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新解さんの謎

辞書の中から立ち現れた謎の男は、魚が好きで苦労人、女に厳しく、金はない――。「新解さん」とは、はたして何者か?三省堂「新明解国語辞典」のページをめくると、あなたは濃厚な言葉の森に踏み込んでしまう。【恋愛】【合体】【火炎瓶】【浮世】【動物園】……数々の、あまりに親切な定義に抱腹絶倒しながらも、「新解魂」に魅せられていく、言葉のジャングル探検記。“紙”をめぐる高邁深遠かつ不要不急、非パソコン的世界からの考察「紙がみの消息」を併録。

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 既成秩序や枠組みを超えた感性をいかんなく発揮した活動で知られた前衛芸術家であり、尾辻克彦の名で芥川賞(『父が消えた』)を受賞した作家でもある赤瀬川原平が亡くなりました。東京・四谷の路上で、上っていっても入り口のない階段を発見した赤瀬川原平、南伸坊(イラストレーター)、松田哲夫(筑摩書房編集者=当時)の三人によって「不動産に付着して(あたかも芸術のように)美しく保存された無用の長物」が「トマソン」と名付けられ、一躍話題となりました。1972年(昭和47年)頃のことで、プロ野球の読売ジャイアンツにやってきて4番に据えられながらほとんど活躍できずに終わった、愛すべき元大リーガー、ゲーリー・トマソンの名前に由来します。空振りするために4番に据えられているかのような、その姿が「美しく保存された無用の長物」にぴったりだというわけです。
 超芸術トマソンは一種の社会現象化して、「路上観察」ブームを巻き起こしますが、この路上観察の視線を、「辞書」という文字の広大な海に向けて生まれたのが、本書『新解さんの謎』です。新解さん、すなわち『新明解国語辞典』(三省堂書店刊)を読んで(辞書を使って言葉を調べるのではなく)、フツーの辞書から見れば、とんでもないと言われてしまいそうな、新解さんの逸脱した世界を探索した記録です。赤瀬川原平の超芸術的目線なくしてはなしえなかった探索記録です。きっかけを与えたのは、仕事の合い間に路上観察をしている知人の女性。本書では「SM君」としてしばしばというか、著者との会話、著者へのレポートという形で出ずっぱり、重要な役割を果たしています。赤瀬川原平の「新明解観察」は、深夜11時、SM君からの電話でいきなり始まります。

〈「わたしはいま、しんめいかいに来てるんです」
「え?」
 こんな夜中に路上観察ではないと思うが、何か様子からして物件を見つけたらしい。
「どこにいるって?」
「しんめいかいです。じしょの」(中略)
「なに、あの三省堂の辞書の?」
「そうなんです。その一三七九ページの中段に来てるんです。【恋愛】のところです」
 これはちょっと危ない。夜の十一時である。電話で、いきなり辞書の「恋愛」である。これが見知らぬ女性だったら私は即座に電話を切る。最近の見知らぬ女性は恐ろしい。でもこのS君は友人の娘さんで、路上観察学者である。女性では珍しい。好奇心旺盛なだけでなく、ちゃんと頭脳明解な人だ。明解か。〉

 赤瀬川原平は、いまは娘さんが使っている新明解を持ってきて、SM君が指摘したページを開き、【恋愛】の見出しを探します。
『新明解国語辞典』の【恋愛】の項目はこう書かれていました(アクセントの型を示す記号は省略します)。
[れん あい【恋愛】─する 特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。「─結婚・─関係」]

 深夜11時に始まった著者とSM君の電話に戻ります。
〈私は変な気がした。読書のような気持になった。辞書なのに。
「何これ、いま見てるけど」
「凄いんですよ。凄いと思いません?」
「いや、たしかにこの通りだよ。この通りだけど、ちょっとこの通りすぎるね」
「そうなんです。その感じなんです。こんな辞書ってほかにあります?」
「うん、合体ね。恋愛の説明に合体まで出るか」
「凄いんです」
「しかも、出来るなら合体したいという気持を持ちながら。この“出来るなら”というのが……」
「そうなんです。真に迫るんです」
「出来るなら、ねえ。辞書ってここまで書くのかな」
「いえ、この辞書が特別なんです」
「ふうん、新明解……」
「もう黙っていられなくて」
「たしかにね“常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる”なんて、辞書にあるまじき細かさだな」
「もう文学です。訴えているんです」
「そのダメ押しがまた(まれにかなえられて歓喜する)。これをわざわざ丸カッコに包んで出している」
「正確なんです」
「合体が、まれにかなえられて歓喜する、そうだったよなあ、恋愛なんて」
 いけない。夜の十一時である。相手はまだ若い女性だ。〉

 え、国語辞典って、こんなに面白かったの!――目からウロコの思いがした人も多いのではないでしょうか。辞書がすべて、“文学”の域にあるわけではありません。むしろ多くの辞書は保守的です。ちなみに、私が小学館時代に関わったジャパンナレッジ(辞書辞典検索サイト)で【恋愛】を調べてみました。日本最大の国語辞典『日本国語大辞典』(小学館刊)の語釈は「特定の異性に特別の愛情を感じて恋い慕うこと。また、その状態。こい。愛恋」。まっとうです。「恋愛」という言葉の定義を正しく理解はできるかもしれませんが、面白くはありません。実感もともないません。「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態」と書く新明解がいかに凄い辞書か、少しわかってきました。

〈「それでわたし、たまらずに〝合体〟を調べたんです。二二九ページです」
 積極的である。相手の方が先を行っている。私も慌てて後をついて行く。〉

[がっ たい【合体】─する (一)起原・由来の違うものが新しい理念の下(モト)に一体となって何かを運営すること。「公武─」(二)「性交」の、この辞書でのえんきょく表現。]

〈「……ここではむしろ“二”です。“この辞書でのえんきょく表現”。何か辞書なのに、自己主張を感じませんか」
「たしかに匂(にお)うね」
「もう大変に匂います。わたし以前からこの匂いが気になっていて、最近ちょっと記録をとってみたら本当に凄いので、夜分すみませんでした、こんなお電話して」「まだあるんですね」
「もうたくさんあるんです。明日すぐにお送りします」〉

 翌日届いた速達の郵便物。SM君がまっさきにあげてきた項目は「性交」。恋愛→合体ときたら、「性交」に向かうのはフツー、自然の流れと言っていいでしょう。

[せい こう ─カウ【性交】─する 成熟した男女が時を置いて合体する本能的行為]

 著者はこう続けます。
〈私はこの文中の〝時を置いて〟というのに感動した。時を置かずになしていたら、それこそもう頬はげっそりと落ちてふらふらになる。人生に一、二度はそういうことがあるものである。一、二度でなく、二、三度かな。いけない、私も新明解国語辞典みたいになってきた。
でもいいなあ、時を置いて。この親切な実感。一週間か。あるいは二日とか三日とか。人によっては一月、あるいは一年ということもある。私は七年という人を知っている。
いけないなあ、考えることがリアリズムになりすぎる。単なる辞書なのに。これは明解というより、実感国語辞典だ。〉

『日本国語大辞典』の「性交」の語釈は、「男女が性的交わりをすること。交合。交接。房事」と、やはりそっけありません。“時を置いて”もなければ、“合体”もなく、“性的交わり”。あくまでも直接的、説明的で、辞書らしいと言えるのかもしれませんが、新明解に色濃い、どきどき感はありません。
 SM君の報告には、もうひとつ新しい発見がありました。新明解がいかにも新解さんらしくなってきたのは、じつは三版(1981年)、四版(1989年)からで、それ以前の初版(1972年)、2版(1974年)では、「恋愛」の語釈は「一組の男女が相互に相手にひかれ、ほかの異性をさしおいて最高の存在としてとらえ、毎日会わないではいられなくなること」とふつうの辞書表現となっていたという。それが、1981年には「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態」と書き改められていくのです。辞書は生きものということが実感できる変化です。
さて「家出」「陰茎」「動物園」「遠足」などなど、赤瀬川原平による新明解の見過ごせない項目の検証はまだまだ続くのですが、最後にひとつだけ紹介しておきましょう。
[ぼん じん【凡人】自らを高める努力を怠ったり功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人。[マイホーム主義から脱することの出来ない大多数の庶民の意にも用いられる]]

 三浦しをんのベストセラー『舟を編む』は辞書編集者を主人公に国語辞典編纂の世界を描いた仕事小説ですが、ミスを恐れぬ攻めの姿勢で編纂された新明解。その新解魂を存分に楽しむ赤瀬川原平の辞書紙面観察。多才なアーティストが私たちに遺してくれた一冊の奇書です。ちなみに新明解(第7版)は「奇書」を「構想がずば抜けておもしろく、他に比べもののない本」としています。
(2014/11/7)
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