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  • 傍らにウィスキーの瓶を置き・・・・・・
     私は重度の活字中毒者でして、しかも気に入った小説やエッセイは、時間があれば手にとって数ページ読むだけでも満足してしまいます。言ってみれば幼児がぬいぐるみをいつも手放さないようなもので、だからお気に入りの本はいつのまにかぼろぼろのばらばらに。ですので、私の電子書籍ライブラリーのかなりの部分を「いつも持っていたいお気に入りの本」が占めています。「ボートの三人男」はそのひとつ。

     むかし小学館から『少年少女 世界の名作文学』というシリーズが出ておりまして、小学生の私はそれを買い与えられていました。これはなかなかに強力なシリーズでして、全50巻が「イギリス編」「フランス編」みたいに国別になっていて、しかもイギリス編だけで7巻もある、というボリューミーさ。おかげで私は世界各国の名作を子供向けバージョンでたくさん読むことができ、「秘密の花園」「少女パレアナ」「ケティ物語」といったアメリカの少女小説の筋を今でも覚えていて、女性の友人知人に不気味がられています。

     この「ボートの三人男」は、「イギリス編6」に収録されていました。訳者は森いたるさんという方で、調べてみたら大正2年生まれの児童文学者とのこと。偉人伝や世界名作のリライトも手がけていたそうです。これを読んだのは小学4年生ぐらいだったと思いますが、もうとにかくおかしくておかしくて、何度読み返したかわかりません。ビクトリア朝時代(出版は1889年)のロンドンに住む3人の独身男が、ボートに乗ってテムズ川を下る、というだけの話なんですが(おっと、犬も1匹いました)、乗るまでの相談や荷造りでまず大騒ぎ、ボートの中でのさまざまな出来事がまたおかしく、そこに語り手の「ぼく」や二人の友人が経験したり人から聞いたりした妙な話、変な話、笑い話が挟まっている、という構成で、小学生のガキはげらげら笑いながら「テムズ川のボート遊び」に憧れたのでした。

     大人になって丸谷才一さんの訳が出ていることを知り、文庫を買ったのが大学生のとき。そのとき知ったのは、ユーモア小説でありつつテムズ川の観光案内・歴史案内でもあり、時にはずいぶんと生真面目な思索や道徳的な教えも出てくる小説なのだ、ということ。小学生向けのリライトでそのあたりは省略されていたのでしょうが、その多彩にして混沌とした文体の様子も、丸谷さんの見事な訳で楽しむことができます。

     最初にこの本を読んでから50年経ちました。小学生が読んでもおもしろく、定年近いおっさんが読んでも楽しい、というのは、考えてみればたいへんなことですね。中公文庫の解説(電子書籍では省略されているのが残念!)で、井上ひさしさんがこうおっしゃっています。「さあれ、一読されよ。できれば、日曜の午後など、時間のたっぷりあるときに、傍らにウィスキーの瓶を置き、スコット・ジョップリンのラグタイムでも聞きながら、文章を舐めるようにゆっくりと―」その通りです、井上先生!
    投稿日:2016年05月27日
  • 日常からただちょっと離れたくなったときに
     どこかに連れていってほしいな、と、ふと浮かび上がるときに読んだら素敵なんじゃないかな、とおすすめする本です。
     それは、連れていってくれる誰かの手のぬくもりがほしいからでもなく、旅行ガイドで観たことのない土地を知りたいからでもなく、日常からただちょっと離れたいだけ、なとき。
     東京の広告代理店を辞め、故郷に戻った青年・カザマが、心の中でドライに描写する、雪深い寂れたダンスホールが自慢の温泉宿の人々と日常。宿の従業員としてカザマが毎朝作る温泉卵。硫黄のにおいを纏わせながら、カザマはアナーキーにその日常を淡々と繰り返す。
     そこに宿泊客として、過去と未来がたびたび混濁する老嬢・ミツコがやってきます。
     ミツコのこともドライに観ているはずのカザマが、ミツコから目が離せなくなる。そして二夜に渡るダンスパーティー。2泊3日くらいの話。
     ミツコが小さく語るブエノスアイレスに、カザマの感情が揺り起こされ、タンゴとして昇華されていく姿は、体が日常にあっても、素敵な場所にいなくても、意識が旅できることを教えてくれる。
     ロマンティックな台詞、華やかな舞台は、この作品では、過ぎ去った記憶、寂れた日常に変換されまくっているのだけれども、読みすすむうちに、自分のなかの日常が、ロマンティックめいた感情や華やいだものに、ひととき、還元されていく作品です。

     私がこの本に出会ったのは、社交ダンスをしていた母のすすめ。
     当時は寂れた温泉宿や、ときにグロテスクな描写に、若い自分が反応してアタマがぐるぐるし、さらに併録の『屋上』の壊れた意識にこころの片隅をさざめかせられ、味わう余裕がまったくなかった。すすめた母も、萩原朔太郎の娘でダンスを愛した萩原葉子さんのエッセイなども愛読していたので、この作品もそんな文脈だろうと思い手に取ったけれど、アナーキーな筆致に予想を裏切られたようだった。けれど、私にすすめたのは、読む前に予想したのとは違っていたけれど面白かったわよ、と。
     ぐるぐるさせられはしたけれど、どこか清々しい読後感だったことは覚えています。
     時は経ち、私の『ブエノスアイレス午前零時』は幾度となく処分の機会にさらされたけれど、これを書くにあたって真っ先に思い浮かんだタイトルだった。本も探してみたら、叙情を排したかのような幾何学模様の美しい装丁の単行本とともに、本棚の奥にあった。
     1998年、第119回芥川賞受賞作品。格差社会や下流老人という言葉もまだ一般的ではなく、リスペクトという言葉も外国語のままだった当時にこの作品が生まれたのは、キャッチーだからでもアンチテーゼがあったからでもない、ピュアな混濁から生まれたと思っている。
     ちょっとどこかにいきたいな。自分の中のカザマが硫黄のにおいを漂わせてきたら、『ブエノスアイレス午前零時』を読んでほしい。記憶の中のきらめきを、ミツコがそっとえぐり出してくれるはず。
    投稿日:2016年05月27日
  • 見えないが確かに感じられる気配
    《「髪の毛三本動かす」ほどの風が吹けば、加賀への船は出せない、といわれている》
     ラフカディオ・ハーンの代表作『日本の面影』に収められた珠玉の随筆「子供たちの死霊の岩屋で」はこんなふうに始まる。
     松江に暮らしていたハーンはある日、日本海の加賀浦に突き出した岬にある、潜戸(くけど)という海蝕洞窟の話を聞くが、風にはばまれ何か月も待たされている。ようやく風がやみ、松江から山越えの難路を行き、小さな漁村から岬めぐりの船に乗ることができた。待ちに待ったこの一日の出来事を、目の前にくりひろげられる光景と、土地の人が語りおろす伝説が響き合う、神話的な文体で織り上げたのが本作だ。
     潜戸は、死んだ子供たちが寄り集まって来るといわれる霊場である。恐山を思わせる賽の河原は《奥の薄闇の中で、青白い石地蔵の顔が微笑んでいる。その前にも、その周り一面にも、灰色の形なきものたちがたくさん集まっている》と描かれる。灰色の形なきものとは暗がりで見る石塔婆、これを崩すと《子供たちの霊は泣いてしまうだろう》と案内人から教わる。ハーンはそれでも3つの塔を崩してしまい、償いに6つの塔を積み直す。
     かつてある雑誌で、ハーンの特集を組んだことがある。そのとき作者と同じ体験がしたくて、写真家、記者とともに潜戸へ渡った。ところがそこで恐るべき光景を見てしまった。縫いぐるみ、ランドセル、リコーダー、筆箱、セーター、お稽古バッグ……幼くして亡くなった子供たちが愛用した、華やかな色使いの奉納品が洞窟を埋め尽くしていたのだ。さらに翌朝、3人で朝食をとっていたら女性記者がぽつりと言った。「夜中に突然電気がついたのよ」。潜戸の風景も、その地で喚起された物語も、現代のほうがハーンの時代より力を増していた。
    『日本の面影』は、1890年(明治23)4月、ハーンが来日した日(「東洋の第一日目」)から松江を去る91年11月(「さようなら」)まで、わずか1年7か月の間に体験した、夢のような時間をかたちにした随筆集だ。
     ギリシア人の母とアイルランド人の父、ともに神話の国の血を受け継ぐハーンは、土地のにおいをかぎとる鋭い力があると思う。さまざまな土地に漂う〝見えないが確かに感じられる気配〟について、時に繊細に、時にずばりと描き出す。
     ハーンが『日本の面影』に書き残した霊場、神社、寺、祭り、そして風景にさえも、その地に長く蓄積されてきた人間の生々しい感情の余香が、今も残っているような気がしてならない。そのうちのいくつかは、潜戸のようにさらに熱を帯びていたりする。私は彼の著書を昔話ではなく、普遍の土地案内書として、追体験し続けている。
    投稿日:2016年05月27日
  • 作者の死後に書かれた奇跡の最新作
     漫画家を目指す若者にキャラクターの説明をするとき、いつも話すことがある。
     それは、優れたキャラクターの言いそうなこと、やりそうなことは、作者でない人間にも察しがつくということだ。例えばドラえもんは、いつだってどら焼きを食べている。しずちゃんは真昼から入浴していて、ジャイアンは嬉しいことがあると「おお心の友よ!」と叫ぶ。
     本作の主人公・リスベット・サランデルは、そういった意味において、お手本のようなキャラクターだ。154センチ42キロの拒食症の少年のような体躯、短く刈り上げた髪に、軟骨に空けられた幾つものピアス。ぴったりとしたパンクファッションの下の肌には、ドラゴンの刺青が大きく入れられている。食に興味がなく、めったに他人に心を開かず、ただし正義感はきわめて強い。特に高等な教育を受けたわけではないが、抜群の数学センスと、ハッキング能力を持つ。
    「ミレニアム」はシリーズ小説だ。第一作『ドラゴンタトゥーの女』がスウェーデンに次ぎ、ハリウッドでも映画化されたのは記憶に新しい。その四作目にしてシリーズ最新作が本作『蜘蛛の巣を払う女』だ。なぜ一作目でも二作目でもなく、私がここで四作目を推したのか。それは、ただ本作が最新作だからという理由ではない。
     すでに世界中のリスベット・ファンにはよく知られているように、本作は、作家スティーグ・ラーソンの死後に書かれた作品なのである。
     新シリーズの著者・ダヴィド・ラーゲルクランツは、やはりスウェーデンのジャーナリスト出身の小説家だ。
     一部の熱狂的なファンからは、批判の声もあったそうだ。発表直前には、ラーゲルクランツ自身が精神的に非常に追い詰められたらしい。しかし、本作の発売後、批判を上回る大きさの声で、「第三部までの文体とキャラクターが研究し尽くされている」との賞賛が届けられた。スウェーデン本国では、発売からわずか1週間で20万部を売り上げる快挙を成し遂げたことが、多くの読者の支持を得た何よりの証拠であろう。さらには、第二部、第三部より先に、この第四部の映画化がハリウッドで進められることになったという。
     作家・ラーゲルクランツの才能、そして並外れた努力が、優れた本作を生み出したことはいうまでもない。一方で、リスベットという、世にも魅力的な主人公のキャラクターが、ラーソンの死を乗り越えたのもまた真実である。キャラが作者を超えてしまう瞬間。エンターテインメント業界に身を置く人間にとって、ただ羨望しか感じないひとときだ。
     上下巻というと、構えてしまう方も多いかもしれない。けれど、ぜひ手にとって頂きたい。20世紀最高のキャラクターが才能ある作家と奇跡的な出会いの末、見事な生還を遂げた本作は、読んだ者を損させない究極の一作だ。
    投稿日:2016年05月27日
  • もう一人の漱石の「狂気」
     ある書店さんから「編集者が薦める本」というお題で、POP(店頭によく掲げられている葉書大の宣伝文句等々を綴ったもの)を書くよう依頼されたことがあった。
     そのとき挙げた本が、夏目漱石の「行人」で、そこに大きく「棺桶本」という言葉を用いたことを覚えている。なぜ、こんなことを書いたのかというと、墓場まで持っていきたいほど感銘を受けた本であることもさることながら、もう、死ぬまで再読するのを避けようという意思表示も含まれていた。
     若い、とくに十代の頃、熱病に罹ったように読んだ一連の本にディープ・インパクトを受けてしまうことは多々あることだ。ところが、そうした本に限って、折節に再読してみると、いろんな意味で不可思議な思いに囚われることも少なくないように思う。
     それが、本と読み手の関係性のおもしろいところではある。読んだ時期によって、また、一日のなかの短いレンジでも、「読み」の状況は可変する。そして、本のほうも、読み手の知識や意識の状態に対応して、様々な相貌を表す。
     それはわかるのだが、いや、わかるからこそ、ものすごいものを読んだという、ただそれだけの「記憶」をそっと封印しておきたい気にもなったりする。決して、再読したらつまらない本だった・・・・・・と思うような状況を回避したいと言っている訳ではない。ただ、なんだか訳のわからないくらい感銘を受けた「記憶」が穢されてしまうことが残念に思えてならないのだ。
    「行人」に対して、「棺桶本」というフレーズが思い浮かんだのはそうした理由からで、十代の頃、一度読んだきり、あえて再読を自分に禁じている。物語の最終章に出てくる、一郎という登場人物を克明にレポートする彼の友人Hからの長い長い手紙。ひとがマージナルな、ギリギリの状態に追い詰められたとき、精神に支障を来すか、宗教に救いを求めるか、自らの命を絶つしかない、といった言説(小説の書き手は、それ以外の第四の道として、小説を書いているようにも思う)。漱石という作家が、教科書レベルで漠然と理解していた「三四郎」や「坊っちゃん」「猫」などを書いている国民的ベストセラー作家の顔とは異なる、ある種の狂気を孕んだ人だったという衝撃。うまく言い表せないが、そんないろんな「読後の思い」が渾然となって、いまも残っている。
    投稿日:2016年05月27日
  • 初出は昭和6年「オール読み物」創刊号
    「親分、てえへんだ!」
    「おう、どうした八!」
     このやり取りだけで「あ、銭形平次だ」と思い出す人も多いのでは?
     ドスを振り回す悪党相手に、十手をふるって大立ち回り。やにわに十手を口にくわえ、寛永通宝の投げ銭が敵の額にビシッと決まる。
     大川橋蔵主演のテレビドラマは大人気を博し、888回を数える長寿番組となった。その原作が野村胡堂の「銭形平次捕物控」。(ただしドラマ版と違って、必ずしも毎回投げ銭を使うわけではない)。こちらも昭和6年「オール読物」創刊号に第1話が発表されて以来、27年間に383話という長寿小説だ。
     現在、電子書籍でも青空文庫に140話ほどがあげられているのをはじめ、全集的なもの、傑作集等、異なる編集で数種のコンテンツが配信されていて、簡単に読むことができる。

     小説中の平次親分は、とにかく人情に厚い。どれくらい厚いかというと、情状酌量の余地があるような下手人(犯人)は、片っ端から見逃してしまう。5~6話に1回くらいは見逃しちゃってませんかね親分!それをまた上司にあたる与力の笹野新三郎が「お前の道楽にも困ったものだ」と苦笑いで許しちゃう。
     また平次親分は名探偵ホームズのような推理力と洞察力の持ち主だ。持ち出せるはずのない千両箱が消えた!苔の庭に残された謎の足跡が!連続殺人事件に見えたものが、実はそれぞれ別人の犯行だった!等々、舟木一夫が歌ったドラマの主題歌そのままに「かけてもつれた謎を解く」、難事件を次々と解決していく筋書きは、推理小説としても十分お腹いっぱいにしてくれる。

     本編を読み始めると、今の小説にはほとんど見られない丁寧語文体にちょっと戸惑うけれど、そんなのはすぐ慣れる。セリフの江戸っ子調と文章のですます調が織りなすテンポに、いつの間にかどっぷり。平次と子分の八五郎の掛け合いをちょっと抜き書きしてみよう。
    『「親分、近頃つくづく考えたんだが―」
    ガラッ八の八五郎は柄にもない感慨無量な声を出すのでした。
    「何を考えやがったんだ、つくづくなんて面(つら)じゃねえぜ」
     銭形平次は初夏の日溜りを避けて、好きな植木の若芽をいつくしみながら、いつもの調子で相手になっております。』(第77話冒頭より文字遣い等若干変更して引用)
     このように毎回ノリノリである。ちなみに平次親分の趣味は園芸だ。
     記念すべき小説第1話「金色の処女」は、最近のドラマによくある第1話拡大版を意識したかのようなスケールの大きい異色作だ。
     将軍家光暗殺計画というネタもさることながら、後に平次の妻となるお静は捕まって身体に金箔を貼られ、儀式の生贄にされかけるわ、悪事が露見した犯人たちは建物ごと派手に自爆するわと、これでもかの大サービス!投げ銭までも、この回だけは銭でなく小判を投げている。

     時代劇研究家のペリー荻野さんが、大川橋蔵版、風間杜夫版、北大路欣也版、村上弘明版の各銭形平次について、投げ銭を後から拾っているかどうかを考察していて興味深いが、さて、小説第1話で投げた小判は回収できたのか気になるところ。
     他にも、触ると暖かいお地蔵様の謎を解く「人肌地蔵」、殺されたはずの男が舞い戻って自分の仇を探す「地獄から来た男」、盗賊団の暗号を解き、一網打尽にする「平次屠蘇機嫌」等々、おすすめの話はたくさんあるけれど、キリがないのでこのへんで。

     清濁併せ呑む変化球ヒーローが多い昨今、平次親分のような直球の時代劇ヒーローで読後感すっきり!全話でも手軽に持ち歩ける電子書籍で体験してみてはいかが?
    投稿日:2016年05月27日
  • 昨夜のカレー、明日のパン
    以前より、木皿泉さんの作品をコミカライズさせていただきたいと思っていまし
    た。木皿さんの放つ、一生大事に抱きしめていたくなるような、素敵な台詞、モ
    ノローグ、言葉の一つ一つが、漫画だとシーンと共に吹き出しとして置くことが
    できるし、何度でも好きな時に読み返すことができると思ったからです。そし
    て、もしコミカライズするならば、絶対に渡辺ペコさんに描いていただきたいと
    思っていました。木皿作品と渡辺作品の空気感や、日常の切り取り方には共通す
    る部分があると思っていましたし、きっと渡辺さんなら、ただ原作をそのまま漫
    画にするだけでなく、渡辺作品として昇華して、新鮮な空気感で描いてくださる
    と思ったからです。
    その希望が叶って今感無量です。こんなに素敵なコラボレーションはなかなかな
    いと思います。原作を読んだ方も読んでいない方もきっと満足していただけると
    思っています。
    投稿日:2016年02月24日
  • 麦の海に沈む果実
     女の子にモテたい! そう思った高校生の私は、ミステリアス系男子になることを決意しました。自分のことを必要以上に話さず、尋ねられても「秘密♪」(音符重要)と濁してみたり、むだに微笑みとウィンク♥(ハート重要)を使ってみたり……(思い返すとすさまじく気持ち悪い)。ミステリアス作戦が成功したかはさておき、当時の私にとって「モテたい」の行き着く先はなぜか「ミステリアス」だったのです。

     そんな私が、ミステリアスな物語である『麦の海に沈む果実』にのめり込んだのは当然すぎるほど当然のことでした。社会から隔絶された学園を舞台に起こる殺人事件。さまざまなバックグラウンドを持つ生徒たち。降霊会を行う女装家の校長先生。図書室から消えたいわくつきの本。そのどれもが私をわくわくさせ、不思議な世界へと連れて行ってくれたのです。わぉ、ミステリアス!

     なかでも、登場人物たちの謎めいた雰囲気は私を惹きつけてやみませんでした。作中において学園の生徒は三種類に分類されます。将来有望で音楽やスポーツを得意とし学園の指導力を求めて入学した「養成所」組、富裕層が自分の子供に上品さを身につけさせたくて入学させた「ゆりかご」組、そして望まれない子として生まれ学園という監獄に捨てられた「墓場」組。それぞれが違う何かを抱える彼らは、お互いに干渉しすぎることなく絶妙な距離感で接します。家系がわからないようにファーストネームで呼び合い、出自は尋ねず、まるで茶番のような友達関係を築く姿に私は惹かれたのです。

     一見すると滑稽かもしれませんが、よく考えてみてください。自分の抱えている闇を見せずに笑顔でいる、という以上の強さがあるでしょうか。人間、誰しも何かを抱えて生きています。家庭のいざこざだったり、うまくいかない友人関係だったり、将来への漠然とした不満だったり、ほかにもたくさん。それらを周りに感じさせずに生きていくことがどれだけ大変なことか。作中の彼らはそれを平然と実行していました。

     ミステリアスとはつまり、強さではないかと思うのです。自分の弱さを見せず誰を頼ることもなく、いつだって笑顔を振りまける人間はとてつもなく強い人間です。『麦の海に沈む果実』を読み終えてミステリアスに憧れる理由がようやくわかりました。ミステリアスの奥に潜む強さに憧れていたのです。私がとったミステリアス作戦のなんと馬鹿ばかしいことでしょう。本当の強さは張りぼてのミステリアスでは表現できないのですから。

     これからの人生、つらいこともたくさんあると思います。そんなときにミステリアスに振る舞って、強くいられる人でありたいです。そうすれば、冒頭の目標もおのずと達成できるかもしれません。

    (2015.08.01)
    投稿日:2016年02月24日
  • 三国志
     読書家ではない。沢山の本を読んだか、と言われるとあまり自信はなく、過去「読書が趣味です」と表明したこともない。そんな自分が「この1冊!」として書物を紹介するのはすごく恥ずかしいのだが、自分の生き方に影響を与えた本を敢えて1冊挙げるならば、間違いなく『吉川英治三国志』だろうと思う。そしてそれは間違いなく今の仕事に就く理由の一つになっている。
     この本は8巻あるのだが、なぜか通して8回読んだ記憶がある。好きな作家、好きな本は山ほどあるが、これだけ読んだ本というのはあまり記憶がない。先日実家でその本を探したのだが、本が背から壊れてしまっていたらしく、買いなおしたピカピカした装丁のものが並べられていた。当時のものは版画っぽい表紙イラストが付いていたもので(間違えていたらごめんなさい)3歳上の兄が読んだものをすぐに奪って食事の時も横に置いていた。
     最初に読んだのは確か中学2年生の時で、読書感想文を提出したら当時の担任の先生が、「五味くんはこういう本が好きなの?」と何度も聞かれたので覚えている。授業中も読んでいてよく注意された。
     世の中に自称他称問わず「三国志好き」「三国志オタク」はあふれていて、自分は別にそういう種類の人間ではなく、大人になってから逆に「へー、三国志って人気あるんだ?」と思ったくらいで、今となってはメインのキャラクターの名前、大まかなストーリーくらいしかすぐには思い出せないが、改めて振り返ってみると自分の生き方に一番影響を与えた本という確信がなぜかある。
     それは「信義」という言葉が今も自分の中でとても強い意味を持つ特別なものだから、なのかもしれないし、未だに「強くあること」「曲げないこと」というという言葉に惹かれ続ける理由となっているのかもしれないが、残念ながらもはや分からない。

     中学2年生の夏休みの最後の日、食べた夕食は思い出せない。

    (2015.04.01)
    投稿日:2016年02月24日
  • わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か
     仕事上の悩みやトラブルがあると、ふつうは上司に相談するとか、意見を聞きに行きますよね。でも、気の弱い私の場合、「そんなことでいちいち来るな!」なんて追い返されたりすると、その後、なかなか相談に行けなくなってしまうたちなんです。
     とはいえ、自分だけではいよいよ解決できなくなり、なんとか覚悟を決めて再び上司のもとを訪ねると、「そんな大事なこと、なんでもっと早く相談に来なかったんだ!」ってこっぴどく叱られるという──こんな経験、ありませんか?
    「いちいち相談に来るな」と言っていたはずの上司が、「なんで相談に来なかったんだ」と怒り出す理不尽……。著者の平田オリザさんによりますと、こうした二つの矛盾したコマンドが強制されている状態を心理学用語で「ダブルバインド(二重拘束)」といい、そのような環境に長く置かれると、人は「操られ感」や「自分が自分でない感覚」を感じるようになるそうです。

     企業による新卒採用の現場も、完全に「ダブルバインド」の状態に陥っていると、平田さんは指摘しています。多くの日本企業は、就活生に対し、「異なる文化や価値観を持った人にもきちんと自分の主張を伝え、説得し、そして妥協点を見出せる」異文化理解能力を期待する一方、「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」という同調圧力も、同時に要求しているからです。平田さんはいいます。
    「何より始末に悪いのは、ふたつのコミュニケーション能力を求めている企業側が、その矛盾に気がついていない点です」

     ダブルバインドは、何も企業内に限られた話ではありません。
     わが子に対して「身体だけ丈夫ならいい」と言っておきながら、差し出された通信簿を見て、つい「なんだ、この成績は!?」と怒ってしまったことはありませんか。妻から「夕飯、何がいい?」と聞かれ、「何でもいい」と答えておきながら、(帰宅後、お昼に外で食べたものと同じ料理が出てきて)つい不機嫌になってしまったこととか……。家庭内でもダブルバインドは十分起こりうるわけで、親と子どもだけでなく、夫と妻も、あるいは冒頭の理不尽エピソードでいえば上司も部下も、これからは「わかりあう」「話が通じる」ことに重点を置くのではなく、そもそも「わかりあえない」「話が通じない」ことを前提に、コミュニケーションについて考えるべきではないか。なによりも、こうした「ダブルバインド」の状況が社会全体を覆っているがために、いまの日本の内向きな雰囲気やイヤ~な閉塞感につながっているのではないか―。劇作家として、教育者として、平田さんがかねて抱いていた疑問をもとに、本書は書き進められています。

     そんな中、生来、口数が少なく、口べたなことをコンプレックスとして感じ続け、ざっくばらんな酒席以外の場では「コミュ障(コミュニケーション障害)」を自覚している私にとって、ずいぶんと気持ちが楽になった箇所が本書にはありましたので、以下、ご紹介いたします。

    〈日本では、コミュニケーション能力を先天的で決定的な個人の資質、あるいは本人の努力など、人格にかかわる深刻なものと捉える傾向があり、それが問題を無用に複雑化していると私は感じている。世間でコミュニケーション能力と呼ばれるものの大半は、スキルやマナーの問題と捉えて解決できる。だとすればそれは、教育可能な事柄となる。そう考えていけば、「理科の苦手な子」「音楽の苦手な子」と同じレベルで、「コミュニケーションの苦手な子」という捉え方もできるはずだ〉

     要するに、理科の授業が多少苦手だからといって、その子の人格に問題があるとは誰も思わないように、もしくは、音楽が多少苦手な子なら、きちんとした指導を受ければカスタネットをリズムよく叩け、縦笛もちゃんと吹けるようになるように、コミュニケーション教育もまた、同様だというのです。

    〈口べたな子どもが、人格に問題があるわけでもない。だから、そういう子どもは、あと少しだけ、はっきりとモノが言えるようにしてあげればいい。コミュニケーション教育に、過度な期待をしてはならない。その程度のものだ。その程度のものであることが重要だ〉

     いかがでしょう? 40歳前の私がいまさら教育を受け直すことはかないませんが、少なくとも、「難しいもの」「自分には無理」と捉えていたコミュニケーション能力に対する懼れが、うすまるのではないでしょうか。

     最後に、念のため申し添えますと、この『わかりあえないことから』を読んでも、ロジカル・シンキングやクリティカル・シンキングといったものは身につきませんし、グローバル・コミュニケーションスキルを磨くこともできません。

     しかし、従来のいわゆる自己啓発本とは異なる、コミュニケーションの本質を根本から問い直した本書は、「いま、本当に必要なこと」が知りえる必読の一冊です。

    (2015.03.01)
    投稿日:2016年02月24日
  • 織田信長
     4歳の夏だった、と思う。水商売の女と金目の物を持ち逃げした叔父を、母が見つけ出し、住処に乗り込んだ日のことだ。愛の巣と言うにはあまりに侘しい、西陽しか射さない何にも無い擦り切れた畳の小さなアパートだった。相手の女性は勤めに出たのか、もう清算されていたのか不在だった。母(叔父からすると実の姉)から、くどくど説教をされていた叔父は、話題をそらそうとしたのか、照れ隠しなのか、「誠、おまえ誕生日迎えていたな。(私は7月生まれ)プレゼントだ!」と言って、1冊いや一塊の本を差し出した。それが、「講談社刊 山岡荘八著 織田信長 全3巻」だった。

     四六判くらいで化粧ケース入りの、上・中・下の3巻。ケースには、暗い朱と灰色を基調として、表1側は“炎の中、仁王立ちの不動明王”のイメージなのであろうか、血まみれの武将が兜の下から、目だけをぎらぎらさせて正面に向いて大刀を構えている姿が描かれていた(ように見えた)。どなたの装画か記憶は無い(残念なことだ)が、装幀は水野石文氏の手によるものだったと思う。奥付には著者「山荘」の検印が点かれていた。とにかく怖かった! 横でヒステリックに実弟を叱っている母の口調より、幼児の私にとって、プレゼントされた本のほうがよっぽど怖かった。記憶があるほどなのだから。

     もちろん4歳の私が読めるはずも無い。その「織田信長 全3巻」は、蔵書なんかほとんどまったく無い我が家の本棚の一角に鎮座することになった。型紙の付いた洋裁の本、小鳥や金魚の買い方、川上宗薫先生の小説などに囲まれ異彩を放つさまは、まさに“本棚の天魔王”のような存在だった。たまに怖いもの見たさに、本棚から取り出してケースだけを見ることはあったが、幼時の自分には近寄りがたい禁書!であった。悪い事をすると、カバーの武将に連れ去られる!?なんて思いながら過ごした。その後、我が家は数度も転居することになるのだが、紛失することも処分されることもなかった。さすがは“天魔王”である。

     実際に読んだのは中学3年生のとき。とても熱中して読んだ。けっこうな長編のはずだが、1~2週間で一気に読了した。学校の休み時間に読み耽っているときに、割と暴力的な親友が「あ~そぼ!」と首を絞めてきたのを、読み続けたいが故に「うるせ~な!」の一言で、胸座をつかんで放り投げた記憶だけがある。それだけ夢中になるほど面白かった、ということだ。しかし、内容はなんにも覚えていない!

     読み終わって以来、“本棚の天魔王”は自分により近い存在になったように勝手に感じて、“本棚の守護神”へと変わった。高校・大学と進学するにつれ、自分自身の蔵書も増え、もっと立派な造本や装幀の書物もあったが、やはり本棚の守護神は「講談社刊 山岡荘八 織田信長 全3巻」に変わりは無かった。大学4年、講談社に入社内定をいただいた際には、叔父と「信長」には真っ先に報告させていただいたことは言うまでもない。それに数ある出版社の中で、講談社に勤めたい、と考えるようになったのも「信長」の縁に違いない。

     今、こうして入社30年を越えてなんとか勤めてこれたのも、叔父にもらった「織田信長 全3巻」のおかげなのだろう、と思う。だから、なんといっても私にとっての「この1冊は「山岡荘八 織田信長」なのである。定年前になんとしても、もう一度読まねばならぬ。今は文庫版しかないが、それはそれでしょうがないし、新しい発見があるかもしれない。

     叔父には本当にいろんなことを教わった。書物・学問・スポーツだけでなく、酒・競馬といった様々な遊びごとも。海外勤務でほとんど不在だった父親代わりでもあり、ろくでもないことを教えてくれる親戚の一人でもあり。大酒飲みで、角刈りでにらむ目つきは怖く、すぐに手が出る男だったが、読書家で、博識で、マメで、よく歩いた。私の人格形成に非常に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。15年ほど前に亡くなったが、棺には感謝とあの世でも護ってもらえるよう想いをこめて「私のこの1冊」を入れさせていただいた。装幀も汚れ、剥げ、ケースも一部紛失、本文も背から取れかけていたが。

     そういえば、物心ついて初めての出会いがそんなであったから、叔父からは女は教わっていなかった。私がまだ独身なのはそのせいか。

    (2015.02.01)
    投稿日:2016年02月24日
  • 新装版 墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便
    大学3年の夏、帰省先の実家のリビング。夜7時に何気なくつけたテレビの向こうにその一報を読み上げるアナウンサーがいた。「羽田発伊丹行のJAL123便が消息を絶った」と。その後、同機が群馬県の御巣鷹山の尾根に墜落していたことが判明、乗員乗客524名がほぼ絶望と報じられたが、翌朝からの捜索で航空機史上最多の520名の犠牲者を出しながらも奇跡的に生存者が4名も帰還したことでニュース性が高い事故だった。そして、それからの報道によって忘れえない事故と記憶することになった。

    当時のマスコミは、事故発生時から先を争って現場取材に赴き、その凄惨さを修正なしで晒し続けた。事故原因の追究、矛先が曲がった状態で追及される責任者探しなど、その当時の報道内容や取材方法については、商業主義最優先の報道の在り方も含めてメディアにとって、いろんな意味で教訓を残した“墜落”事故だった。

    本書は、この事故の身元確認の責任者であった群馬県の刑事官が、犠牲者520名の身元確認が終了するまでの127日間を綴ったノンフィクション作品です。私は文庫化された後、事故から20年近く経って邂逅した作品でした。

    事故発生から、修羅場の中で行われた身元確認作業、そして合同荼毘までを時系列に映像的な状況説明とともに情緒的にもならずに淡々と書き上げている。それは著者の職業的な経験から得た術なのかもしれないが、文章に無駄と遠回しな言い回しもないその表現が、結果としてリアリティを持つものだと感心した。これには、担当編集者の存在も大きく関与したことだろうと推測できる。

    「墜落遺体」。このタイトルにある航空機事故での遺体の損壊度は、想像する以上に悲惨である。そのほとんどは、挫滅、離断したもので、なかには墜落の衝撃で三つ目になった遺体もあったとある。それは何百Gの衝撃力で頭部の中に他人の頭部がめり込んだ結果だそうだ。また泥や油にまみれたもの、ジェット燃料の炎に晒され炭化したものも多かったとある。これらの記述については、本書で確認いただきたい。

    このような無慈悲なまでの遺体の惨状を記しながらも、遺体をその肉親、家族に“帰す”ために、心身ともに極限まで酷使しつつ、その一念で作業に従事した数多くの人たちを描きつくしている。最後まで職責をまっとうした著者をはじめとした関係者たちの姿が尊く、またその根底にある日本人の宗教観、仏教思想を改めて認識することになる。

    急峻で酸鼻極める墜落現場にとどまり続け、遺体回収に従事する自衛隊。原形をとどめない遺体を検屍のために清拭し、親族に引き渡す前に生前の面影を宿すことを願いつつ遺体の頬に自身のファンデーションを塗る日本赤十字社の看護婦(当時)、看護学生たち。検屍作業を昼夜問わず続ける警察官。身元確認作業を続ける医師、歯科医。そして加害者としての立場で遺族の世話係のために派遣されてきた日本航空の社員たち。著者が修羅場の中で、目撃した遺された人たちが背負った深い悲しみ、後悔、怒り、絶望に付き添うことを余儀なくされた多くの人々の善意が胸を熱くする。

    2011.3.11の震災の時もそうだが、人は平和な日常の中では認識することはないが、このような事故、事件によってしか日々の有難みを認識できなくなっているような気がする。

    (2014.08.15)
    投稿日:2016年02月24日
  • 成功する男のファッションの秘訣60 9割の人が間違ったスーツを着ている
    入社して22年も経つといろんな人にお世話になる反面、一度も話すこともないままの方もいる。

    この本の担当編集で出版部長でもある彼女(すみません、先輩にむかって…)とは、編集者と営業という立場で、お互い3つの編集部、3つの営業部署に異動を繰り返しつつその度に、お仕事をさせていただく不思議な縁がある。その上、一時期は護国寺の駅のホームで2~3日に一度は偶然逢ったりするものだから、生まれ変わってどちらかが男性だったら結婚する約束なんかをしてみたりした。

    そしてその後、講談社が新刊全点電子化を目指し始めた2012年に、お料理、美容、ファッションなどの実用書を出版している彼女の出版部の電子書籍営業担当となった。

    電子書籍化の許諾を、著者お一人ずつにとっていただき配信点数は徐々に増やしている中、外資の大手電子書店が日本でオープンラッシュを迎え、同じ部署の仲間が担当する出版部からは、小説や新書などで電子のヒット作がいくつか出始めた。けれど、なかなか彼女の部署の作品が講談社電子書籍の売り上げ上位に入らない。黙々と許諾をとっていただいているにも関わらず…。

    ダイエット本やお料理本の特集を提案したり、なんだかんだやってはみるが芳しい結果が出ないまま1年が経ってしまった。

    そんな頃、とある電子書店さんが1冊しか紹介しないコーナーを作ったとプレゼンにいらした。これは!と彼女のところに飛んでいき、電子書籍で売れそうな作品選びを一緒にしていただいた。男性向けの作品で、電子で買いたい!という読者がいる作品。

    女性は電子書籍でティーンズラブやボーイズラブものや官能小説をよく買っているけれど、それに比べてお料理などの見目麗しい本は紙の方が圧倒的に売れる。女性は、“お店で買う、本棚におく、なんなら捨てるときにも、他人に見られるのが恥ずかしい”作品を電子で買っている。

    その点、男性は普通の小説やビジネス書など、書店にいく暇がなかったり、持ち歩くのに重かったりという理由で電子書籍を購入する傾向がある。でも、男性だって、恥ずかしいから電子で買うがあるに違いない!とこの作品を選んだ。

    紙でも重版がかかっている作品ではあるけれど、まだまだお洒落に興味があっても本を買うのは恥ずかしいなと、電子だったら買ってくれる読者がいるはずと。

    結果、デイリーではあるものの、その電子書店さんで扱っている約10万点の作品での総合ランキング2位を獲得。その月の講談社全電子書籍での売り上げでも2位を獲得することが出来、やっと、彼女といっしょに「すごいね!」と喜べた。

    それからまた時間はあっという間に経ち、そろそろ1年。次の企画を練らなければと焦る日々。

    (2014.08.15)
    投稿日:2016年02月24日
  • ザ・流行作家
     私には、一度も小説を書いたことがないのに、小説家志望と自称していた時期がありました。アイデアのメモは一生懸命に作るのに、いざメモが完成してしまうと、もうそれで満足してしまって、原稿用紙にもパソコンにも向かわずに、また次の小説のアイデアを練る。そんなことを繰り返していました。この次には、もっと何かすごいアイデアを思いついて、歴史に名を残すような作品が作れるのではないか。そうすれば、自分が生きた証のようなものを残せるかもしれない。そんな中学生のような自意識過剰にとりつかれていたのです。

     この本に登場する流行作家、川上宗薫と笹沢佐保は、驚異的なスピードと仕事量で、娯楽小説の全盛期を担った二人です。絶頂期は月産千枚。パソコンもワープロも無い時代に、手書きと口述筆記でこれだけの作品を生み出したということには、驚きを禁じえません。私は、二人の小説を好んで読んだ世代ではありません。名前を知っている程度だったので、この本を読んで初めて、二人がどのような作家だったか知ったのです。笹沢佐保など、あの「木枯し紋次郎」原作者だということすら知りませんでした。

     そして、私は何よりもそこにグッとくるのです。二人は、現在ではほとんど知る人ぞ知る作家になりつつあります。二人の主戦場は主に小説雑誌。つまり、二人が活躍していた当時を知らなければ、二人の名前も知る術も無いのです。山口瞳は「流行作家は書かなければいけない。書き続けなければいけない」と語りました。命尽きて、書き続けることもできなくなった二人は、過去の作家になってしまったのです。

     私はむしろ、その生きざまにダンディズムを感じます。生きている間は命を削って書きつづけ、亡くなった後は静かにその名は表舞台から去って行く。これこそが流行作家の格好良さでしょう。

     結局のところ、私は今、小説家になることはなく、出版社に入ることになりました。歴史に名を残すようなことはできないかもしれませんが、一つのことを死に物狂いでやれば、格好良く消え去ることはできるはず。そんなことを、この本に教えてもらったような気がしています。

    (2014.08.01)
    投稿日:2016年02月24日
  • 狂骨の夢
     もう絶対絶対、私は榎木津さんと結婚するんだと思っていました。

     高校1年生の時でしょうか。よく本の貸し借りをする友人から「これ面白いよ!」と手渡されたのは、やけに分厚い1冊でした。タイトルは『姑獲鳥の夏』。恐ろしげな表紙と中身の想像できないタイトルにびくびくしつつ、ページを開くと、あとはもう一瞬です。な、な、なんて面白いものを貸してくれたの!!

     古書店店主で陰陽師(!)の「京極堂」こと中禅寺秋彦、その友人の小説家・関口巽と、かつてふたりの先輩だった「薔薇十字探偵社」の私立探偵・榎木津礼二郎……。きらきらしい魅力的な登場人物と、「憑物落し」で奇妙な事件を解決していくストーリーに夢中になりました。

    「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」

     とうとうと流れていく京極堂の語りに読み入り、関口君の優しさに感じ入って、美男! 富豪! な榎木津さんのハイなおしゃべりに、もう夢中。次は? 次の話は?? と、必死に読み進めたのを覚えています。映画も観たなぁ……、京極堂役の堤真一さん、かっこよかったなぁ……。

     衝撃的な出会いをした「百鬼夜行シリーズ」、その3作目が『狂骨の夢』です。関口君の友人・ひょうひょうとし過ぎて「瓢箪鯰」と呼ばれている伊佐間一成が、道に迷い、女に助けられるところから始まります。耳にまとわりつく潮騒、殺人を告白する妖しげな美女、生き返る死体……。段々と明らかになり繋がっていく事件のキーワードは「髑髏」。ウッ、怖い、ウッ、でも面白い、アァ、でも「怖い」……、と悶えながら読みました。

    『狂骨の夢』には、「邪法として貶められた」仏教の一流派が出てきます。それまであまり関心のなかった宗教というものが、ぐっと気になりだしたのはこの本を読んでから。人の心を動かす宗教とは、一生をかけて学ぶ教義とはいったいどんなものだろう、と興味が高まるにつれて、大学の学科も自然と決まっていきました。

     東洋の宗教について勉強した大学時代はとても楽しかったので、『狂骨の夢』には大感謝です。ただ、そんな学科に行っても、勉強をしても、京極堂や関口君、榎木津さんのような人には出会えませんでしたが……(おかしいなぁ)。

     シリーズを読んで、「不思議」と言ってしまう前に、物ごとの裏にある人の気持ちや事実はないか探してみよう、と思うことができました。そして自信あふれる男性への憧れもまた、手に入れてしまいました。大好きなのは榎木津さんですが、出てくる男性それぞれがとってもかっこいいのです。

    「あなたの人生を変えた本は?」ときかれたら、真っ先に挙げたい1冊です。

    (2014.07.15)
    投稿日:2016年02月24日
  • 凍りのくじら
    ♪~タラララララ タラララララ タラララララ タラララ

     幼いころの私は毎週金曜日午後7時に流れるこのメロディを心待ちにしていました。希望あふれる軽快なメロディとともに、目の前に大好きな「ドラえもん」が現れるのですから。

     ドラえもんは物心がついたころから現在にいたるまで、ずっと変わらずに大好きな存在です。丸みを帯びたフォルムに味わいのあるしゃがれた声(大山のぶ代さん世代です)、そして母親のような包容力に少年っぽいどじでおちゃめな面も持ち合わせていて……ドラえもんの魅力は挙げきれません。クリスマスが来るたび、サンタクロースに「ドラちゃんがほしい!」と頼む幼い私に、きっと両親は手を焼いていたと思います。でも実のところ、いい大人になった今でもサンタクロースに頼みたいくらいに切実な願いだったのですが。

     日常のあらゆる場面でこのひみつ道具があったらなぁと夢想してしまうのは、おそらくドラえもん好きのあるあるネタだと思います。遅刻しそうなときには「どこでもドア」がほしいなぁ、好きな人に告白するときには「ムードもりあげ楽団」でロマンチックなムードをつくってほしいなぁ、出版社に勤める今では「本の味の素」(これをふりかけた本は、どんなものでもおもしろくなってしまうのです)を世界中の本にふりかけたいなぁ……なんて、ついつい妄想してしまうものです。『凍りのくじら』の主人公理帆子ちゃんも、私と同じようにあれこれとひみつ道具を欲しがっていました。

     どうやらドラえもんを題材にした作品があるらしいという情報を耳にして、すぐに手に取ったのが辻村深月さんの『凍りのくじら』でした。藤子・F・不二雄先生を敬愛し、ドラえもんをこよなく愛する女子高生・理帆子ちゃんが主人公で、各章のタイトルにはひみつ道具の名前がつけられています。ドラえもんファンの辻村深月さんにしか書けない、愛を感じる作品です。そして不思議なことに、この作品を読んでいると「ドラえもんが生きている!」という感覚があるのです。辻村深月さんの愛のパワーなのでしょうか? 空想でしかないはずのひみつ道具も現実味を帯びてきて、テレビ画面で動いているドラえもんを見ているよりもよっぽど近くに感じるのです。

     以前、友人が「毎年読みたくなる一冊がある」と言って、とっておきの本を紹介してくれたとき、とてもうらやましくなった覚えがあります。当時の私は、すてきな本や感動する本を挙げることはできても、何度も読みたくなる本を見つけられないでいたからです。でも私にとって『凍りのくじら』との出会いは特別なものとなりました。ドラえもんに会いに、これからまた何度も何度もこの作品を読むことになると思います。

    (2014.06.15)
    投稿日:2016年02月24日
  • 神聖ローマ帝国
     神聖ローマ帝国。

     こんな格好いい名前の国が実在して、しかも世界史の教科書に載っている。まるでゲームの世界みたいとなんだか嬉しくなった高校生のあのころをよく覚えています。しかし、いったいこの国はどんな存在だったのか。教科書を読んでも、よくわかりませんでした。

     なにが「神聖」で、なにが「ローマ」なのか。そもそも「神聖ローマ帝国って何なのだ?」という質問に、この本は答えてくれます。本書では、この謎の帝国が西暦962年に誕生してから、1648年のウェストファリア条約で「死亡」し、1806年にナポレオンによって「埋葬」されるまで、現在のドイツを中心としたその歴史をたどります。

     高校2年生のときにこの本を読んで、初めて歴史の面白さに目覚めたことを覚えています。人物に焦点があてられ、実在した皇帝や教皇たちが生き生きとしたキャラクターとして描かれており、まるでマンガを読んでいるときのようにわくわくしながら読み進めていったものでした。教科書を読んでも分からなかった、歴史上の人物たちの性格と生き様が伝わってきます。

     たとえば、中世ヨーロッパ白眉の名場面「カノッサの屈辱」の舞台裏。それは皇帝と教皇の血みどろの権力争いでした。あろうことか不倫スキャンダルの噂を流して教皇を攻撃する皇帝ハインリヒ4世。一方で、貧農の出から教皇まで成り上がった教皇グレゴリウス7世は、教会がヨーロッパを支配するためにあらゆる手を使って皇帝から権力を奪おうとします。ここに、かつて妹と弟をハインリヒ4世の父に殺され、皇帝への憎悪に燃えるトスカーナ伯領の女領主マチルデが加わり……。

     どろどろとした人間模様のなかで繰り広げられる権力闘争は、どういうわけかやたらと面白く感じられます。人間の欲望や感情が、剥きだしになって現れているからでしょうか。こんなやりとりが、約千年の神聖ローマ帝国の歴史のなかでは、何度も繰り返されています。「教皇による破門など糞食らえ!」と大言した皇帝フリードリヒ2世。皇帝権力の強大化を目指すも、部下の裏切りであっけなく夢破れた皇帝カール5世などなど。これが面白くないわけがありません。

     そんな泥沼の争いを続けた結果、この帝国はやがて力を失います。1648年のウェストファリア条約で帝国としての権限をほとんど失って名前だけの国家となり、実質的にはこれで「死亡」することになります。そしてついに1806年、ナポレオンの手によって完全に解体され、いわば「埋葬」されることになるのです。

     この本は高校生の私でも読めるくらい、非常に分かりやすく書かれています。結局、高校2年生のときだけで3回も読み返して、登場人物の名前はほとんどすべて覚えてしまいました。おかげで、世界史のテストではかなり楽をさせてもらったものでした。

     神聖ローマ帝国の歴史をたどるなかで、ヨーロッパ全体の歴史の流れも見えてきます。小難しいことは抜きにして楽しめるこの本。歴史は苦手……という人にこそ、ぜひ読んでほしい一冊です。

    (2014.06.15)
    投稿日:2016年02月24日
  • ルヴォワールシリーズ
     これは小説に限ったことではありませんが、シリーズものの魅力のひとつに、続刊をリアルタイムで追いかける楽しみというものがあります。

     本書『河原町ルヴォワール』は、作者の『丸太町ルヴォワール』『烏丸ルヴォワール』『今出川ルヴォワール』に続く「ルヴォワール」シリーズの第四作であり、シリーズ完結作でもあります。「丸太町」だとか「河原町」だとか、タイトルの前半部分は京都の通りの名称です(丸太町通、河原町通など)。

     シリーズの概要をざっと説明すると、現代の京都を舞台にした本格法廷ミステリ群像劇です(勝手にそう呼んでいます)。物語の中核にあるのは、平安時代より京都で連綿と続く「双龍会」という私設裁判制度。この地で起こった殺人の疑惑のある事件はこの「双龍会」にかけられ、そこで黄龍師(いわゆる検事役)と青龍師(いわゆる弁護士役)による推理合戦の供物となります。この「双龍会」の面白いところは、最終的に下される裁定が必ずしも真実である必要がないことです。虚構に虚構を上塗りし、その果てに聴衆をもっとも巧く騙せた者が裁判を制するという、コンゲーム的な側面も大きな魅力なのです。

     私がこのシリーズを初めて手に取ったのは高校三年生の時でした。ちょうど第一作『丸太町ルヴォワール』が発売された二〇〇九年のことです。模試を受けに京都を訪れた休日、京都タワーの三階の書店で手に取ったのが発端です。その夜、家に帰って、寝る前に軽く読書……とページをめくったのが最後、気づけば全てを読み終わっていて、東の空は橙色。寝ることも忘れて、ただただ無心にページをめくる幸福な時間でした。

     私は京都の大学に進みました。もちろん、「双龍会」は実在しませんでした。何故か、『丸太町ルヴォワール』のような美しい恋の物語も、自分の周辺には見当たりませんでした(本当に何故なのか)。

     大学二年の時、『烏丸ルヴォワール』が出ました。大人になりたい人たちが、大人になれない物語でした。だんだん大学の授業をサボるようになりました。夜を徹して遊ぶことが増えました。

     大学三年の時、『今出川ルヴォワール』が出ました。「双龍会」そっちのけで賭博バトルに興じる一級エンターテイメントでした。私は今まで遊んでばかりいて、考えないようにしていた単位の問題に直面して頭を抱えていました。

     そして、大学四年の時。

     気づけば私の大学生活も終わろうとしていました。来年度からは東京暮らしです。卒業式を間近に控えた大学四年の三月、『河原町ルヴォワール』が出ました。運命の分岐、人生の選択肢、未来の可能性、そういったテーマを宿した本格ミステリでした。そして、再びの恋の物語でもありました。卒業式の前日のこと、読み終わったのは朝でした。それは高校生の時と同じように、幸福な時間でした。

     私の大学生活は「ルヴォワール」シリーズとともにありました。その新刊を読める喜びや、その完結に立ち会えた感動が、記憶のなかに息づいています。大学生活の最後を分かち合った『河原町ルヴォワール』は、私にとってかけがえのない一冊です。

     もちろん、大学生活を共有していなくたって絶品の本シリーズ。「丸太町」から「河原町」にいたる四部作、ぜひぜひ、ご堪能ください。

    (2004.06.15)
    投稿日:2016年02月24日
  • 怪盗クイーンシリーズ
    「千裕」という名前の漢字は「有り余るほどの余裕を持つ」という意味だと思っています(実際に両親がそう思って付けたかは別ですが)。名前に恥じぬよう、常に余裕を持った人生を送りたいのですが、現実はそうとはいかないものです。ギリギリなんてかっこ悪い、と思ってはいるのですが、気が付くとギリギリ虫はいつも私の後ろに迫っています。自分自身がそんな調子なので、ゆとりがあって優雅に振る舞える人にとてもあこがれを持っています。

     私にとって、その「優雅な人」の代表が怪盗クイーンです。

     ぬけるように白い肌、灰色の瞳、銀色に近い白い髪、白い口紅で色を消した唇──中性的な出で立ちでギリシャ彫刻のような美貌を持つクイーンの職業は怪盗。ですが、クイーンが目指すのは、お宝目当ての盗みではなく、彼(彼女?)の美意識を満足させる獲物を華麗に頂戴することなのです。巨大飛行船でワインを飲みつつフランス語で会話をするクイーン。その生活は隅から隅まで「怪盗の美学」を満足させるものです。美意識の赴くままに悠々自適に、クイーンみたいに華麗に生きたい!来世生まれ変わるならクイーンのように、とりあえず現世では来世に向けてフランス語の勉強とワインの勉強でも……そんなことを日々考えて過ごしています。

     私のあこがれの先輩とも呼べる、素敵な怪盗に出会ったのは小学校の高学年のころ。「そろそろ子ども向けの本は卒業しなきゃなぁ。」と思っていた時期でした。しかし、「怪盗」という言葉にひかれて、ついこの本を手に取ったのでした。

     ページをめくるとはやみねかおる先生の「赤い夢」の世界が広がり、私はそのままそこの住人に。そして、「まだまだこんな面白い作品があるなら子どもの本も読み続けたい!」と考えを改めました。あまりに面白かったので父と母にも本を勧めると、二人とも夢中になって読んでくれました。児童書を楽しそうに読む大人を見ながら、本に年齢制限は存在しないことを実感しました。大人も子どもも、本の世界では関係ありません。

     久しぶりに読み返してみると、クイーンの仕事上のパートナーであるジョーカー君について「年齢は二十歳前後だろう」と書いてあることに気付きました。かっこいいお兄さんだと思っていたジョーカーが年下になってしまったなんて。時の流れを感じます。しかし、読み進めるとやはり、クイーンへのあこがれが再び心に湧きあがりました。まるで小学生の私に戻ったように。読めばいつでも童心に戻れる、私の原点ともいえる一冊です。

    (2014.06.01)
    投稿日:2016年02月24日
  • 原発ホワイトアウト
     刊行前のこと、「『三本の矢』を超える作品ができました!」と担当編集者から原稿をもらった瞬間は、今でも鮮明に覚えている。原稿に目を通しつつ、『三本の矢』を知らない私は即購入して、すぐ読んだ。(*『三本の矢』(早川書房 1998年4月刊)は現在、絶版となっている。昭和金融恐慌をモデルとした経済小説で、当時、現役のキャリア官僚が書いた経済小説として話題を呼んだ。上下巻合わせて累計20万部近くまで売れた。)両作品、新人作家とは思えない巧妙な構成となっており、文章も大変上手く、驚愕をした。

     東京大学法学部卒業。国家公務員I種試験合格。現在、霞が関の省庁に勤務。
     今回、私が取り上げた『原発ホワイトアウト』に記載されたプロフィールは、上記の情報のみだ。著者名は、若杉冽。本書は、限りなく事実に基づいて書かれた現役のキャリア官僚による告発ノンフィクションノベルである。刊行直後から「省庁内で犯人探し」が始まるなど話題を呼び、無名の著者としては異例の発売1ヶ月あまりで5万部を超え、瞬く間に10万部、そして現在は11刷19万部を突破し、ロングセラーのヒット書目となった。テレビ、新聞、雑誌とマスコミ各社から取材が相次ぎ、書店からの注文も殺到。政治家や様々な業界関係者が、ブログやSNSなどで取り上げたほか、読者からの反応も大変多く(*Amazonにおいては、2014/5/13時点で、181件のレビューが書かれている)老若男女すべての方に読まれ、「映像化してほしい!」など様々な声をいただいた。
     『原発ホワイトアウト』は、省庁や政治家、電力会社における既得権益の癒着構造を見事に描いており、原発の利権を巡る「モンスターシステム」の仕組みを暴いている。本書を読めば、原発問題をはじめ、現在、日本国家が抱えている数々の問題点が明らかになっていく。この作品の登場人物の名前が、実在する人物に近しい名前であることも、よりリアリティを感じさせる要因となっている。どの人物であるかは、ぜひ本書を読み、一考していただきたい。また本書が刊行されてから若杉氏は、原発問題以外にも、特定秘密保護法など、多岐にわたり言及されている。今後の活躍に目が離せない。
     原発問題は天災か、それとも人災だったのか。2011年の震災から早3年が経ち、「脱原発」から「原発再稼働」の動きが出てきている。本書は、著者が権力の中枢に属しながら、「権力」と真っ向から対峙し、戦った渾身の一作であり、日本国民であれば、誰しもが一読すべき本である。この本は、日本の未来に対して、警告しているのだ。「原発は、また必ず爆発する」と。
    (2014.05.15)
    投稿日:2016年02月24日
  • 新装版 海も暮れきる
     たぶん多くの人と同じで、国語の教科書でこの句に出会いました。 五七五でも五七五七七でもない一行の所感、もはや独り言にしか見えない、これはなんなのか。わからない。自由律俳句と説明されたところで、やっぱりわからない。
     なんなんだ、わからないなあ、という感慨が強烈で、以来その句と作者の名前は、記憶のすみに残っていたのでした。

     名家に生まれ一流大学を出て一流会社に入りと立身出世道まっしぐら。しかし酒で身を持ち崩し、すべてを投げ捨てる。仮住まいを繰り返し、瀬戸内海の小さな島に行き着くも持病の結核が悪化、八ヵ月のうちに一生を終える。
    大正時代の俳人・尾崎放哉。その最後の八ヵ月を書いたのが『海も暮れきる』です。

     心情や病状の変化を別にすれば、全編を通して放哉の行動に大きな変化はありません。金銭や食物を知人に無心する手紙を書き、節食に徹しようとしてはつい贅沢し、よくしてくれる人に心中で感謝し、酒を飲んで暴言を吐いては後悔する。望んで独居しているのにたまの友人の訪問は手土産含めて諸手を挙げて歓迎し、見るからに人恋しそうな句を詠む。

     島に来て日の浅いうち、生活の不安から泥酔したあと、夜の海辺で島の子らに出会うという場面があります。「どうせ生きていても仕方のない境遇で、酔いつぶれて海に身を沈めた」い、と彼らに駄賃をやり、小舟を出させる放哉。しかし、「海に身を投じようという気持が何度も湧いたが、濁った意識の中で子供たちを驚かせてはならぬと自らに言いきかせていた。これほど従順に従ってくれた子供たちに、刺戟をあたえるようなことはしたくなかった」と、自死をあきらめる。

     この場面に限らず、一貫して描かれる、決断を迫られた時に、利己的にも利他的にも、真っ当にも破滅にも踏み切れない性質。その人間らしさに、いっぺんにひかれてしまいました。

     もちろんこの本は、帯にもあるように、あくまでも小説です。しかし、読んでいるとついそれを忘れてしまうのは、やはり綿密な取材の成果なのでしょう。作者の吉村昭さんは実際に島に赴き、放哉と交流した同時代人たちの回想を基にこの本を書いています。挿話が、織りこまれる書簡や句の引用と矛盾せず遜色なく、放哉の人柄を伝えてきて、八ヵ月を追体験するような気持ちになるのはそのためなのでしょうか。

     尾崎放哉、という記憶にある名前と、故郷の島が舞台になっているという理由からこの1冊を手に取ったのは大学四年生の休暇中です。そんな軽い気持ちで手を出したのに、その夏はこの本と『尾崎放哉随筆集』ばかり読んだような。そして、終の棲家になった南郷庵を訪れるに至りました。訪問時には障子が閉め切られており、題に引かれた句のようには海は見えませんでしたが、蝉の声が物凄かった。「蝉の声が空間を密度濃く占めていて、庵が滝壺にでもあるようだった」というこの本の一文を思い返し、初秋にここを訪れたという吉村昭さんばかりか、尾崎放哉も同じ蝉の声を聴いたかもしれないと、楽しいモウソウにひたっておりました。

     ところで、先述の『尾崎放哉随筆集』は講談社文芸文庫から出ています。随筆集と銘打ちながら書簡や句も併録された盛り沢山な内容ですので、そちらもおすすめです。

    (2014.05.01)
    投稿日:2016年02月24日
  • 鞄の中身
     たぶん吉行氏の著書は、小説、随筆、対談集、コラムの類いに至るまですべて読破してきたと思います。読み始めたのは‘60年代後半、大学入学後まもなくでした。作品の主題の多くは「大人の男女」のアレヤコレヤ、しかも「性」を取り扱ったもの。20歳前の若輩が、よくもまあ、これら大人びた本を読もうとしたものだ、と、65歳にもなった今の自分は、昔のことがとてつもなく恥ずかしい。がしかし、妙に懐かしいのです。

     そんな学生時代の読書歴を経て、講談社に入社して数年後に自社から刊行された短編集『鞄の中身』は、それを読了した時の自分の感懐までもよく覚えています。

     今は、同タイトルで講談社文芸文庫に収められていますが、実は最初の単行本とは内容が若干異なっています。『鞄の中身』より以前に出た別の短編集とシャッフルされて、ラインアップの違う作品集に。現在手に入るのは文芸文庫版だと思うので、そちらに沿って内容を紹介します。
    (電子書籍でも読めます。)

     表題作『鞄の中身』は、作中の“私”が、自分の死体を鞄に詰め込んで街中をさまよう、という悪夢を綴ったもの。また、『風呂焚く男』は、自分の“過去”を払拭しようと、下着の山を薪がわりにして苦闘する男の話。『子供の領分』では、仲のよい少年同士に潜む残酷な、しかし切ない“悪意”を描きだしています。

     そのほか、今は空き家になっている家に、飼っていた猫だけがひっそりと暮らしている話(『家屋について』)や、口説きそこなった女性のことを、十数年後に突然思い出し、あのとき分からなかったそのひとの心の傷に思い至る話(『廃墟の眺め』)、大人の秘め事に翻弄された子供時代が、口ずさんだ童謡とともに鮮やかによみがえる話(『白い半靴』)、等々。

     吉行氏は、20年ほど前に鬼籍に入られました。その文学については、我が社でかつて大活躍され、氏と親交も深かった先輩編集者の方々を差し置いて、偉そうに語る資格が私にあるとは到底思えません。

     しかしこのような、日常の些事を切り取った、しかも奇妙な味わいの小説に、20代の若造がどうして惹かれたのか。そのことなら、今の私は説明がつきます。だから、それについてのみ、書かせてもらいます。

     いわゆる団塊世代に属する私は、学生時代、荒れたキャンパスの中にいました。と言っても、積極的に“闘争”に参加する同輩には背を向けて、一貫して、頑なに“軟派学生”でした。(そういう意気込み自体が、実はほんものの“軟派”とは程遠い、ただのカッコツケなんですが。)大昔のことゆえ遠慮なく言わせてもらえば、とにかく、潤んだ目付きで遠くを見遣りながら、声高に、平和や愛や、タタカイについて語る彼らのことを、本気で嫌悪しました。「人々のために」と言いながら、その上目遣いの、ねっとりした眼差しに潜んでいる「自己愛」の強さに辟易しました。あくまで個人的な、偏った感情ですが。

     なぜ、そんな思いに駆られたのかは面映ゆいので省略します。しかし、吉行氏の作品に出会った時、「大きな声で語られることより、もっと大切なことは日常の小声の中にある」というようなことに思い至り、以来、片っぱしから、その作品の数々に耽溺しました。それらは騒々しい周りの大声を、完璧に遮断してくれました。社会人になってからも読み続け、今の私の、精神の(大袈裟ですね!)骨格部分を形成してくれたようにも思います。

     編集者生活を長年やってきましたが、偉そうに言わせてもらえば「読者の心の中の、芥子粒のようなディテールも見逃さないこと」は、実はとても大切なわけで、その意味でも、氏の作品群は、私の唯一絶対の、座右の書です。

    (2014.04.15)
    投稿日:2016年02月24日
  • 古典落語
     子供の頃に愛読していたのは主に父の勤める某社の絵本たちでした。読んで大きくなりました。大きくなってからは、家の本棚に並ぶ雑多な本を漁って読んでいました。編集者という仕事は家に本を溜め込むもので、父の仕事のものか趣味のものかよくわからない本がごちゃごちゃと家のあちこちにあったのです。

     ところが、本があることが当たり前すぎて有り難みがなかったのか、乱読しては内容をすぐ忘れるという有り様。いまだにそんな調子なので、出版社に勤める人間としていかがなものか、と時々落ち込みます……。ともあれ、幸運にも、いまも多くの時間を当たり前のように本のそばで過ごしています。

     数年前、思いがけず学術文庫の編集部に異動になり、本の内容もろくに覚えられない私につとまるのかと日々不安な気持ちでいたときのこと。資料を探して会社の図書館をうろうろしていると、古い講談社文庫がならぶ棚にこの本を見つけました。実家の本棚にあった、なつかしい青緑の表紙。

     収録されているお目当ての作品を見つけると、ページは繰らずにまず記憶をたどりました。まだ言えるかな……と暗唱してみたのは登場人物の名前です。

     小学生か中学生のころ、どうしてかは思い出せませんが、「寿限無」のあの名前を覚えようと思い立ち、文庫本をにぎりしめ、やけに集中して暗記したのでした。改めて見てみると、名前にしては長いというだけで、さして長くもないし、なんの役にも立ちませんが、覚えたてのころは親に自慢げに聞かせていたような記憶があります(どうせなら「寿限無」をまるまる覚えたらよかったのに!)。

     この一篇をきっかけに、私は落語にはまり、落研に入り、寄席に通うように……は全くならなかったのですが、これが落語との出会いであったことは確かです。そして、懐かしい思い出にひたった数日後、この講談社文庫版の『古典落語』が、編み直されて学術文庫に収録されていることに気づきます。編集部の書棚を見てみたら、濃紺の背表紙の粋なデザインに着替えた『古典落語』が。見た目こそ違えど、慣れない土地で古い知り合いに出会ったような、ほっとした気持ちになりました。

     この本は、どこかでまた私の前にひょいと顔を出すかもしれません。そのときの自分はどこで何をしているのか、そのときの自分にとってどんな本になっているのか、何気ない一冊にもそういう楽しみがあるなと思います。

     ちなみに、名前以外はうろ覚えだったので読み返してみたところ、寿限無寿限無五劫のすりきれ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところやぶらこうじのぶらこうじパイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助ちゃんは、名字が「杉田」だったという新たな発見がありました。名前すら、きちんと覚えていなかったとは……。

     ついでに見つけてしまった誤植の話もしたいところですが、「あんまり名前が長いから、原稿用紙が埋まっちゃった」。

    (2014.04.01)
    投稿日:2016年02月24日
  • 法月綸太郎ミステリー塾
    ミステリー評論の効用 ミステリーが大好きで、たくさん読んでいる人でも、ミステリーの評論まで読む人は少ないでしょう。
     評論というと、どうしても堅苦しく、難解で、ややこしい印象があります。入口が閉ざされている感じがするので、読者も増えない。読者が限られてくると、ますます評論はマニアックになり、狭く深い穴を掘っていく。そんな悪循環に陥りがちです。評論の危機です(大げさかな?)。

     そういう危機を軽やかに乗り越えているのが、法月綸太郎さんのミステリー評論です。
     平易で読みやすく、わかりやすくて、しかも卓見に満ちている。
     これまで『謎解きが終ったら 法月綸太郎ミステリー論集』、『名探偵はなぜ時代から逃れられないのか 法月綸太郎ミステリー塾 日本編』、『複雑な殺人芸術 法月綸太郎ミステリー塾 海外編』と評論集3冊を愛読してきました。さらに4冊目『盤面の敵はどこへ行ったか 法月綸太郎ミステリー塾 疾風編』が昨年(2013年)末に出たのは、うれしい限りです。(以下、『謎終』『名逃』『複殺』『盤敵』と略。) 「この1冊!」では最新刊の『盤敵』を挙げておきますが、4冊すべてオススメです。
     もちろん全冊、弊社より刊行。「評論集・冬の時代にやるじゃないか、講談社」と自社自賛してしまいます。
     しかも電子書籍でも読めます。ますますやるじゃないですか、講談社!

     優れたミステリー評論には2つの特徴があると思います。
     まず、読み手が評論の対象となるミステリーをすでに読んでいる場合、「こういう読み方(解釈)があったのか!」と驚き、感心させ、「新しい楽しみ方がわかった。読み直してみよう」という、再読誘発力を持っている。
     次に、読み手が評論の対象となるミステリーを未読の場合は、「面白そうだ、読んでみたい」、「(文庫などの解説では)買おう!」という、作品ガイドにして読書(購入)欲求をかき立てる力を持っている。
     つまり、優れたミステリー評論には必ず作品に回帰させる力があるのです。

     法月さんの評論の場合、前者の例ですと、まず「挑発する皮膚──島田荘司論」(『名逃』収録)を推します。
    「肌ざわり」というキーワードで、島田荘司作品を読み解いていく、スリリングな快感!
     この評論そのものが「謎を解き明かすミステリー」として成立している、法月さんの傑作です。
     後者の例ですと、パッと浮かぶのは「アメリカ本格の『台風の目』」(『盤敵』収録)。
     ジャック・カーリーの『毒蛇の園』の文庫解説として書かれたテキストですが、この作品のどこが面白さのポイントなのか、(まだそれほど知られていない)カーリーという作家のどこが魅力なのか、存分に語りつつ、余白を残していて、読書欲求をそそります。
     私はこの解説がきっかけで、カーリーを読み始めました。そして実際、面白かった!

     ちなみに法月さんの解説の難点といえば、あまりに行き届いているために、解説を読んだだけで満足してしまう場合があることでしょうか。
    「ロバート・トゥーイのおかしなおかしなおかしな世界」(『盤敵』収録)というマイナーな短編作家の解説が、その一例です。作家と作品が丹念に紹介され、とりわけ各短編のさわりが絶妙に語られます。そのさわりだけで堪能できちゃう。
     ワタクシ、結局、トゥーイの短編集『物しか書けなかった物書き』は購入しましたが、未だ読んでいません。ごめんなさい。

     ここから先はマニアックな話になってしまいますが、法月さんといえば、やはりエラリー・クイーン。(どういうことかは説明すると長くなるので省略します。)当然ながら、クイーンをめぐる論考も読み応え十分です。
     代表的なものは「初期クイーン論」、「一九三二年の傑作群をめぐって」(どちらも『複殺』収録)ですが、『盤敵』では肩の力がすっと抜けて、より平明なクイーン論が5編読めます。
     この5編は法月さんのミステリー評論の白眉ではないでしょうか。
     ミステリーの歴史を踏まえながら、アメリカの社会史や映画史をからめて作品を捉え直し、新たな発見を提示する。
     その流れに澱みはなく、するりと読者は飲み込んでしまう。飲み込んでから、今までにない鮮烈な味わいにびっくりし、唸る。
     この「思いがけない発見に膝を打つ」」という点は、法月さんが敬服する故・瀬戸川猛資さんの評論を想起させます。まさに読んで面白い評論なのです。

    『盤敵』には、私がもっとも敬愛するミステリー作家・都筑道夫先生に関する論考も収録されています。
     私が高校時代に最初に読んだミステリー評論が、都筑先生の『黄色い部屋はいかに改装されたか?』でした。何度も読み返し、ミステリーの読み方のみならず、物事に対する価値観にまで大きな影響を受けました。
     我が聖典ともいうべきこの評論の増補版が先年刊行された際に、法月さんが寄せた解説が、私のようなディープな都筑ファンでも瞠目するしかないほど素晴らしい内容で、とりわけ最後の一行の見事さに目を見張りました。
     これほどフィニッシング・ストロークが決まった評論は読んだことがない、と言ったら褒めすぎでしょうか。
    (もちろん初めて都筑先生の評論を読む人にとっても、理解しやすく示唆に富んでいる解説であるのは言うまでもありません。)

     このように、法月さんのミステリー評論はたくさんの愉悦を味わせてくれるのですが、私にとっては別のレベルでも大きな意味を持っています。
     以前、あるトラブルに巻き込まれ、精神的にとことん追い詰められた時期がありました。
     さまざまな方々に心配をかけ、先が見えないゆえのプレッシャーがのしかかり、自分も周囲も感情が沸騰し、騒然とした日々を過ごしました。

     気持ちがちぎれそうな毎日、トラブル処理のわずかな合間に、私は『名探偵はなぜ時代から逃れられないか』を少しずつ読み返すのを日課にしていました。そう、なぜか無性に読みたくなったのです。
     読むたびに法月さんの理知的な文章がすうっと胸に染み込み、揺さぶられ振り回されていた自分の心を、なんとかつなぎ止めることができました。
     変な話ですが、この時ほど、ミステリー評論の効用を感じたことはありません。

     ミステリー、とりわけ本格ミステリーは「不可解な謎を理知の力で解き明かす」のを主眼としています。
     現実の世界は混沌としていて不分明で不可解です。それを人間の理知で解明してしまう本格ミステリーの世界は、一種の理想郷でしょう。
     ミステリーの評論は、そのユートピアに、さらなる理知をもって臨んだ、いわば理知の塊というべきテキストです。
     現実の世界の、不条理で感情的な嵐に直面し、吹き飛ばされそうになった時、自分をぎりぎり支えてくれた理知の杖。それが法月さんの評論だったのです。

     最後にもうひとつだけ。
     法月さんには20年近く前、私が『金田一少年の事件簿』の担当をしていた時にお会いしたことがあります。実は講談社文庫『小説版 金田一少年の事件簿1 オペラ座館・新たなる殺人』(絶版)の巻末で、法月さんと原作者の天樹征丸さんが対談しているのです。(現在入手できる講談社漫画文庫版、および電子書籍では残念ながらカットされています。)
     法月さんはとても丁寧に接してくださり、本格ミステリー作家の立場から『金田一少年の事件簿』の面白さを認めてくださいました。それがどれだけ救いになったか。
     その意味でも、私にとって法月綸太郎さんは恩人なのです。

    (2014.02.01)
    投稿日:2016年02月24日
  • 私・空・あなた・私
    母親の不倫相手の妻の家で暮らすことになってしまった中学生のれもんが主人公。特異な環境設定ながら、誰にも胸の内を晒すことのできない中学生特有の心理描写は、思春期を通った誰しもがシンクロしてしまうこと必至。そして、れもんが次第に惹かれていく植木職人・イズミは、謎めいた人物で…?ワケあり家族ドラマの中で、徐々に恋の嵐が吹き荒れていく展開に目が離せません。
    投稿日:2015年11月30日