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  • 法月綸太郎ミステリー塾
    ミステリー評論の効用 ミステリーが大好きで、たくさん読んでいる人でも、ミステリーの評論まで読む人は少ないでしょう。
     評論というと、どうしても堅苦しく、難解で、ややこしい印象があります。入口が閉ざされている感じがするので、読者も増えない。読者が限られてくると、ますます評論はマニアックになり、狭く深い穴を掘っていく。そんな悪循環に陥りがちです。評論の危機です(大げさかな?)。

     そういう危機を軽やかに乗り越えているのが、法月綸太郎さんのミステリー評論です。
     平易で読みやすく、わかりやすくて、しかも卓見に満ちている。
     これまで『謎解きが終ったら 法月綸太郎ミステリー論集』、『名探偵はなぜ時代から逃れられないのか 法月綸太郎ミステリー塾 日本編』、『複雑な殺人芸術 法月綸太郎ミステリー塾 海外編』と評論集3冊を愛読してきました。さらに4冊目『盤面の敵はどこへ行ったか 法月綸太郎ミステリー塾 疾風編』が昨年(2013年)末に出たのは、うれしい限りです。(以下、『謎終』『名逃』『複殺』『盤敵』と略。) 「この1冊!」では最新刊の『盤敵』を挙げておきますが、4冊すべてオススメです。
     もちろん全冊、弊社より刊行。「評論集・冬の時代にやるじゃないか、講談社」と自社自賛してしまいます。
     しかも電子書籍でも読めます。ますますやるじゃないですか、講談社!

     優れたミステリー評論には2つの特徴があると思います。
     まず、読み手が評論の対象となるミステリーをすでに読んでいる場合、「こういう読み方(解釈)があったのか!」と驚き、感心させ、「新しい楽しみ方がわかった。読み直してみよう」という、再読誘発力を持っている。
     次に、読み手が評論の対象となるミステリーを未読の場合は、「面白そうだ、読んでみたい」、「(文庫などの解説では)買おう!」という、作品ガイドにして読書(購入)欲求をかき立てる力を持っている。
     つまり、優れたミステリー評論には必ず作品に回帰させる力があるのです。

     法月さんの評論の場合、前者の例ですと、まず「挑発する皮膚──島田荘司論」(『名逃』収録)を推します。
    「肌ざわり」というキーワードで、島田荘司作品を読み解いていく、スリリングな快感!
     この評論そのものが「謎を解き明かすミステリー」として成立している、法月さんの傑作です。
     後者の例ですと、パッと浮かぶのは「アメリカ本格の『台風の目』」(『盤敵』収録)。
     ジャック・カーリーの『毒蛇の園』の文庫解説として書かれたテキストですが、この作品のどこが面白さのポイントなのか、(まだそれほど知られていない)カーリーという作家のどこが魅力なのか、存分に語りつつ、余白を残していて、読書欲求をそそります。
     私はこの解説がきっかけで、カーリーを読み始めました。そして実際、面白かった!

     ちなみに法月さんの解説の難点といえば、あまりに行き届いているために、解説を読んだだけで満足してしまう場合があることでしょうか。
    「ロバート・トゥーイのおかしなおかしなおかしな世界」(『盤敵』収録)というマイナーな短編作家の解説が、その一例です。作家と作品が丹念に紹介され、とりわけ各短編のさわりが絶妙に語られます。そのさわりだけで堪能できちゃう。
     ワタクシ、結局、トゥーイの短編集『物しか書けなかった物書き』は購入しましたが、未だ読んでいません。ごめんなさい。

     ここから先はマニアックな話になってしまいますが、法月さんといえば、やはりエラリー・クイーン。(どういうことかは説明すると長くなるので省略します。)当然ながら、クイーンをめぐる論考も読み応え十分です。
     代表的なものは「初期クイーン論」、「一九三二年の傑作群をめぐって」(どちらも『複殺』収録)ですが、『盤敵』では肩の力がすっと抜けて、より平明なクイーン論が5編読めます。
     この5編は法月さんのミステリー評論の白眉ではないでしょうか。
     ミステリーの歴史を踏まえながら、アメリカの社会史や映画史をからめて作品を捉え直し、新たな発見を提示する。
     その流れに澱みはなく、するりと読者は飲み込んでしまう。飲み込んでから、今までにない鮮烈な味わいにびっくりし、唸る。
     この「思いがけない発見に膝を打つ」」という点は、法月さんが敬服する故・瀬戸川猛資さんの評論を想起させます。まさに読んで面白い評論なのです。

    『盤敵』には、私がもっとも敬愛するミステリー作家・都筑道夫先生に関する論考も収録されています。
     私が高校時代に最初に読んだミステリー評論が、都筑先生の『黄色い部屋はいかに改装されたか?』でした。何度も読み返し、ミステリーの読み方のみならず、物事に対する価値観にまで大きな影響を受けました。
     我が聖典ともいうべきこの評論の増補版が先年刊行された際に、法月さんが寄せた解説が、私のようなディープな都筑ファンでも瞠目するしかないほど素晴らしい内容で、とりわけ最後の一行の見事さに目を見張りました。
     これほどフィニッシング・ストロークが決まった評論は読んだことがない、と言ったら褒めすぎでしょうか。
    (もちろん初めて都筑先生の評論を読む人にとっても、理解しやすく示唆に富んでいる解説であるのは言うまでもありません。)

     このように、法月さんのミステリー評論はたくさんの愉悦を味わせてくれるのですが、私にとっては別のレベルでも大きな意味を持っています。
     以前、あるトラブルに巻き込まれ、精神的にとことん追い詰められた時期がありました。
     さまざまな方々に心配をかけ、先が見えないゆえのプレッシャーがのしかかり、自分も周囲も感情が沸騰し、騒然とした日々を過ごしました。

     気持ちがちぎれそうな毎日、トラブル処理のわずかな合間に、私は『名探偵はなぜ時代から逃れられないか』を少しずつ読み返すのを日課にしていました。そう、なぜか無性に読みたくなったのです。
     読むたびに法月さんの理知的な文章がすうっと胸に染み込み、揺さぶられ振り回されていた自分の心を、なんとかつなぎ止めることができました。
     変な話ですが、この時ほど、ミステリー評論の効用を感じたことはありません。

     ミステリー、とりわけ本格ミステリーは「不可解な謎を理知の力で解き明かす」のを主眼としています。
     現実の世界は混沌としていて不分明で不可解です。それを人間の理知で解明してしまう本格ミステリーの世界は、一種の理想郷でしょう。
     ミステリーの評論は、そのユートピアに、さらなる理知をもって臨んだ、いわば理知の塊というべきテキストです。
     現実の世界の、不条理で感情的な嵐に直面し、吹き飛ばされそうになった時、自分をぎりぎり支えてくれた理知の杖。それが法月さんの評論だったのです。

     最後にもうひとつだけ。
     法月さんには20年近く前、私が『金田一少年の事件簿』の担当をしていた時にお会いしたことがあります。実は講談社文庫『小説版 金田一少年の事件簿1 オペラ座館・新たなる殺人』(絶版)の巻末で、法月さんと原作者の天樹征丸さんが対談しているのです。(現在入手できる講談社漫画文庫版、および電子書籍では残念ながらカットされています。)
     法月さんはとても丁寧に接してくださり、本格ミステリー作家の立場から『金田一少年の事件簿』の面白さを認めてくださいました。それがどれだけ救いになったか。
     その意味でも、私にとって法月綸太郎さんは恩人なのです。

    (2014.02.01)
    投稿日:2016年02月24日
  •  ♪あなた知ってる 港ヨコハマ
     昭和の人気歌手、青江三奈が歌った「伊勢佐木町ブルース」(1968年1月発売)。川内康範の詩の一節、「みなとヨコハマ」を繰り返すハスキーな歌声が今も耳に残っていますが、「港ヨコハマ」でなく、「横浜港」とあれば、「よこはまこう」と読むのが普通です。「神戸港」「函館港」……「○○港」は「○○こう」で、「○○みなと」とは読みません。かつてディック・ミネが「♪しみずみなとの 名物は~」(「旅姿三人男」)と歌った「清水港」でさえ、港湾施設としては当たり前に「しみずこう」と呼ばれています。旧い世代には耳に馴染んだ「しみずみなと」ではありません。
     それが日本語の常識だと思うのですが、その常識を超えて「オマーンみなと」と読んだTVアナウンサーがいたという。新書ベストセラー『京都ぎらい』(朝日新聞出版、2015年10月9日配信)に先立って著した京都・大阪文化論『関西人の正体』(小学館、2015年3月13日配信)で、井上章一さん(国際日本文化研究センター教授)は、「言葉」をめぐるテレビ人間たちの不思議な感覚を、自らの体験を通してこんなふうに書いています。

    〈もう、何年くらい前になるだろうか。たしか、オマーンの港で大災害があったときのことだ。テロなどの人災か、天然災害か、はたまたほかの事故か。そのあたりのことは、いっさい記憶にない。おぼえているのは、この事件を報道するアナウンサーの言葉づかいである。どの局の誰だったかは知らないが、私の見たニュース番組では、アナウンサーがこんなふうにしゃべっていた。
    「ただ今、オマーンみなとの火災は……」と。
     そう、そのアナウンサーは、「オマーン港(こう)」とはいわなかった。「オマーンみなと」と発音したのである。
     苦肉の策なんだろうなと、そのときは思った。「オマーン港(こう)」と発音してしまえば、女の陰部に聞こえてしまう。それがまずいということで、「港(こう)」を「みなと」にしてしまったにちがいない。テレビにもいろいろ苦労があるんだなと、そのときは一視聴者として、笑わされた。べつに、腹をたてたりはしていない。
     だが、「オメコメ」の一件で、私の考え方は一変した。〉

    「オメコメ」の一件とは何か?
     在京キー局の生番組本番中、目の前のモニター画面に突然、
    「オメコメ」
     この4文字が大きくうつし出され、スタジオの井上章一さんは絶句した――。
     結婚や婚約などへのお祝い、すなわち「おめでとう」コメントを、テレビの業界用語で「オメコメ」というそうです。井上さんが生出演していたその日も、有名人同士の婚約発表があったというので、「オメコメ」をとっていた。友人や関係者に録画でお祝いを語らせようという趣向で、モニターに「オメコメ」の4文字が大きく表示されたのも、そのためです。さあー、これからは「オメコメ」の時間ですよというわけで、普通の演出・進行ですが、この業界用語を知らなかった井上さんにとっては、頭がまっしろになってしまうほどの、想像を絶する事態でした。

    〈えっ、オメコ……メ。
     オメコ……メだって。
     まさか、そんな。
     テレビで、そんな文字、うつし出していいのか。(中略)
     関西では、女性の陰部を「オメコ」という俗称で呼んでいる。性行為のことも、同じ言葉で示している。関東の「オマンコ」に相当する言葉である。
     はっきりいって、口にするのも恥ずかしい。ここでは、思いきって書いてしまったが、文字にするのも、抵抗がある。そんな文字を生番組の出演中に、いきなりクローズアップで見せつけられたのだ。関西人の私に、うろたえるなというほうが無理だろう。
     私なんか、街を歩いているときに、「おこめ」という米屋の看板を見るだけで、テレてしまう。
     えっ、おめ……
     ああ、違う違う、おこめ、お米や。
     一瞬、おめ……かいなと思うて、びっくりしたやんか。〉

     井上章一さんは、この後に「おめこぼし」という言葉についての関西出身作家の中島らもさんと、自身がそれぞれ抱いていた妄想――まさに抱腹絶倒の猥談ネタです――を紹介しているのですが、それについてはここでは触れないでおきます。

     問題は、「オマーン港(みなと)」と読み替えたところに首都圏の横暴が露呈しているところにある――と井上さんは次のように書くのです。

    〈……私がいいたいのも、「おこめ」や「おめこぼし」に関する猥談ではない。ようするに、関西人は、この言葉に敏感だということを、訴えたいのである。
     東京の全国ネット・テレビ局にも、気をつけてほしいものだ。かるがるしく、「オメコメ」なんて、いわないでほしい。関西人は、この言葉に、いやおうなくドギマギさせられてしまうのである。
     ふだんは、あれだけ放送禁止用語に神経をとがらせているくせに「オメコメ」……。
     きっと、東京のテレビは、関西なんか眼中にないんやろうな。出演者が関西人だということにも、それほど配慮はしとらんのやろな。〉

    〈「オメコメ」がまかりとおるのに、「オマーン港」はかくされる。これは、あきらかに関西に対する差別である。東京のキー・ステーションは、首都圏の視聴者に対する配慮はおこたらない。だが、関西人の気持ちは黙殺する。そう、そこには、情報の東京一極集中という現状が、うたがいもなく露呈されているのである。〉

     江戸期までは京都を中心とする関西地方が文化の中心地でした。いうまでもなく、関所の向こう側――辺境を意味する「関西」という言葉は使われていません。中央政府、すなわち皇居の感化が及びうる「畿内」と呼ばれていました。現在の「近畿」という呼び方はここから来ていますが、どうやら、経済・文化の中心が東京に移り、さらに一極集中が進み、一方西の地盤沈下と並行するようにして「畿内」がすたれ、「関西」が浸透してきているというわけです。関西新空港、関西学研都市……「近畿」という呼び名さえ愛用されなくなっており、地元が声高に唱えているのも「関西復権」だ。

     井上さんの「関西」への思いは複雑です。

    〈私は、いわゆる関西人論がきらいである。よくいわれるこのての議論は、しばしば関西人を蛮族として描き出す。
     いわく、関西は俗悪である。街を行くひとのファッションも、ケバい。とまあ、未開民族の心性になぞらえたような話を、しばしば耳にする。関西では百貨店でも値切れるらしい。この話も、関西人の土俗性を強調するために流布された物語だと思う。正札販売という近代的なルールは、まだ関西にはおよんでいない。あそこには、前近代的な商慣行が残っている……。
     私がきらいなのは、こういう言いまわしにひそむ、思いあがりである。関西は、民度が低い。そうきめつけて、関西人を見下すような視線である。ほんとうに、不愉快だ。
     だが、この偏見、ひょっとしたら、あたっているのかもしれない。関西は、ほんとうに土俗的で、前近代的で、民度が低いのではないか。認めたくはないことだが、そんな気もする。百貨店で値切れてしまったことは、私をそんな心境に追いこんだ(引用者注:著者は本書第四章で、京都の百貨店でブルゾンを結果として値切ってしまった経験を開陳しています)。
     薄々そうなのではないかと、おそれている。私が、関西土俗説を認めたくないのは、そのせいかもしれない。自分でも、心のどこかでそうではないかと不安がっているからこそ、むやみに否定する。そんな心のメカニズムに、おちいっているのではないか。〉

     関西に対するアンビバレントな思い。井上章一さんは本書書き出し第一行目に、〈私は、京都に生まれ、京都に育った。今も、京都に住んでいる〉としるしています。読む人は誰でも生粋の京都人と思います。初出は、小学館発行の「月刊DENiM」連載(1993年1月~95年2月)。それから22年たった2015年――井上章一さんが世に出した『京都ぎらい』がベストセラーとなって、井上さんは時の人になりました。
     いったい井上章一さんに何があったのか。この22年の間に何が起きたのか。井上ファンとしては、ドキドキ、ワクワク、興味津々の2冊の「関西学」なのです。
     京都に対するアンビバレントな思いを内に秘めながらも、「関西」を多面的・多角的に論じた『関西人の正体』に、じつは『京都ぎらい』の芽が仕込まれていました。

    〈私は、京都の嵯峨野で育った。嵐山のすぐそばだ。百人一首で有名な小倉山のふもとでもある。さらに、結婚してからは、宇治に引っ越した。今はだから、宇治市民である。
     嵯峨に育って、宇治で暮らす。こう聞けば、他地方のひとは「いいですね」と思われようか。だが、京都人はけっしてそう感じない。中京(なかぎょう)や上京(かみぎょう)あたりのひとは、嵯峨や宇治と聞くだけで、軽蔑(けいべつ)の色を顔に浮かべるはずだ。
    「ああ、そうですか、井上さんは京都のお方と違うんですね」
     さすがに、そう口頭でいわれることはない。だが、街中の連中は、まちがいなくそう思っている。これはひがみ根性でもなんでもない。自信をもって、そういえる。〉

     一筋縄ではいかない京都の雅。一皮むけば何が出てくるのか。目からウロコの関西論2冊、一気読みであなたの関西を見る眼が変わっているはずです。(2016/9/23)
    • 参考になった 2
    投稿日:2016年09月23日
  • 匿名希望
    内容は素晴らしいが、構成に難あり
    内容は文句なく素晴らしいのだが、構成が画図、翻刻、現代語訳の三章に分かれており、一つの奇談を読む場合、各章へ飛ばなければならないので読みづらいのが難点。
    奇談毎に画図、翻刻、現代語訳をまとめた方が読者のためになると思う。
    • 参考になった 0
    投稿日:2016年08月30日