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  • 作者の死後に書かれた奇跡の最新作
     漫画家を目指す若者にキャラクターの説明をするとき、いつも話すことがある。
     それは、優れたキャラクターの言いそうなこと、やりそうなことは、作者でない人間にも察しがつくということだ。例えばドラえもんは、いつだってどら焼きを食べている。しずちゃんは真昼から入浴していて、ジャイアンは嬉しいことがあると「おお心の友よ!」と叫ぶ。
     本作の主人公・リスベット・サランデルは、そういった意味において、お手本のようなキャラクターだ。154センチ42キロの拒食症の少年のような体躯、短く刈り上げた髪に、軟骨に空けられた幾つものピアス。ぴったりとしたパンクファッションの下の肌には、ドラゴンの刺青が大きく入れられている。食に興味がなく、めったに他人に心を開かず、ただし正義感はきわめて強い。特に高等な教育を受けたわけではないが、抜群の数学センスと、ハッキング能力を持つ。
    「ミレニアム」はシリーズ小説だ。第一作『ドラゴンタトゥーの女』がスウェーデンに次ぎ、ハリウッドでも映画化されたのは記憶に新しい。その四作目にしてシリーズ最新作が本作『蜘蛛の巣を払う女』だ。なぜ一作目でも二作目でもなく、私がここで四作目を推したのか。それは、ただ本作が最新作だからという理由ではない。
     すでに世界中のリスベット・ファンにはよく知られているように、本作は、作家スティーグ・ラーソンの死後に書かれた作品なのである。
     新シリーズの著者・ダヴィド・ラーゲルクランツは、やはりスウェーデンのジャーナリスト出身の小説家だ。
     一部の熱狂的なファンからは、批判の声もあったそうだ。発表直前には、ラーゲルクランツ自身が精神的に非常に追い詰められたらしい。しかし、本作の発売後、批判を上回る大きさの声で、「第三部までの文体とキャラクターが研究し尽くされている」との賞賛が届けられた。スウェーデン本国では、発売からわずか1週間で20万部を売り上げる快挙を成し遂げたことが、多くの読者の支持を得た何よりの証拠であろう。さらには、第二部、第三部より先に、この第四部の映画化がハリウッドで進められることになったという。
     作家・ラーゲルクランツの才能、そして並外れた努力が、優れた本作を生み出したことはいうまでもない。一方で、リスベットという、世にも魅力的な主人公のキャラクターが、ラーソンの死を乗り越えたのもまた真実である。キャラが作者を超えてしまう瞬間。エンターテインメント業界に身を置く人間にとって、ただ羨望しか感じないひとときだ。
     上下巻というと、構えてしまう方も多いかもしれない。けれど、ぜひ手にとって頂きたい。20世紀最高のキャラクターが才能ある作家と奇跡的な出会いの末、見事な生還を遂げた本作は、読んだ者を損させない究極の一作だ。
    投稿日:2016年05月27日
  •  とりあえずこの文章を読んでいただきたい。
    〈「では、彼が犯罪者だと知るまでは、彼のことをどう思っていましたか?」
     麗芬は首を振るのをやめた。おれの背後──はるか彼方(かなた)に視線を向けた。
    「辛(つら)いんです」絞りだすような声。「やっと笑えるようになりました。でも、まだ辛いんです。わたしはあの人を愛していました。夫を殺した人を愛していました」
     それだけが聞きたかった。
    「彼から、夫が死ねばいいと思っていたと聞かされたとき、わたしも思いました。夫が死んでよかったと。わたし、わたし──あの人もわたし自身も許すことができません」
     わななく膝(ひざ)を手で押さえ、おれは立ち上がった。
    「辛い話をさせて申し訳ありませんでした」
     上着の内ポケットから用意しておいた包みを取り出した。女の握り拳(こぶし)ほどの大きさのそれを麗芬の前に置いた。
    「これは謝礼です。たいしたものじゃありませんが、よければ後で開けてください」
    「もういいんですか?」
     涙に潤んだ目がおれを見あげた。抱きしめたい──拳を握った。唇を噛んだ。おれが望んだもの。おれが望んだ女。手を伸ばせば、それが手に入る。
     この女もぶち殺せ──声が聞こえた。声はやむことがない。
     息を吐いた。口を開いた。(中略)
     おれは踵(きびす)を返した。喫茶店を出た。窓ガラスの向こうで、麗芬が包みを開けるのが見えた。ビロード張りの指輪ケース。中には、おれが麗芬に贈った指輪が入っている。
     通りかかったタクシーをとめた。乗りこんだ。麗芬が口を開けている。指輪を見つめている。立ち上がり、顔を左右に振る。おれを探している。
     視線があった。麗芬の口が動いた。唇を読んだ──加倉さん。
     麗芬は駆けだした。目には涙──その奥に混乱。憎しみはない。麗芬が喫茶店のドアに手をかけたとき、タクシーが動きだした。
     ルームミラーに映る麗芬を見守った。タクシーが角を曲がるまで、麗芬はタクシーを追いかけつづけた。
     フィルムを現像に出した。できあがった写真を安ホテルの壁に貼りつけた。
     息を殺して泣いた。〉

    「彼」、「あの人」、そして「おれ」というのは、ノーヒットノーランの記録を持つ元プロ野球投手、加倉昭彦。台湾で八百長に手を染め転落した。多くの黒道(ヘイタオ、台湾やくざ)を殺した。自分を慕う弟分の投手、俊郎(としろう)の妻を奪い、俊郎も殺した。そして手術で顔を変え、声を変えて、その麗芬に別れを告げた。馳星周の『夜光虫』(角川書店、2014年7月4日配信)――第120回(1999年)直木賞候補となったノワール(暗黒)小説の最終場面の一節だ。
     初出は1998年。
    〈夜の台北にうずくまっている。光の渦の中に身を委ねている。
     呪われたやつら──この街の、この国のどこかでのうのうと生きている。
     ぶち殺せ──声が聞こえる。一人残らずぶち殺せ。
     おれはその声に耳を傾けている。〉
     衝撃作『夜光虫』がこの4行で幕を閉じて19年――ダークヒーロー加倉昭彦が帰ってきた。『暗手(あんしゅ)』(角川書店、2017年4月26日配信)――物語の舞台はイタリア、名前を捨て台湾から逃れてきた加倉昭彦は、高中雅人、ヴィト・ルーなどの偽名を使い、ヨーロッパの黒社会で「暗手(アンショウ)」と呼ばれている。
     物語は、待ちに待った馳星周らしさ全開の文体で始まります。

    〈欲望に身を任せた。
     嘘をつき、それを糊塗するためにさらに嘘をついた。
     糊塗しきれなくなると、殺した。
     嘘をついてまで手に入れたかった女に愛想を尽かされた。家族に捨てられた。
     さらに殺した。
     顔を変えた。名前を変えた。
     そして殺した。
     殺した。殺した。殺した。
     殺しすぎて台湾にいられなくなった。
     そしておれは今、イタリアにいる。〉

     イタリア黒社会の何でも屋。殺し以外の仕事ならなんでも請け負う。殺しには飽いた。反吐が出るほど飽き飽きした。暗闇から伸びてくる手――「暗手」がいつしかヨーロッパの黒社会における呼び名になった。
     かつては犯罪者の巣窟と呼ばれていたミラノのナヴィリオ地区。今じゃ、運河沿いの道を無数の人間が行き来するお洒落なエリアに変貌した。
     人混みの中にジミー・チャンの顔が浮かび上がる。中華系のマレーシア人。サッカー賭博組織の末端に連なるチンピラで、ヨーロッパ中を忙しなく渡り歩いている。
    〈「久しぶりだな、暗手(アンショウ)」
     ジミー・チャンが言った。(中略)
    「おまえ、日本語ぺらぺらだったよな」
    「英語もイタリア語もぺらぺらだ」
     おれは答えた。ジミー・チャンが顔をしかめた。
    「レオ・オーモリを知ってるか」
    「名前だけなら」
     おれはうなずいた。〉

     大森怜央。5年ほど前に、日本からベルギーのサッカークラブに移籍してきたゴールキーパーだ。そこでの活躍が認められ、今はミラノから北東に車で1時間半ほど走った田舎町、ロッコのクラブにいる。

    〈「ある筋がオーモリを手に入れたがってるんだ。引き受けてくれないか、暗手」
     それには答えず、グラスに残っていたジュースを飲み干した。(中略)
    「うまく行けば、二十万ユーロがおまえの懐(ふところ)に入る」
     ジミー・チャンが下卑(げび)た目でおれを見る。おれは人混みからジミー・チャンに視線を移した。
    「おまえはいくら取るつもりだ」
     ジミー・チャンの睫(まつげ)が震える。おれはジミー・チャンを殺すところを想像する。そうするだけで、おれの目は氷のように冷たくなるらしい。度胸のないチンピラはそれで震え上がる。
    「お、おまえに三十万、おれに十万。それでどうだ」
    「おまえはなにもしない。それなのに十万だと」
    「話を持ってきたじゃないか」
     ジミー・チャンの口から唾(つば)が飛ぶ。おれは嗤(わら)ってやる。そもそも、四十万などという半端な金額がおかしいのだ。この件でジミー・チャンに提示された金額は五十万ユーロに違いない。
    「おまえに四十万。おれに十万」
     ジミー・チャンが折れた。おれはグラスをテーブルに置いた。
    「わかった。引き受けよう」〉

     ジミー・チャンの背後にいるのは、王天(ワンテイエン)。サッカー賭博の帝王。中国大陸から東南アジア、オセアニア、ヨーロッパまで手広く稼いでいる。そして、人民解放軍特殊部隊出身の殺し屋、馬兵(マービン)と手下たちをボディガードとして雇っている。

     ヨーロッパのサッカーシーズンは秋に始まり、夏が来る前に終わります。シーズンを通して八百長は行われるが、シーズン終盤――優勝が絡む試合、チャンピオンズリーグ出場権が絡む試合、降格や昇格が絡む試合になると掛け金が跳ね上がる。

     無類のサッカー好きで知られる馳星周。〈暗手〉の目を通して、ヨーロッパサッカー界の裏事情をこんな風に描き出して見せます。

    〈どれほどメジャーなリーグでも、どれほどメジャーな大会でも、八百長を仕組もうとする連中は跡を絶たない。つまり、八百長も跡を絶たない。
     スーパースターは八百長には関わらない。スーパースターを目指す連中も関わらない。だが、そんな連中は一握りに過ぎない。大抵のサッカー選手はスーパースターになるどころかビッグクラブから声がかかることもなく、弱小、もしくは中堅クラブでキャリアを終える。稼げる金もたかが知れている。
     あるいは、南米やアフリカからやって来る選手たち。やつらは金儲(もう)けのためにヨーロッパにやって来る。クラブが払ってくれる給料以上の金がもらえるのなら、モラルは簡単に道端に投げ捨てる。
     そうやって、ヨーロッパ中に八百長の触手は伸びていく。
     中国人が金を稼ぐようになって、その傾向は顕著になった。
     やつらほど博打(ばくち)好きな民族はいない。だれもかれもが博打にとち狂っている。〉

     時は秋。イタリアサッカー、セリエAのシーズンは始まったばかり。〈春が来る頃には大森怜央を落とさなければならない〉身長192センチ、体重88キロ。日本人離れした体格を持ち、ミラノでプレイすること、そしてチャンピオンズリーグ出場を熱く願う日本人GK――獲物を狙って暗手が動き出す。
     水曜日の午後、ロッコのバル。練習を終えた大森は家の近くのこのバルでエスプレッソを啜りながら時を過ごすのが日課になっています。カウンターにひとり座る〈地味だが金のかかったスーツ。丁寧に撫でつけた髪の毛。銀縁の眼鏡〉の日本から来たビジネスマン。レオ応援団副会長を自認するイタリア男が大森に引き合わせます。〈高中雅人(たかなか・まさと)〉の名刺を差し出した日本人を大森は〈貿易商〉と理解して意気投合。大森行きつけのリストランテに席を移して、夕食を共にした。銘柄を指定して赤ワインをふるまった。帰り際に、店の男が大森に囁いた。〈一本千ユーロのワインだぞ。いいパトロンになってくれるかも。大事にしろよ〉大森怜央を自在に操るための第一幕――〈釣り針を垂らす必要もない。大森は自分から餌に食いついて〉きた。
     第二幕――暗手が用意した道具は、ひとりの女。シニョリーナ・バレッリ――旧知のミラノの高級売春クラブのマダムを通じて調達した日本人娼婦。服飾デザインで一旗揚げようとミラノに来たが、いつまでたっても日の目を見ず、日々の暮らしに窮して娼婦となった。名前は、ミカ――。

    〈「もっと稼げる仕事がある。やることは娼婦と変わりないが、相手をするのはひとりだけだ」
    「だれかをはめるのね」
     ミカは水を啜った。頭の回転は速い。
    「娼婦と悟られないこと。相手に惚(ほ)れさせること。さっきみたいな態度じゃ話にならない」
    「いくら?」
     ミカはソファに腰をおろし、脚を組んだ。
    「手はじめに一万ユーロ。うまくいけばさらに四万ユーロ」
    「はめる相手は?」
    「大森怜央」
    「だれ、それ?」
     おれは笑った。
    「サッカー選手だ」
    「サッカー選手は嫌い。昔、わたしの友達が遊ばれて捨てられたわ」
    「やるのか?」
    「なにをどうすればいいのか、教えて」
    「OK」
     おれは言った。〉

     かつて八百長に手を染め堕ちていった男が、サッカー選手として光の中に出ていくことを渇望する男を八百長に引きずり込む罠とは? 名を捨て、顔を捨て、声を捨ててヨーロッパの黒社会の底に棲む暗手。過去をすべて抹消したはずの男のミラノの自室には、あの女――麗芬の写真がある。ベッドの端に腰掛けて写真を眺め、その名前〈リーフェン〉を口にする暗手。大森の姉、綾の顔が重なり、身体が震える。震えが止まらなくなる・・・・・・。

     一気に加速する馳星周の世界。帰ってきたダークヒーロー加倉昭彦の後日譚――19年の時を隔てて揃った2冊のクライム・ノベル。『夜光虫』と『暗手』――併せて読めば、作家デビュー20年、馳星周の新たな到達点が見えてくる。(2017/7/21)
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    投稿日:2017年07月21日