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妖説太閤記 (上)

信長の妹・お市の方に魅入られた藤吉郎は、「天下もとるが、女もとる」とばかり、出世の野望に燃えた。半兵衛と官兵衛という参謀を得て、巧みな弁舌と憎めない面相で正体を隠しながら、冷徹な権謀術数でライバルを蹴落とす。「本能寺の変」すら、天下をとるために仕組んだ筋書きだった。風太郎版・異色歴史小説!

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豊臣秀吉といえば、貧しい農民の出ながら、その努力と知恵によって戦国の世を生き抜き、太閤の位まで上り詰め天下を取った英雄との評価が一般的です。かつて田中角栄が佐藤栄作の長期政権の後継を大蔵官僚出身のエリート福田赳夫と争って総理の座についた時、日本中が「今太閤」ともてはやし熱狂的な田中角栄ブームが日本列島を席巻しました。秀吉の別名であった「太閤」にはそれほどプラスのイメージが色濃いのですが、本書『妖説太閤記』(上・下2巻)は、立身出世を果たした英雄=秀吉像を徹底的に洗い直し、戦乱・下克上の世を徹底的なエゴイストとして生きた男として描ききっています。一歩引いた視点から人物や歴史を見直すのを特長とする山田風太郎らしい、もう一つの秀吉物語となっています。冒頭にこんなくだりがあります。野武士の一団が、東へゆく公卿(くげ)の奥方一行を襲った。逃げまどう京女たちは、裸にむかれ、ねじ伏せられた。
〈「来い、平六!」と、つみあげた荷のそばに、女をひとりつかまえている大男のところへ駈けもどった。ぬけめなく彼はあらかじめいちばん美しい女の乗っている輿に眼をつけて、平六という男につかまえさせてあったのだ。「ついて来い、平六!」ほかの連中に気づかれて、横取りされてはたまらない。一町も離れた場所まで駈けてゆくと、彼は立ちどまり、「そこに下ろせ」と、平六に命じ、そして、もう魂を失ったもののように立っている女に、「やい、寝ろやい」と、さけんだ。――が、女は、彼の声もきこえないようにまだぼんやりと佇(たたず)んでいる。月光におぼろおぼろと浮かぶその高貴な美貌(びぼう)を見ると、彼は口がからからにかわき、「おい、寝てくれろ。・・・・・・」と、やや気押(けお)された声を出した。女は眼をあげた。その眼は、恐怖というより、それを通りすぎて観念しきった覚悟のひかりをたたえていた。そして彼女は平六を見た。
「おまえ。・・・・・・」と、彼女はあえぐようにいった。「せめて、おまえから。――」平六にいったのだ。隆々たる体格をしているが、うすばかの平六にいったのだ。――ようがすか? そんな気弱な眼をむける平六をにらみつけ、彼は女の方へ一歩踏み出そうとした。すると女がいとわしげに眉をひそめてさけんだ。「おさがり、鼠のような男! おまえがそれ以上ちかづくなら、わたしは舌をかんで死にますよ!」その夜の襲撃のすべてを計画し、野武士の全員を指揮した、実質上の隊長たる彼に、女はそういったのだ。死ね! とわめき返そうとした声はのどにつまった。鼠に似た彼の顔が、くしゃくしゃっと猿みたいに赤くなった。これがはじめてではない。彼がとりかかろうとする女は――美しい女は、みんなこれと同じ意味の言葉を彼に浴びせかけたのである。彼はがっくりとなった。〉〈「惨憺たるものだな、おれの人生は」
地蔵堂の縁にもどって、冷え冷えとした秋の日の下にまるくなって、膝をかかえこみ、彼は声に出してつぶやいた。〉「猿」と呼ばれた彼(後の秀吉)は尾張の海部郡蜂須賀村を本拠とする野武士蜂須賀党に入ってめきめきと頭角を現した。年少で、体格こそ貧弱だが、とにかく敏捷(びんしょう)で、ぬけめがなく、はしっこくて、ずばぬけて頭がきれた。まだ少年といっていい年なのに、乱波(らっぱ。今風にいえばスパイ。偵察、諜報のみならず、流言、放火、暗殺などの使命も果たす)や泥棒の采配を彼から受けて、誰も怪しまなくなった。彼は毎日、愉快な充実した気分で暮らしていたが、ただ一つ大いに物足りないことがあった。〈女だ。だれも、それほど買っている彼に、女らしい女をあてがってはくれないのだ。(中略)これだけが彼の唯一の不平であった。彼はいたみかけた干魚みたいな女を抱きながら、いつも目をつぶって、幻の女人を頭にえがいた。はっきりとその容貌までえがいたわけではない。いままでの放浪時代あちこちとかいま見たさまざまの美女を混合したもので、要するに高貴な感じのする女人の幻影であった。〉内向する「女人の幻影」は、後に織田信長の妹・お市の方への秘かな想いへとなって秀吉が天下取りに向けてうっていく布石や謀略にも微妙に絡んでいくのですが、それにしても、「本能寺の変」――信長に対するクーデター決行に明智光秀を追い込んでいった秀吉の周到な仕掛け、謀(はかりごと)の凄まじさです。自らの野望の実現のためには蜂須賀党の乱波を駆使し、利用できるものなら僚友であろうが誰であろうと利用していく秀吉という類い稀な人間。その奥深いところに光をあてていく山田風太郎の筆力に圧倒される思いです。ちなみに秀吉の名を信長からもらうはるか前、藤吉郎はねね(後の北の政所)を妻としますが、この時藤吉郎26歳、ねね13歳です。吉川英治『新書太閤記』をのぞいてみると、「17、8の小柄な麗人」としているが、これは明らかに吉川英治の嘘。やむをえない「創作」だろうと山田風太郎は指摘しています。政略的な必要から幼童と幼女の結婚がざらにあった時代ではあったものの、藤吉郎自身にその年齢の少女を性的な対象として異常だとは感じない嗜好(しこう)があったとみるべきだろうというのが山田風太郎の解釈です。「妖説」という言葉をタイトルに入れた意味もうなずける気がします。(2013/6/14)
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