れ目なく続き、昭和16年(1941)12月には戦争がアメリカとの間にまで拡大し、「大東亜戦争」が昭和20年8月に敗戦という形で終結するまで戦争とともに生きてきたといえます。終戦時に18歳の吉村昭は、広島に原爆が投下される直前に徴兵検査を受け、近々入隊の予定でした。つまり軍隊に入るぎりぎりの年齢で、一歳以上年長の東京在住の男子は、将兵として東京を離れていました。また、小学生の多くは学童疎開や家族単位の疎開で東京を離れています。その意味で、日本人がかつて経験したことのない大戦争下の首都で日々をすごした人間は限られていて、吉村昭はその一人ということになります。その吉村昭が18歳の夏までに眼に映じた東京での生活を綴った本書は、体験に基づいた一級の記録文学といって過言ではありません。著者はあとがきに、編集を担当した松田哲夫氏(筑摩書房顧問、TBS.系「王様のブランチ」コメンテーター)と中川美智子さんが「戦争」を知らない世代であり、「そんなことがあったのですか」と驚くのが興味深く、また励みになったと記していますが、戦後生まれの私たち団塊の世代にとって、吉村昭が本書で伝える戦争と日本人の生活は、まさに驚きの連続です。空襲は家庭の秩序を決定的なまでに乱すことがあります。目撃した18歳の著者は見てはならぬものを見たような思いで、ひどく悲しかったとこう綴っています。〈日暮里の町に焼夷弾がばらまかれた夜、避難するため、駅の上にかかった跨線橋を谷中墓地に向かって歩いている時、後方に寝巻姿の老女が這ってきているのを眼にした。私は引返し、老女のかたわらに膝を突いてかかえあげようとすると、老女は、「残されまして、残されまして・・・・・・」と、繰返し言った。一見してその女性は体が衰弱し、床に臥していたにちがいなかった。残されましてというのは、家族に置き去りにされたことをしめしていた。品のいい老女で、うらみがましい表情はなく、おだやかな眼であった。老女は家族が去った家から這い出て、跨線橋まで逃げのびてきたのだろう。「どうしました」防空帽をかぶった二人の男が近づいてきた。墓地に近い町の警防団員であることはあきらかだった。男たちは、私がなにも言わぬのに事情を察したらしく、老女を抱え上げて墓地の方に歩き、私もついていった。墓地に入った老女が、「あそこにいます。あそこです」と、はずんだ声で言った。太い樹木の下に、十五、六歳の厚いセーターを着た少年をふくむ数人の男女が立って、こちらを見つめていた。私は、それが老女の家族であるのを感じるとともに、その少年が小学生時代の下級生であるのに気づいた。抱きかかえられた老女が、その家族に近づいてゆくのを私は眼にして背を向け、墓地の桜並木の方へ歩いていった〉死に直面したとき、人はかくも残酷になれるのでしょうか。東京大空襲の夜に、18歳の青年が身をもって知った「家族」の現実です。火に追われて逃げまどった末に、妻子を置いて逃げた男の話も「戦争」というものの残酷な側面を示しています。妻と幼女とともに火に追われて逃げまどった末に、熱さに耐えきれず、妻子を置いて必死に逃げ、かろうじて死をまぬがれることができた男が、火がおさまって自分たちの住んでいた長屋の焼跡に行ってみると、思いがけず衣服と髪の所々焼けた妻子と再会できた。しかし、妻は男にひとことも口をきかずに子供を連れて実家に帰ったという。18歳の時の生々しい体験、奇異な時代の現実――平時とは異なる戦時下だからこその歪んだ庶民の生活のさまざまな断面を、吉村昭が半世紀の時を経て回想した記録文学。こうした思いの上に立って戦後は始まりました。その「戦後」を見直そうという主張が声高に語られる今、昭和生まれの30代、40代にも平成生まれ20代の若い世代にもぜひ読んでもらいたい、「戦争」を生きぬいた日本人の貴重な記録です。(2014/3/7)
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