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叙情と闘争 - 辻井喬+堤清二回顧録

元セゾングループ代表にして、詩人・作家。反発していた父のもと実業界に入った若き著者は、二つの名前を往来しながら、大衆社会の幕開けと経済躍進の立役者として時代の渦中を進んでゆく。マッカーサー、吉田茂、本田宗一郎、三島由紀夫など、政治家、財界人から芸術家までの幅広い交遊エピソードとともに、戦後の諸相を描く貴重な半生記。

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11月28日、元セゾングループ代表の堤清二さんが死去したことが明らかとなった。翌29日朝日新聞朝刊一面の「天声人語」は、日本の流通革命を先導し、1980年代の消費文明をリードした経営者としての顔と詩人・作家としての顔を併せ持った堤さんへの送別の辞を〈元は政治青年だったせいか、その方面の発言に遠慮がなかった。55年体制に幕引きせよと主張し、自社連立政権に期待した。「個人」の尊重を説き、古くさい愛国心教育論を退けた。憲法の平和主義へのこだわりも再三語った〉と綴り、回顧録『叙情と闘争 - 辻井喬+堤清二回顧録』の最後に掲げられた短い詩の一節〈思索せよ/旅に出よ/ただ一人〉が旅立ちに似合うとして、引用してコラムを締めくくりました。堤清二さんは詩人で作家の「辻井喬(つじい・たかし)」として多くの著作を残していますが、電子書籍としてリリースされているのは上記の『叙情と闘争 - 辻井喬+堤清二回顧録』と『茜色の空 哲人政治家・大平正芳の生涯』の2冊。後者『茜色の空~』は、副題にあるとおり、1978年12月首相就任、1980年6月在任中に急死した大平正芳の評伝で、世間ではその物言いから「アーウー宰相」などと揶揄されましたが、内実はリベラルでぶれない哲人政治家の壮烈な生涯を描いています。なぜ、辻井喬が大平正芳の生涯を描いたのか、特定秘密保護法案の成立前夜の政治状況と考え合わせると、その意味が見えてくるように思えてきて興味深い本ですが、ここでは、堤清二、あるいは辻井喬の歩んだ道を、内面の葛藤を隠すことなく綴る回顧録を取り上げます。副題に「辻井喬+堤清二回顧録」とあります。共著もある上野千鶴子(東大名誉教授)は、辻井喬は堤清二を包含する上位の概念というような捉え方をしていますが、辻井喬はたんなるペンネームではないようです。本書でも、後に衆院議長にもなる政治家にして西武の総帥である堤康次郎の子として生を受けた堤清二さんが、小学生の頃に「妾(めかけ)の子としていじめられたというエピソードがでてきます。当時、堤康次郎が学園都市国立の建設に取り組んでおり、兄と妹は北多摩郡三鷹村下連雀(現在の三鷹市)から中央線の電車に乗って、私立国立学園に通っていました。〈僕の学年は十二名、妹の学年は十五名ぐらいしか児童がいなくて、全校で五十名に満たない規模であった。当時の山本丑蔵校長の個性尊重という自由主義教育の効果もあって、児童たちの間にも天真爛漫という空気が漲っていた。そんななかでも、大人の社会の影が子供の世界に反映したとでもいう事件はあり、僕が五年生の時、妹が学校から帰ってくるなり大声で泣き出した。母が訳を聞くと、妾の子といっていじめられたのだという。僕は怒った。そんなことを直接母に告げる妹も許せなかった。実は数日前、僕も同級生の餓鬼大将に同じことを言われ、体力の差も忘れて喰いつき投げ倒して馬乗りになり、撲りつけて怪我をさせてしまっていたが、母には黙っていたのだった。母の顔色が変わった〉堤清二の生活、行動を見つめる辻井喬の視線があるように感じるのは、ひとり私だけではないのではないでしょうか。回顧録には経営者としての活動、つまり堤清二の軌跡が描かれ、その次の章には作家・辻井喬の思索や交流が描かれるというように、二つの顔をもって生きた堤清二と辻井喬の重層的な人生が織りなすように綴られていくのですが、その二つの人生を辻井喬という思索の人が内省的に俯瞰しているような感じがしてなりません。その軌跡は多彩です。東大進学後の共産党員としての活動、30歳の頃、父親の秘書役をこなし、西武百貨店池袋店の店長として「駅前ラーメンデパート」といわれた店を改革して流通業の経営者となっていく過程、西武の名を捨て「セゾングループ」を創出、消費社会の変容を先導するトップランナーとしての日々、そして辻井喬として生きる意味を問い、時代に対しものを言い、政治的に動くことも躊躇しなかった。その起伏に富んだ軌跡はそれ自体が劇場のように面白い。その多彩な軌跡は本書でじっくりお読みいただくとして、ここでは異母弟の堤義明氏との関わりについてどう書いているかを紹介しておきましょう。父・堤康次郎の厳命で1962年3月にオープンしたロサンゼルス店の失敗が明らかとなっていくころのこと。〈失敗が明らかになれば、非難は僕に集中することは間違いなかった。当時の西武鉄道の社長や専務、彼らと頻繁に会って僕への憎しみの燃え上がりを煽っている異母弟の表情が、僕には見えるようだった。僕の弱みは、自分と彼らとの間にはどこか異質なものが流れているという違和感を否定できないことであった。肌合いの違いというのだろうか〉不動産に傾斜する父と流通・小売に取り組む堤清二の間に生じた亀裂。〈独裁者はどんなタイプの人間でも猜疑心が強く嫉妬深い。一番安全な行き方は、あまりテキパキと仕事はせず、熱心なのだが能力が低いと思われている状態を保つことだ。そして時々甘えるのだ。しかし、そうした態度を取ること、その結果として地位を確保し偉くなることは、僕の関心外のことであった。やり過ぎて睨まれ追放されるなら、それは僕の存在証明になる。そう思っているのに、父は僕を抑えようとしなかった。流通とか小売という事業にあまり強い関心がないようでもあった。その結果、西武鉄道の幹部や異母兄弟にとって僕は危険な存在と見られるようになった。あるいはそれは、父の望むところであったろうか。僕にとって、この頃になると孤立は常日頃の状態になっていた〉1964年4月、心筋梗塞で倒れた父・康次郎、最後の日々。〈その日、僕は異母弟の一番上の義明を病院の近くのレストランに誘い、今度はむずかしいかもしれないからその覚悟をしておくように、万一の時は助けるから心配しなくていい、僕は後を継ぐつもりはないからと話した。二十六日の朝、父は口からいかにも苦そうな茶色の液体を吐き、それが合図であったかのように呼吸が止まった。三上医長が聴診器を当て耳からそれを外して掌を合わせた。義明が驚くほど大きな泣き声をあげた〉癌に冒された母・操のカナダ行きを断念した時――。〈堤康次郎が残した家族の構成はかなり複雑であったが、その中で母の系列には僕と妹の邦子とがいて、それとは違う系列には男ばかり三人の子供がいた。父親の死後、そちらの長男(引用者注:義明氏)が家督を継いだのだが、彼は猜疑心が父親譲りで強く、出来のいい二人の弟をことごとく圧迫し、末弟は兄の抑圧を避けてカナダのトロントでホテルの経営を見ていた。僕の母は、戸籍上も妻になっていたので、系列は違うのだが、その弟たちのことも気に掛けなければならない立場に立たされていたのである。彼女のカナダ行きはその末弟を励ますのが第一の目的であった〉(2013/12/6)
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