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イニシエーション・ラブ

「必ず二回読みたくなる」と絶賛された傑作ミステリー。僕がマユに出会ったのは、人数が足りないからと呼びだされた合コンの席。理系学生の僕と、歯科衛生士の彼女。夏の海へのドライブ。ややオクテで真面目な僕らは、やがて恋に落ちて……。甘美で、ときにほろ苦い青春のひとときを瑞々しい筆致で描いた青春小説──と思いきや、最後から二つめのセリフ(絶対に先に読まないで!)で、本書はまったく違った物語に変貌してしまう。

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 明石家さんま、大竹しのぶ、片岡鶴太郎主演のTV連続ドラマ「男女7人夏物語」(1986年)、「男女7人秋物語」(1987年)が大ヒットし、西武の工藤公康(福岡ソフトバンクホークス監督)、清原和博(元プロ野球選手)、渡辺久信(元西武ライオンズ監督)を指して使われ始めた「新人類」が流行語になった(1986年)。同じ86年に登場したハイレグ水着が大流行し、1981年に販売が始まったハッチバック型乗用車、ホンダシティが若い世代の熱い支持をていた――そんな1980年代の若者を乾くるみが描いた『イニシエーション・ラブ』(文藝春秋)が、映画(堤幸彦監督、主演:松田翔太・前田敦子・木村文乃)の大ヒットもあって売れ続けています。
 読者の間でかわされる話題の焦点は「必ず2度読みたくなる」ところにあります。私自身、実際2度読みをしました。1度目は、1980年代の社会や風俗がふんだんに盛り込まれ、80年代の匂いが懐かしい、まっとうな恋愛小説として。そして、その最後の場面――恋愛の成就を期待して読み進んだ最後の場面で、「え、どうなっているの? そんな話はなかった・・・・・・」期待されたエンディングは裏切られ、物語はふいに閉じられます。
 読者に残されるのは、戸惑いと混乱です。いったいどこで、読み間違えたのか? 物語の始まりに戻って読み直すのは、自然の成り行きというべきでしょう。ミステリー作家である乾くるみは、そうなることを計算して「恋愛小説」に周到な仕掛けを盛り込みました。
 その術中にはまって2度読みに進んだ私の前に表れたのは、「恋愛小説」の装いをまとった「ミステリー」の傑作――恋に落ちた男女の一途なやりとりと見えていたことが、2度目に読んだ時には、ミステリーとしての重要な布石となっていたことに気がつきます。仕掛けられた布石がいくつも連なって、1度目とはまったく異なる物語の世界が見えてきます。

 謎を解く鍵は、本書の構成(スタイル)がアナログレコードのA面、B面を意味する「side-A」side-B」に分けられているところにあります。
[side-A]
 揺れるまなざし(小椋佳、1976年)
 君は1000%(オメガドライブ・杉山清貴、1986)
 YES-NO(オフコース、1980)
 Lucky Chanceをもう一度(C・C・B、1985)
 愛のメモリー(松崎しげる、1977)
 君だけに(少年隊、1987)
[side-B]
 木綿のハンカチーフ(太田裕美、1975)
 DANCE(浜田省吾、1984)
 夏をあきらめて(サザンオールスターズ/研ナオコによるカバー、1982)
 心の色(中村雅俊、1981)
 ルビーの指輪(寺尾聡、1981)
 SHOW ME(森川由加里、1987)

 いずれも1975年~1987年にヒットしたラブソングのタイトルです。Side-A1「揺れるまなざし」は、数学科4年の鈴木くんが友人に頼まれて参加した合コンから始まります。4人の女性が入ってきた時、合コン初体験の鈴木くんの目が2番目の女性に瞬間的に吸い寄せられます。

〈髪型に特徴があり、男の子みたいに思い切ったショートカットにしていた。そのせいで色白の顔が額の生え際まで見えている。その顔にも特徴があった。いつもニコニコしていたら、それが普段の表情として定着してしまいました、というような顔立ちで、世間的にはファニーフェイスという分類になるのだろうか。美人ではないが、とにかく愛嬌のある顔立ちだった。外に比べたらはるかに薄暗い店内の一角で、彼女のその顔の部分だけが、パッと輝いているようだった。
 スタイルは小柄でほっそりとしていて、女性というよりは女の子といった感じに見えた。涼しげな白のブラウスに、紺色で膝丈のスカートを穿いていて、原色や黒を基調とした他の三人のファッションと比べると、印象はいたって地味なのだが、自然体な感じがして、僕には好感が持てた。
 彼女がマツモトユウコ(引用者注:鈴木くんを合コンに誘った友人・望月が付き合っている文学部2年生)ではありませんように──と瞬間的に願った。ということは、つまり僕はその瞬間にはもう、恋に落ちていたのだろう。自分でそのことに気づくのは、もう少し後になってからのことだったが。〉

 舞台は1987年の静岡市。ショートカットの彼女――成岡繭子(なるおか・まゆこ)さんは、市内の歯科クリニックで歯科衛生士として働く20歳。
鈴木くんと成岡さんが初めてかわした会話――。
〈自分一人では女性を楽しませることができない。だから女性は苦手だと今まで思っていた。しかし今回のようにグループで接するのであれば──望月たちが一緒ならば、そして女性を楽しませる役を彼らに任せてしまえるのならば──そうした義務感さえ伴わなければ、やはり女性と一緒にいるというのは基本的に楽しいことなのだと実感できた。
 特にあの、成岡さんのような、表情を見ているだけでこちらがウキウキしてくるような、そんな女性がメンツの中にいる場合には。 
 などと考えながらトイレを出たら、すぐそこの暖簾(のれん)のところで本人と鉢合わせしてしまった。僕は必要以上に慌ててしまい、会釈だけしてやり過ごそうと思っていたら、彼女のほうから声を掛けてきた。
「あの、鈴木さん?」
「はい」不思議な表情を見せるあの目に間近から見据えられる形になって、僕は少しだけうろたえる。
「あの、ここを出た後で、みんなでカラオケに行こうって話が出てたんですけど……鈴木さんも一緒に行ってくれますよね?」
「あ。はい」と反射的に答えていた。その後で、そうか次もあるのか、と思った。もし店を出たところでそういう話になったのであれば、たぶん僕は、一次会だけで義務は果たしたからといって、その手の誘いは断っていたのではないかと思う。
「よかった」と言って成岡さんはほっこりとした笑顔を見せた。彼女との距離がたったの数十センチしかないことを不意に意識する。僕は彼女の表情に見とれていた。それが不躾な行為だったと自省するのは、彼女が小さく会釈をしてからその場を離れ、女子トイレのドアの向こうに消えた後のこと。〉

 2週間後、同じメンバーで海へ。女性たちが車から降りたっところで、鈴木くんは息がつまりそうで、眩しすぎて彼女を直視できません。盗み見るようにしてその姿を見る。

〈成岡さんは麦藁帽子を被っていた。肌を露出した肩のあたりに、網目模様の影が落ちている。赤茶色のタンクトップに、その下にはすでに水着を着ているのだろう、白い肩紐が首の後ろで結ばれているのが見えた。白地に模様の入ったロングスカートが微風になびいていて、足元は白のサンダルを履き、毛糸を編みこんだような造りの手提げを左肘にかけて立っている姿は、そのまま写真にして飾っておきたいほど魅力的に見えた。場所は駐車場ではなく海がいい。右手は麦藁帽子を押さえ、空を眺めるように顔をあお向けて、他には誰もいない砂浜を歩いているところを、左側からカシャッと撮る……。〉
 
(彼女と再会できたという、ただそれだけのことが、これほどまでに僕の胸を熱くするなんて)目を閉じ、息を大きく吐くことで何とか鎮める鈴木くんですが、そんな彼に成岡さんが語りかけます。ほかのメンバーは海の中です。

〈「・・・・・・数字を覚えるとかも得意?」
 そう言って、彼女は不意に六桁の数字を口にした。僕は言われるまま、数字を一度頭の中で復誦した。
「ええ、大丈夫です。憶えました」
「じゃあ言ってみて」僕は暗誦してみせた。「もう一回」僕は繰り返す。
「じゃあそれ、忘れないようにしておいてください。それ、ウチの電話番号だから」
 顔を寄せて、そんなふうに彼女が囁いた・・・・・・

 ケータイのない時代。電話はいうまでもなく、1人1台ではありません。もし彼女以外の人が出たらどうしよう。鈴木くんは悶々とした日々を送り、やっと記憶の岩盤にしっかりと刻み込まれた六桁の数字をプッシュした時、すでに1週間が過ぎ去っていた。実家を出てひとり暮らしの彼女とデートの約束をして、二人の交際が始まります。
 2回目のデートの時、彼女のアドバイスに従ってメガネをコンタクトに換え、流行のファッションを身にまとって現れた鈴木くん。二人は「マユちゃん」「たっくん」とよびあうようになります。鈴木くんは「ユウキ」が普通だろうけれど、「夕樹」がカタカタの「タ」に「き」(樹)だから「たっくん」という少し強引とも思える命名なのですが。
 とまれ、最初の合コンメンバーとテニスをして別れた9月15日の夜――鈴木くんとマユは電話で告白します。
〈「・・・嫉妬するってことは、相手をそれだけ愛しているってことの表れだし」
 彼女はそうして「愛している」という言葉をサラリと口にしてのけた。聞き流してしまいかねないほどさり気なく――しかしその言葉は確実に、僕に向けて発せられたものだった!
 胸がカーッと熱くなる。自分の全身から彼女に対する愛情が溢れ出しそうな気がした。頭の中が飽和状態で、とにかく何か言わないと、という気持の中で、「マユちゃん」と言葉が自然に出ていた。
「え?」
「――僕はあなたのことが好きです。・・・・・・愛しています」
 気持はずっと前から抱いていたが、ちゃんと言葉にしたのはこれが初めてだった。
 こめかみで血流がドクドクと脈打っているのが感じられた。
「ありがとう、たっくん。・・・・・・私もたっくんのことが好きです」〉
 
「部屋に来て」と繰り返した彼女の言葉を耳にした鈴木くんは、ジョグの鍵を引っ掴んで部屋を飛び出し、彼女のアパートに駆けつけます。初めてのセックスの後、鈴木くんはそのまま彼女の部屋に泊まります。二人とも裸のままで過ごし、裸のままで眠った。部屋にいる間中、二人の身体は常にどこか触れ合っていた。乾くるみは「80年代の恋愛」をこんなふうに描きます。
 鈴木くん(たっくん)とマユは、クリスマスイブをホテルで過ごします。
〈今夜は、世界中の恋人たちがそれぞれに幸せな時を過ごしいることだろうが、それでも今の僕たち――僕とマユの二人には、誰もかなわないだろうと思った。〉

 乾くるみはside-Bで、タイトルの「イニシエーション・ラブ」について、「イニシエーション」とは「通過儀礼」の意味、つまりこの世の中には絶対などということはない、それをわかるようになって初めて大人になるのだと書いています。大人になるプロセスとしての「恋愛」。
 鈴木くんとマユが至った「幸せ」の絶頂の先に、乾くるみが用意したミステリーへの転回――アナザー・ストーリー。あなたはいま、ようやくその入り口に立ったところです(2015/6/5)
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